2018
05/25

1960年5月24日は私の4歳誕生日


4歳の誕生日と言っても、特別にお祝いされる訳でもなかった時代、うつろな記憶を辿っても、写真のような光景は見てない。

志津川地区を襲った5m前後の津波は、南米チリ国からハワイを通過し、三陸沿岸の志津川町に到達した。海岸の特別な引きに人々は海に向かったとも聞く。41名の町民が亡くなった。
自宅の本浜町から十日町を急ぎ、城洋新聞社の脇を通り、避難所の坂道を歩き「上山緑地公園」に逃げた。当時の記憶に母は自転車で、私を後ろの荷台に乗せ、弟を背負い兄を連れ避難した。
あれから51年後に津波が町を消し去った。日本の海溝の断層によるものとは違う。断層の津波は78年前の「昭和三陸津波(岩手県沖)」で、町民(歌津)87人が亡くなった。
過去の津波から見ても、10mの市街地の嵩上げ、8.7mの防潮堤・河川堤防は必要なのかと、過去の津波の歴史からも感じる。繰り返される三陸地方の津波から、ここまでの時間を掛け、町を大きく変える必要があったのだろうか? ひと時の津波の脅威から、振り返ると「職住分離」の町づくりの計画は、国の考える「ゼネコン」「UR都市機構」の仕事を造った、事だっただけと疑いたくなる。

山からの恵みが海に注ぎ、その河口で町民が暮らす、これまでの町の営みを変えず、再建を図った方が良かったのではと、今は決定を私は後悔している。人間は自然には勝てず、自然の流れの中に身を委ね、無くなったらまた再建すれば良い。津波の避難路を最大限に確保して、そんな考えに今はある。人口はこんにも減る事は無く、町つくりは一から残った町民で頑張った方が良かった気がする。今言ってもしょうが無いではなく、大津波からの「再建の認証」は、南三陸町の姿に、津波発生を予想する多くの自治体に学んで欲しい。

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ついこの間は、南三陸病院の近辺にクマ目撃があり、今日の新聞では気仙沼の大島にクマが海を泳ぎ渡っていた。その後に島内でクマが堪忍された。自然界の動物の生育地に人間が立ち入った事からだろう。宮崎監督の「平成のポンポコ…」の映画での、こんな警告を思い起こす。


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