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2018
04/04

津波の伝承


嫁ぎ先の叔母の家は、小さな漁村の高台にあった。しかし、入り江の漁村は津波の増幅により、写真の建物の二階にまで達した。しかし、浦山があり津波に家が流されないで済んだ。
私の家は市街地の真ん中にあり、コンクリートと木造建築で、頑丈な建屋のせいで、基礎と一階のコンクリートの壁だけは残ったが、昭和の20年代の工場と増築2階は基礎部分の土台も抉られ、赤い車がその土に埋まっていた。
周辺の家々も基礎部分だけで、津波で家が持ち上がり跡形も無くなっていた。その為か震災後に自宅を見に行く人は少なかった気がする。

震災の津波から1か月頃だろうか、津波の後片付けに親戚・ご近所・ボランティアが集まった。何から手を付けたら良いのか、そんな状況が町の至る所であった。震災直後は家族も被災した建物を眺めるだけだったが、いつまでも何も居ないでいられないと、危険な被災家屋に入り、大切な物・思い出を探し出す姿があった。家が残れば物も残るが、市街地の7割は全てが流失し、自衛隊やボランティアが探し拾った写真など、多くの思い出を集め、入谷地区の中学校に集積し、被災した多くの町民が訪れていた。
私も2度3度と行ったが、何一つも見つからなく、知人が我が家の物らしきものを持って来てくれた。

先月にNHKの方が『「徳性寺」さんの写真ありますか』とメールが頂き、当時の我が社のデータから探した写真の一枚です。
これが2011.3.11の東日本大震災の一部です。南三陸町では約600名の方が死亡し、今だに211人の方が不明です。南三陸警察署では「月命日」に署員の海岸での捜索を続けている。
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