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2017
10/11

2.防災庁舎の議会の解体決定を無効とした

≪合併・復興の佐藤町政の検証2≫
2.防災庁舎の議会の解体決定を無効とした
2011.3.11の大震災で防災庁舎は3階屋上まで水没した。対策本部を3階の危機管理室に置き、午後2時45分の異常なまでの、震度4の3分間の大地震があり、最大で震度6強のこれまで体感した事の無い、大地震・大津波が南三陸町などの、三陸沿岸の港町を襲った。その被害は東北4県に留まらず、関東・北海道にまでの津波被害をもたらした。地震は日本全土にまたがり国土を揺らした。この異常なまでの大地震に政府も最大限の避難を指示すれば良かったと思う。今後はこの東日本大震災の教訓を、日本の防災対策に役に立つよう議論を高めて欲しい。
南三陸町の対策本部長の佐藤町長の、この大震災の感触と対策は甘かったと振り返り思う。「津波防災の町」として全国に発信していたにしては、この大地震発生から、大津波の予想は地域民なら誰でも想定できた。それが町のトップの対策の甘さはどこからきているのか。それは佐藤町長の性格と、別な意味での自分発信のチャンスと思ったのかも知れない。そこに津波対策の甘さがあった。職員43名を含む町民・来町者など600名の被災死と不明者200名を出し、約800名の死者を出す事となった。毎年5月24日の「避難訓練」の成果が何処にも発揮できなかった。昭和35年のチリ地震津波から57年間の、地震対策・避難訓練を生かす事ができなかったのは、佐藤町長が訓練をイベントと捉えていたのではないかとも思う。

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志津川地区の避難所は「上の山緑地」の小高い場所で、今回はこの場所まで津波は達した、志津川地区には16mもの津波が襲来した。この避難所に訓練では佐藤町長を先頭に自衛隊の隊列が続き、町長の姿に、何か誇らしい態度に違和感を感じていた。テレビでもこの時期をベント的に放映され、大震災の恐怖は薄れ、大津波の記憶がかすれて行った。町の観光の拡大と商店街の活性化を描く、町のトップとしての政策があり、その発信のチャンスとして毎年の訓練があった。佐藤町長の支持で「町民全体」と中学生も動員して、町の大イベントとしての訓練を感じた。ここからも佐藤町長の政治姿勢に勘違いがあった。

こんな事から「防災庁舎の解体」を殉職職員の家族は、庁舎の解体を望んだ。「怖い」「気分が悪くなる」「津波を思い出す」「見たくない」など、議会の議論の傍聴に多くの住職家族・町民とメディアが押し掛けた。こんな状況下で議会は「防災庁舎解体」を採決した。
2013年10月の選挙により新しい議員が選挙で当選した。更なる与党(町長支持)の数が拡大した。殉職者の子供が「保存」を訴え、町長・議会は保存の主張を、議会に聴取の為に参考人招致をした。二人の若者も同席して再度「解体決定」の議論を深め、議会の決定がある中で、再度の「防災庁舎」の保存か解体かで
保存が採決で決まり、解体から保存への防災庁舎が残る事となった。
その後押しには県の「20年間保存」の提案があった。保存の財源が町には無く、その補助金が確保され、町長の議会決定を覆す工作に寄るものと考える。もうひとつ「パブリックコメント」があった。住民の意見を聞くと言う、町長の議会の決定を無効にする策略があった。

若者たちの参考人招致、住民からの意見など、議会の決定から自分の考える構想へと進める工作だ。「決められない町長」「議会軽視」がここにあり、議会の「行政のチェック機能の破壊」がここに見られる。
4年前の私が議会の現職の時の採決で「解体」が決定した。殉職家族の想いが叶った場に同席した。当時の委員長は当時の議会決定を覆してはいけない、「議会政治への反逆行為」と、解体に賛成とその説明を述べた。
こうした佐藤町政を私は、「多くの殉職職員の家族と震災死の遺族の心をもてあそぶ自分本意町政政治」と、この行為に大異論を言い続けたい。議員の改選で
当選が叶うならば、「合併・復興の佐藤町政の検証」をしていきたい。



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