2017
07/18

ついに「愛と死と希望を見つめて」ブログが4001回目を迎えた

11年前に会社経営が私一人に委ねられ、若い従業員を、一人また一人と雇用しその数はピーク時に6人となり、社員の入れ替えがある中で、退職もあり試験採用で適正外と言っても、募集すれば多くの若者が入って来た時代だった。
2007年9月7日の一回目のブログが残っている。

20070907154339 - コピー
2007年9月7日「初めてのブログ発信」
午前4時に目が覚めました。台風9号が宮城の地にも入ってきて南三陸も暴風雨の範囲の中にあります。
町には人の影はなく、横なぐりの雨で向かいの草花も大変そう。我が家も雨漏りで洗面器・タオルで急場をしのいでいます
天変地異には、人間の力は小さすぎます。過ぎ去って行くのを静かに待ちましょう。

20070918132115[1]
2007年9月16日「さよなら母校」
統合合併にあたり閉校のなる小学校の最後の運動会にでかけてみました。子供たちとPTA、部落民あげての大運動会に30℃をこえる太陽も応援しているかのような秋晴れの中、こども達の汗と笑顔がはじけ飛んでいました!
 私(会社)のホームページも今日で500件のアクセスを達成しました!一年での達成、きって少ないんでしょうね?ヤフー。グーグル・楽天での検索サイトに登録なしでのこのアクセス数は結構いい数字じゃないかと自負しております。
 9月中でのこの天気に部屋で会社で扇風機をまわしている状況です。午前には農家産直に出掛け、枝豆・ゴウヤ・栗・インゲンを800円、普通スーパーで勝ったら倍はとられる位の料金の買い物ができました。産直では形の悪い(大根・なす)野菜を良かったら持っていってと!凄いサービス!是非こんど出掛けてみて下さい。ガソリン代ぐらい入れても得ですよ「お母さん」。

CIMG5712.jpg
社長から40歳の時に経営を任せられ、共働経営の弟が突然会社を辞め、パソコンを学んだ女性従業員がその窮地を救ってくれた。そして、また一人優秀な人材が入社し当時は若者が未知溢れ、ホームページや数々のブログを始め、私が力を入れたのが「愛と死と希望を見つめて!」です。多くの仲間や興味を持ってくれた人達が、2007年9月7日からこれまで、「187666アクセス」を頂いた。


そんな日々が続く中で、2011.3011の「東日本大震災」が発生した。
この3月11日の何気ない朝のブログ更新の後で、あんな悲惨な未曾有の大災害が発生した。812名の死亡・不明者をだした。これまでの自然の動きが大震災の予兆としてあった。

110309_115323.jpg
2011年3月11日「津波襲来」 このブログ発信の後に大津波が町を襲った!
昨日の三陸沖地震の被害調査は未だと言う行政、半面、デジタル化となった無線関係の不備・故障が歌津地区であった。漁民からの有事の際の高額を掛けた行政の取り組みの事故に、地区出身の議員からは、税金の間違いない活用をと発言で、「新設置された不具合の器具は返すべき」と強い口調で、担当者に注文を付けた。国からの補助はあるものの多額の町民の「血税」を活用しての、行政の仕事!「防災の町」をアピールしている事を思うと、地震・津波対策への取り組みに欠ける。また、「新町舎」の耐震にも不安を感ずる議員も多いが、行政の「取り組む・努力する」との言葉に終始する町長の発言に、議員との活発なやり取りがあり、議場は緊迫の様相となった。議会議員の意識は確実に「改革!」への動きに向かう。「悪しき古き町政業態からの脱出」となる事と、3月に14人の退職者と4人の新職員による新体制での行政の刷新に、意識の改革に、町民全体を考える体制で臨んで欲しい。
 
 昨日の「津波襲来なし!」との漁民以外の町民の意識が強い。テレビでのワカメ養殖施設や牡蠣いかだの影響があり、知人は「海に行くのが怖い」という。漁師の多忙の次期、一日の間をあけ今から施設を見に行くと話していた。
 行政の津波の襲来状況説明に、65㎝の潮位上昇があったと報告された。大船渡の60㎝の一波目のテンビ情報があり、国の潮位観測点はこの辺は「鮎川」と言う。歌津地区の議員からの消防団の情報だと、131㎝の報告を受けたと言う。同僚の漁師をしている方より、「それは潮位の上下値」と説明を受けていた。そうだろう130㎝の津波なら、被害発生や目視でも津波を容易判断できる。「我が町」では第4波が最大の物だっと言う。テレビの「1波よりその後の波が大きくなる」との、情報は間違いがなく、引き波・寄せ波の相乗効果がここにあるのだろう。

 昨年の2月の津波・猛暑・爆弾低気圧の、「我が町」への度重なる自然気象災害は、漁民に大きな減収と施設修理の、更なる負担・苦悩があり、こうした状況に「漁師離れ」を懸念する。昨日の農林水産業費に議論が集中した。この部分に精通する議員の厚い追求に、「簡略に!」との委員長の言葉に、それぐらい厳しい現状況なんだ!と。議場での活発なやり取りは、今までに無い情景に危機感と共に「このままでは?」との気持ちの表れで、活発議論が随所に見える議会となってきた気がする。だいたい「1年半」がたった。

 「コント55号」の坂上二郎さんが脳梗塞で76歳で亡くなった。子どもの頃の「笑い」はここから始まった。欽ちゃんの悲しみは一言ずつの思い出の言葉から感じた。土肥民主党議員が総ての役職を辞したが、議員は続けるという。政治倫理審査会議長の立場で、「竹島の領土」への軽視の発言、未熟な民主の党員の行動ばかりが目に付く。4期前後の議員の16年間の政治活動で何を学び身に付けたのだろう? 学習から実践の時期はとうに過ぎている。

 千葉の消防団員の放火があった。一月末から「100件発生」している。数件の自供をしていて「家庭の疲れやストレスからやった!」と言う。ストレスの発散・解消・対処ができないと、身体・意識に異常を発生する。皆さんは大丈夫ですか?

 
110312_055725.jpg
2011年4月2日「町消滅」
3月11日2時46分震度4の三分間の地震が発生!南三陸町を26分後に16メートルの津波が、志津川市街地を飲み込んだ!町の川添に津波がなだらかな平地を奥へ奥へと進んだ、海の涙が大きな壁となり、綺麗な町並みをドミノ倒しのように、煙を立てながら、避難した高台へと向かって来る!海から1キロを越える三階建ての県庁舎を突き当たり、二つに別れた津波が高台下の新築の建物を一軒一軒、ハリバリと目の前で倒され、別の津波の流れが交わり勢いを増して町並みに襲い繋かった!そして静寂な中に瓦礫と津波が志津川地区に留まり夜を迎えた。静寂な星空の一夜が明け、眼下の風景が写真です。
この現実を伝える時間には手段と方法に二週間以上を要しました。この現実を全国に伝え被災した人口で町の復興を願い頑張りたい!神奈川の従兄弟に発信の替わりをしてもらった。


大混乱の町民と被災地の生活の中で、ブログを欠く事は、私の当時の環境では考えが及ばなかった。22日間の無発信の中で、少しの落ち着きの中で、横浜の従弟にメールを送り私のブログへの書き込みをお願いした。
以前のような生活へ戻りつつある中で、今日の4001回目のブログが発信できる。南三陸町で暮らす一人として、ブログの通り死を迎えるまで発信を続けたい。





スポンサーサイト

【 未分類 | CO:0 | TB:× | 09:54 】

COMMENT
POST A COMMENT


















 TOP