2017
07/08

何もそんなに頑張らなくたって


昨日も多忙を極めた「分刻み」の行動だった。
宮城県印刷組合の理事として役目を果たす為、仙台市扇町の展示会場「サンフェスタ」での、オープニングセレモニー開催の9時半に間に合うよう、7時30分に家を出た。勿論、朝のブログ発信と朝食を抜く事は決してなく、6時前にはパソコンの前に座った。我が家から2分で高速に乗り、1時間5分で仙台東で下車し会場までは10分余りで到着した。
やる事は、会場の巡回とセミナーの講習だった。セミナーは日本電鍍工業の伊藤社長の、「突然の事業継承って大変ですね。3年で赤字から黒字企業にした私の奮戦記。~経営危機乗り越え前社員の夢をかなえる100年企業へ~。」と言う題名の講演会だった。まだ40歳前後の女性社長、父の突然の死により、経営の不振から10数億円の負債を抱え「企業再生機構」に入った。銀行への手形の返済と従業員の給料支給、企業の再生に奔走した娘の話だった。父からは会社の事は何も言われず、自由に大学へ、そしてアナウンサー?として活動していた。その後に友だちの多くいたアメリカで仕事を始めた時、突然の父の訃報と会社の倒産の危機があった。何も知らずに工場・自宅の財産処理との報に、自分の私物だけを取りに日本へ帰った。
金属メッキ会社で、200名の社員を抱えた大企業だった。このままで会社を閉じるのは簡単だが、社員とその後ろの家族を守る為、再建に取り組んだ。会社の厳しさを知った社員は次々に辞め、残った53人からのスタートだった。前社長に御世話になった社員が残り、「会社の事を何も知らない小娘に何ができるのか!」と、周辺の声が聞こえる中で、借金の返済をどうするかから始まった。メインバンクは勿論話にも乗ってくれず、多くの銀行に決算書・資金繰り計画を持ち総て廻った。しかし、10数億の借金に何も知らない娘の再建を、銀行もリスクを負ってまで応援する銀行は無かった。前社長の手形の乱発が重くのしかかってきたと言う。処分する物を全て処分し資金を捻出したが、返済には遠かった。会社を続ける為には、借金返済・社員の給料・原材料の仕入れ等、これは絶対に止められず、方法として借金の金利を払い元金を残し、仕入れも現金で決済し、社員の給料だけは滞る事無く支給した。更に資金の苦しさを増した時、会社の税金と更生年金の支払いを止めた。半年後に国税庁と社会保険庁から督促と回収に来たと言う。そんな時にある席上で、「なんの仕事をしているの」と、高齢の叔父さんが声を掛けてくれたと言う。今の実情を話すと「頑張りなさい」と言葉をくれた。次の日に大手の銀行の方から電話が来たと言う。その後で金利分の融資を受けられたと話す。その叔父さんの銀行からだった。会社はメッキ加工から多種多様な仕事へと移った。その事業には医療・健康などの、メッキ会社にはハードルの高い分野への進出を図った、今では2割がメッキ加工で8割い異業種で経営していると言う。…… 長いのでこの辺で次に移ります。

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町に帰り仕事の写真撮りと、アリーナで開催の「もっと知りたい認知症」の町の講演会を聴きに行った。帰って原稿を書き、事務処理をしていると同級生が来て、ここに週間の出来事を二人で一時間か語りあった。今日も仙台に行く。

悔いなく生きる事は、心の中の物を全て吐き出す。自分の心にストレスとなる物を残さない事が、老老介護の不安を取り除いている。自分の夢に向かい走り続ける事で、余計な事を考えないで済み、いつも晴々と明るい気持ちが沸き起こる。これが私の生き方です。
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