2017
06/10

志津川剣道の隆盛期に

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私が宮城県の剣道指導者として尊敬する萱場敬蔵先生が96歳で逝去された。宮城県剣道連盟名誉会長で、剣道界の最高位「範士9段」で、1976年の世界剣道大会で審判員となり、77年には全国の8段以上の大会で日本一となった。全日本剣道連盟の常任理事ゃ審判員を歴任した。宮城県の剣道の指導に尽力し、宮城県警の剣道師範を24年間務めた。
萱場先生との出会いは、志津川町で開催された「剣道東北南北大会?」で審判長を務めた。審判長として来町し終了後に、私が先生を仙台の自宅までお届けした。自宅にも招かれ強いだけでなく、上下に隔たりを持たない、人への優しさがそこにはあった。
当時の志津川剣道連盟の隆盛期がここにあり、父も5段で大会の準備委員として、県下・東北でも有数の大会を、志津川連盟が町に招致し、旧志津川小学校の体育館には多くの町民が集まり観戦した。南北に別れた選手団が志津川町内を、プラカードを持って練り歩いた写真で、今もその光景と剣道連盟の活躍を知っている。国会議員との会員の繋がりや、県連事務所としての「菅野武道具店」は、父との仙台へ行くときは何時も寄っていた。志津川と剣道連盟の密な繋がりが大きな剣道大会を町に呼ぶ込む事となった。父の偉大さはこんな所にもある。50歳を過ぎ同級生3人と仙台で「5段錬士」の称号を獲得もあり、私は足元にも寄らない、志津川の剣道の時代だった。。

≪九死に一生≫2
何とか国道まで辿り着き、磯の沢に救急車がありその中に入り暖が取れた。取りあえずベイサイドアリーナまで行き、知人が声を掛けてくれた。志津川小学校まで連れて行ってくれた。次の日は自衛隊の救援隊が、数少ない残った道から、避難場所へ優先して救助にあたり、その通行規制の中で小学校の笹原先生の被災者の救済場所まで辿り着いた。学校の保健室の医療品だけでの治療で、彼は頭の傷と太腿の傷の手当は、傷口をガムテープで塞ぐだけの治療だったと言う。怪我人が床に並べられ、小声が聞こえたと言う「彼は駄目だな!」との話しだった。「トリアージ」なのだろうか? 怪我の程度で治療順位を決める非常時の医療体制が、混乱の場で行われていたのだと思う。

こんな当時の現状の中で人は必死に命を繋いでいた。「てんでんこ」と津波の現場での避難行動は、津波が来たらとにかく自分の命を守り、皆が後で再会することを願い、大地震の後は津波が来ると、直ぐに海から離れ高台に逃げる事をして欲しい。津波が来なくても何も無かったこと事を、命が繋がったと喜ぶことで良い。

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