2017
06/08

大津波から助かった南三陸町志津川の団地


こないだ志津川中央団地の、災害復興住宅のD棟から御前下地区を撮影した。大震災時にはここ場所はただの山だった。そこを造成し職住分離の志津川市街地の団地として中央団地ができた。初めは「新井田遺跡」が発見され、調査に1年間が費やされた。土地の区画整備でも工事不良から1か月が余分にかかった。今となってはこの事を説明して伝える人は数少ない。「喉元過ぎれば……」であり、住民は安住の地を得て安堵している事と思う。

D棟の4階から津波で被害の少なかった「旭が丘団地」を望んだ写真には、発生後に私が立っていた場所が見える。擁壁の上が団地で擁壁の下には家々が建っていた。写真を見て解るように一軒だけが残り、団地の下は瓦礫で一面が覆われた。団地に向かう二つの道路は家々が津波で流され、ギシギシと折り重なり上へ上へと押し流され止まった。
擁壁の左角の家が私の叔父の家で、そこから志津川市街地に津波が押し寄せ、眼下の八幡川を遡上し、現在の志津川インター入口を越え、津波は収まった。ナウシカの「オーム」が都市を襲い静まる様子と同化して私には見える。人間の自然破壊による発展を自然が警鐘を鳴らす、自然の戒めのようにも感じる。
7年目を迎えても浸水域は大きく変わっていない。あの大震災の猛威から人々はまた、海岸近くに戻っていた。昔から引き継がれる人々の行動がここにある。これが大津波で町が消えても、多くの人が亡くなっても、「また海に戻る」と言う同じことが繰り返されていると、多くの研究者は言っている。

今日は友達の家族の葬儀で一日会社には居ない。亡くなられた人への畏敬の念を、これからも行動で示して生きたい。同級生が8人も火葬から法要に参加する。震災後にこんな席が多くなり、友達・仲間が互いに助け合い両親の死別の供養に同席している。そして悲しみを共にする。
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