2017
04/18

震災から7年目志津川地区の変貌をどうぞ、しかし。


南三陸農協へ行く。震災後に福祉の里にJR南三陸の本店が建設され、三陸沿岸の農業の本店が南三陸町志津川に設置された。しかし、国の進める「農業改革」は、南三陸農協が支所となる方向へ進んでいる。
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私の学んだ「志津川中学校」の登校坂が今もそのままに健在で、当時の桜もそのままに満開となっていた。今から30年前に助作の高台に中学校が、新築移転された。当時の首長の適切な判断に敬服する。この場所に中学校が移転し、震災の一時期の町民の避難所として大活躍した事は言うまでもない。12歳から学んだ3年間、現在も志中魂は健在で、この厳しい被災地の「志津川」で暮らしている。現在まで5千人も減少した。たった6年でだ。自然災害と人災が人口減の理由と思っている。人が居なくなった街の、多くの巨大な箱物が建設されている。
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先月末に入谷からの398号の八幡橋が建設され、志津川の新たな名所なった。以前と比べても巨大な橋は、海抜12mにもなるだろうか。多くの維持費が今後必要となるだろう。農地の圃場も進み、誰がここで農業を続けていくのだろうか。「復興祈念公園」には人が集うと言うが、決して誰も住まない無人の土地となる。この中学の学舎から数千人の生徒が卒業し、町の風景を胸に全国に散らばった。年と共に故郷の思い出は大津波により、跡形もなくなった。
私には今後どんな町の打風景が、胸に刻まれるだろうか。新しく生まれ変わった町ではないのは確かだ。色とりどりの町並、町を走る電車、人々の笑い声、年老いての安住の地など、今は「一人町の中で死を迎える」、そんな寂しいくもあり楽な人生の終末を迎える心境だ。
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