2017
03/27

被災地巡礼と夢の跡


昨日は20日の春彼岸のお返しに町内を歩いた。
土曜日に石巻へお返しの品を探しに行くものの、望む物が無くその足で登米市に向かった。何と近い事、町の復興にとっては大きなリスクとなると、高速道の完成を思った。町内の3Kの高速の整備は、町民は便利ながら、国の「費用対効果」としての政策を思うと、与党の被災地南三陸町への事業は、人気取りの事業としてしか見られない。日本の財政が厳しく、生活弱者への支援が安定していない中で、南三陸町の住民は今も大変な状況にある事も多く、その一部を被災者の「生活安定」に回して欲しい。借金まみれ生活があと15年前後、住宅ローンの返済で厳しい生活を続けて行かざる負えないからだ。便利が町の為になるか等、多くの視点から町の復興を考えていって欲しいものだ。

「被災地巡礼地」の一つを見て来た。今後の東北の被災地に人を呼び込む為と、東日本大震災の自然の驚異を忘れないよう、太平洋沿岸に慰霊の場所の設置を寺院や関係者で整備している。「風化」しないように、「復興」の姿を見て貰い、「多くの支援」に感謝の気持ちを表す為の、慰霊地の整備をする。私も何かと「生きて来た証」を残したいと思っている。

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「夢の跡」となった志津川保呂毛地区の土地を見て来た。行者にんにくの石巻の先駆者の指導により、数千株の行者にんにくの苗を、仲間と写真の土地に植えた。販路と商品開発は石巻の内海さんにお願いしていた。しかし、3.11の大震災で海から1K以上の、志津川の山の奥地まで津波は達した。仲間の全てが被災しこの土地もそのままとなり、夢と希望が「水の泡」となってしまった。当時の仲間の年齢の平均は60歳になるだろうか、しかし、みんなで力を合わせ町起こし活動を続けていた。酒の肴の「つま」としてのハマボウフもここに植えた。夢をいっぱい膨らませた「町づくり事業活動」だった。

過去の記憶と、未来への希望を踏みしめ、私は志津川の地で生きて行く、

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