2017
03/11

私の「2011.3.11」

2011-04-29 12.54.29
6年前の3月11日も今日のような小春日和の日だった。10時からの議会の出席に志津川本浜町から南町の「みなみちゃん通り」を通り、山内金物店から木造の中橋を通り、南三陸役場の二階に階段を上がった。2時46分の地震発生で議会は散会となり、同じ道を家に帰った。町中は地震の後片づけをしている方が2.3人、そこには地震では動じない町並と、町民の姿があった。30~45分後に到達した大津波で一瞬にして町は瓦礫の山となった。津波が町を呑込む午後3時30分頃から、高台からその光景を見つめる事しかできなかった。その夕方から雪が深々と積もり始めた。午前の天気とはまさに「天国と地獄」の風景を私は体験した。町民の誰がこの姿を想像しただろうか。
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町から明かりが消え、満点の星が町を照らした。そんな真夜中、多くの町民が家の下敷きとなり、津波に押しつぶされ、津波の引き波で海底奥深志まで流されて消え、今は海の貝や魚と海の生物に変わったしまった。
真夜中にカーナビのワンセグやラジオで東日本大震災の猛威に目をやり、「1万人以上の町民が死んだ。」と、眼下の光景から感じた。明治・大正・昭和と大津波を経験している津波の町、津波防災には町上げて取り組んできた。しかし、今回の16m以上の津波には、5.4mの防潮堤も何の役にも立たなかった。海から1~2k離れた場所での死亡者が多かったことには、「まさかここまでは!」と人々の油断が、尊い人命を失う事となった。
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山からの煙は天王前にあった自動車会社の車から出火し、山にも燃え移り避難場所となった「ベイサイドアリーナ」まで、その火の手が迫っていた。志津川地区は川の両側の、土地に町が発展していった。その総てが津波で消滅した。
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避難場所指定だった廻館館前の「福祉の里」の悲劇を高台から見ていたが、何もすることはできなく、デイサービスセンターの前で逃げ惑う人達に、「津波がきてるぞ!」「早く逃げろ!」と叫ぶのが精いっぱいだった。御前下地区には、消防署・県福祉事務所もあり、町の消防関係者の多くが殉職している。

また、2011.3.11の雪のあの寒かった夜が来る。
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