2017
03/01

誰がこんな姿に変貌する事を予想しただろうか

2011-04-29 12.57.28
23年4月29日の志津川高校の登校坂です。桜が被災した町が広がる中で、何もなかったかのように桜が咲き乱れていた。今日は1日志高の卒業式です。
3月の1日は母校の「志高卒業式」で、10時から卒業生が高校の旅立ちで、不安と希望を胸に学び舎を後にした。その10日後の午後3時15分頃、あの巨大津波が町を襲い、跡形もなく町が消える事となった。
高校は避難所となり、町民の多くが高校を避難所として逃げ込んだ。眼下の老人ホームから車いすなどで、入所者が職員や高校生の救助活動により、尊い人命を救う活動を展開した。しかし、老人ホーム・デイサービスセンターで多くの町民が死んだ。10mはある高台まで津波が押し寄せる事を誰もが想定しなかった。
2011-04-29 12.58.51
明治・大正・昭和・平成と、時代ごとに町には津波が襲来している。1896年には12.6mの津波が石浜を、7mが平磯を襲った。津波記録が無い地区が南三陸町に半分もあり津波がなかったと判断する。津波発生地と陸地の形状が被害の大きさと関係している。南三陸町で1240人が亡くなっている。この時には歌津地区で799人が亡くなった。あれから歌津地区の津波防災の対策と、地区民の津波の意識が大きく変わったのだろう。2011.3.11の歌津中心街に16.4mの大津波でも119名の死亡と、最小下限の被害となった。「大きな地震が来たら高台に逃げる。」を、常々実践し避難所の整備が旧歌津町にあった。広大な志津川地区の被害地は高台までの距離が遠く、高齢者が避難するには厳しい環境にあり、津波避難対策が希薄だった事で、多くの町民660人が亡くなった。
歌津の人達の話しを聴くと、いったん避難した人が「津波が来ないと家に帰り」、亡くなった人が多かったと言う。1分・1秒が生死の境にあったと言っても過言ではない。

卒業生も家族・親戚・知人に亡くなられた人が居るだろう。「生された命」、自分の人生を大切に社会で頑張って欲しい。
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