2017
02/25

震災4年目を迎えた防災庁舎の3.11


私はプレミアムシングルナイトでした。食事は血糖値が高いので外食で「サラリ」と世間で騒いでいる、「プレミアム」な時間を30分堪能した。
26年の5月に新築移転を果たし、その時から3.11の記録番組は、知り得る限りビデオに録画している。震災4年後の東北放送の、「震災から4年」を見た。1時間半の2年前にタイムスリップした。震災復興は住民の意見も聞かないままに、早期の原形復旧を基本として多額の国費が投じられ、この時点で9兆を超えた。住宅再建に1兆円、商店の再建にも1兆円など、7割が防潮堤・河川工事・農地の再生など、大型工事で建設関係に使われていた。

災害での大川地区の住民の考えは複雑なものだった。多くの子供たちが津波に呑まれ、その捜索や発見が想像以上に難航し、被災者家族は子供達の遺体の発見に、農地の再建による整備で、海の底に沈んだ土地の捜索が出来ると、住民の後継の居ない農地の再建を承諾したと言う。
漁港の整備も震災以後の土地の状況も考えなく、漁港の嵩上げをしたものの、40㎝・70㎝と地区のごとの土地の隆起で、水揚げ場が高くなり水揚げに不便な状況となっていた。漁民は「ありがたいが……」と複雑な胸の内を話す。
仙台の沿岸部の災害公営住宅再建は3年で建設されたものの、100戸ある住宅には39戸しか入居が無いと言う。一つの棟は誰も入居がない。何億も使った被災者の住宅再建は、仮設から出たいとの当初の気持ちから、「入居希望」をだしたものの、津波到達場所の住宅建設に、「津波が怖い!」と話す。津波が2m余り1.5Kの場所に押し寄せた土地への、住宅建設がその原因だった。既に入居を済ませた住民は、「仮設住宅から出られて嬉しく、朝には朝日が部屋に差し込む光景が綺麗だ」と言う。この女性は5人の加家族を津波で失っているのに、この言葉に心打たれた。

南三陸町の防災庁舎には3年前、多くの人達が防災庁舎を訪れ手を合わせていた。町の職員それ以外の町民や人々「43人」が防災庁舎で亡くなっている。佐藤仁町長は、ここに集まるよう指示し、ここに役場庁舎をそのままにした。いったい何度手を合わせて行っているだろうか。
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