2017
02/19

コンパクト都市構想の東松島市


浦戸の半島の定置に点在した町は、平成の合併で「東松島市」が誕生したと記憶する。28年に撮影した写真があった。高台への都市計画により、低地部の市街地は津波により全てが何も無くなった。野蒜駅は裏松島の拠点としてあったが、駅前通りの市街地は跡形も無く荒れ地となった。地域にあったお寺もこんな低地にあり数十年も町の生業の中に築かれてきた。震災により町の在り方と場所が、石巻線を中心に新しい場所での再生を住民は選択した。

旧の野蒜駅は「津波伝承館」として存続させ、以前の場所から海抜20m以上にもなる土地に、新駅と共に市街地の全てを移転した。新野蒜駅前には「市民センター」が隣接整備され、震災から毎年の3月の航空写真が掲示されていた。その変化を市民が見れる事で、町の再建の姿を感じる事ができている。高台には「宮野森小学校」が木造建築の粋を極め建ち、災害公営住宅も長屋敷で木材の在来工法での建設を採用していた。市民センターの全て公的施設が木材の柔らかさの元に建設されていた。1K余りの高台の土地は、住宅街が整備が進んでいた。ぐるりと周り見たが市役所が見当たらない。気になった一つがここにあった。病院らしきものも見つからず、南三陸町との違いを探った。

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東松島市は野蒜駅の再建と、それを中心とした町づくりがあった。宮城県内では初めてのベルトコンベアーによる高台整備をした。その他にもメガソーラーなど、自主的な自立り町づくりで、将来に繋げる街づくり構想で話題に上った。高台には「商店街」がまだ建設されていないと言う。高台には仙石線の2つの駅が整備され、仙台圏の繋がりを蜜にし町の再建を進める。市の悩みには若者達が仙台圏への流失がある。この日も午後2時過ぎというのに、10名以上の高校生が電車を使い仙台に向かっていた。病院や学校・観光も電車や高速で、交流が拡大され、仙台圏のベットタウンとしての市の可能性を探っているのだろう。

高齢者社会となる我が町は、子ども達は仕事場としての都市部へ流れ、家族の関係も高齢者の利便性を考えた場合、鉄路の戸倉駅の再建は、容易に出来そうだが、町の方向性の思考には現行政にはないようだ。

東松島の街づくりから学ぶ事は大きかった一日だった。

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