2017
01/26

大震災でも昔のままの姿を留めて


我が社が私がここまで成長した一つに、北へ2地区隣りの「気仙沼市本吉町」がある。会社は志津川町にありながら、両親は地元での仕事は3割にも満たなく、大きな仕事は本吉町の議会事務局・総務課などから頂いた。母はせっせとバスで子供を背負いながら営業で歩いた。持ち帰った仕事を父は会社に居て、朝から夜まで働き、家族や子供達も仕事を手伝った。
昨日はしばらくぶりで本吉町へ行った。町の中央を流れる「津谷川」が、当時のままの姿を留めている。気仙沼市小泉地区の「小泉川」が、本吉町津谷地区まで繋がっていて、大震災の津波は5Kも離れた本吉町内まで達した。「まさか!」
と地区民は思っていただろう。川の両岸の水田にも1m前後の津波が押し寄せ、川の蛇行の急カーブで津波は周辺に広がった。本吉にあった同業の印刷会社が被災し、死者も出て廃業に追い込まれた。農地は昔のままで今も、農業を続けている。
ここには震災復旧は響高校の眼下の橋からは、何一つ無く町並も変わっていない。震災後にバイパスの整備は、町内の狭い道路を避け、バイパスから継続されたバイパスは町中を避け、大きく車の流れは変わり、シャッター通りは益々車が通過しない「シャッター街」となっている。市街地を歩くと空き地が目立つが、橋から見た町の光景は変わってはいない。
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南三陸町は志津川・歌津共に津波の襲来で町歯消えた。その復興計画がここまで町の総てを消し去って良い物かと私は思う。「新しい市街地造りは誰の為?」と疑問を、決定した人に問いたい。「一つでも昔の光景や伝統を残しているのか」と。これから生まれてくる町の子供達は、志津川・歌津の昔の良き風景を知らず、「両親の生きて来た町はどんな街?」と聴くだろう。町はそれに答える「術」を持っているのだろうか。未来に向かうだけでなく、良き町の姿を残す義務を忘れている。
歌津地区の旧町の全国への発信の一つに「うたちゃん」があり、アザラシが町の伊里前川に迷い、川の土手で休んでいた。私の友が見つけた事を思い出す。その記念の命名の「うたちゃん橋」が解体される。昨日はまだ残っていた。
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