2016
12/30

昔話に花が咲く


母の兄の妻が92歳で永眠した。母の古里の登米市米谷のとうよう寺で葬儀が行われた。素晴らしく綺麗な真新しい本堂内に驚かされた。叔母の弟は登米市で成功をし、菩提寺への寄付金が「1千万」をしたと聞いたことがある。このお寺の名字は「こすい」と言い、中学生時代にこすい先生の家がここだと聞いたことがあり、法要で92歳の町の重鎮に聞いたがそんな人は居ないと言う。しかし、住職のお母さんも教師だったと聞き、以前の話は確かだったと確信する。また、志津川の浅野家は私の親せき筋ですと聞き、古き良き時代の志津川町を思い出した。
義理の姉は早くしてご主人が脳梗塞で倒れ、長い間、自宅で在宅介護していて大切に自分で介護していた。当時は老人介護施設も無く、家で介護するしか方法が無かった。叔母は小柄で叔父は普通より遥かに体の大きい人だった事を思い出す。私の母は良く兄弟の家に回っていた。会社の外回りで登米市に兄弟が居て訪れた。私も運転手として共に母の兄弟でお茶を御馳走になり長居した事を思い出す。

席の隣りになった方は地区の御世話役で、良く叔母の家に来た私の母を覚えていた。「志津川で石母田医院の看護婦さんで綺麗な人だった。」と話してくれた。母の葬儀の時も昔人にこんな話しを聴いた。小柄なぽっちゃりの母の容姿から想像も付かない。「母は頑張り屋!」が私の自慢である。

法事で喪主の三人兄弟は一人だけとなり二男は言う。「今日のお膳には母の好きな「ウニ」「カニ」を付けました。」と。米谷病院に老人介護施設があり、そこで療養していた。何も食べない母は、「ウニをゼリー状にしたものだけは、進んで食べていた。」と話す。私も出来る事をしたかったが食べる物に好き嫌いは無く、全て食べている姿に安堵した事を思い出す。終末期は点滴だった。

子供達の役目は今後で、千葉家・末永家・沼田家で続くが、多くの困難がその前に広がっている。
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