2016
09/22

市志津川の町の産業の現実


山間の奥迫った所に小さな土地が点在し、農家が大切な土地に田植えをしている。4月~5月の仕事であり、今年も昨日、錦秋の稲穂がなびいていた。今年も多くの台風や不純な天候の中で、まずまずの生育と刈り入れの時を迎えている。今年も無事に稲の収穫となり、遊休農地の拡大にならなかった事を、高齢化の進む町の農家の皆さんの仕事により、地元のコメが食べられる事へ感謝したい。

登米市のいつもお世話になっている、おばちゃんから米が4箱届いた。被災した昔お世話になった人へと送られてきた。今日はそれの配達の仕事ができた。
志津川十日町の地区の人たちの死亡の報が、私の所に連続し伝わってきた。我が家から始まった「訃報の連鎖」は今も静かに続いていた。昔の町並を想い出し、あそこの家の人、この辺だったかな、など震災前を想い出し、懐かしい係わりに思いを馳せている。
町には帰っていないと話し仙台で暮らしていた、震災前に御世話になった人が「亡くなった」と、突然の情報に愕然とする。私の新聞の配布も、この方のアドバイスと支援があった。仙台に被災し転居し、2年半くらいは電話や手紙で情報の交換をしていた。何も判らず元気でいるものと思っていた。悲しい、ぜひ線香を手向けたいが、宗派が違うからとの声も聞いた。人の為にと自分の人生を捧げ、大学に研究の資料として現在あるとも聞く。先人に私は多くの事を学んだ。この方も住所は南三陸町には無く、人知れず天に召される事となるだろう。
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何気ない稲穂の写真ながら、奥には造船の船の型が置かれてある。一時期の町の造船の歴史がここにある。
3年前に親戚から貰った30Kの米を精米した。父と二人の米として2か月はもつだろう。心乱れる事も少なくし、二人が自然の流れの中で一生を遂げる事が、私の家庭の願いである。私のもう一つの望みは、志津川の被災した本浜の地に、なんらかの「足跡」を残す事だ。商工団地の土地も家も工場にも未練はない。

こんな事を思う時「ホッ」とする。
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