2016
08/25

志津川町本浜町の伝統芸能の終わり


「デッデッデゴスコ・デッテゴデー!」の祭囃子が、7月の24日に町中を練り歩いた。50年前の私が小学校5年頃の話で、部落総がかりで山車の飾りを作り、太鼓の練習があり、「七福神舞い」が夏祭りに華を添えた。その前から続く本浜町の伝統文化だった。多くの地区の先人達が創り上げたもので、多くの先人達は亡くなり地区を後にした。
弟が七福神舞いの山車に乗り、海上渡御の座敷船で、荒島沖の志津川湾からメイン会場の旧市場に入る。漁民のかがり火船団がその後を飾る。先頭は荒島神社の神輿船が走り、船上では神社の舞が厳かに模様され、花火大会の中盤を飾った。私は10年ぐらい神輿を荒島から担ぎ手として、24日の夜は動いた。昼間は七福神の山車の周囲に寄り添い町中を歩いた。
これが私の「志津川湾夏まつり」で24日の当日は元より、一か月余りを地区の集会所に寄り、ジュースを貰い小学生の練習と作業に参加し、楽しかった事を今も覚えている。七福神は本浜地区の先人達が創り上げた伝統芸能で、その子孫が継がずに他の神社の青年会5団体で復活となるようだ。震災で部落が無くなりしょうがないはあるが、余りにも寂し過ぎる。コミュニティーの震災からの再建は、こんな所から始まると私は考えていた。荒島神社の工藤佑允宮司が亡くなり、この時点で私の荒島神社の輝かしい伝統は終わった気がする。見世物・人寄せパンダの伝統芸能は真実とは違い、神々への人々の感謝の祭事と夏祭りを捉え、地域の団結と意気込みの表し方が「七福神舞い」と、ずっと思っていた。

私の恩人が南三陸町の伝統文化の再建に取り組んでいた。その方に私の七福神舞いの震災時の地区の経緯をメールした。

志津川本浜地区の「七福神舞い」は湾に浮かぶ「荒島神社」から、神様をお迎えする祭りでした。東山公園にある「西宮神社」を奉る神社に、「恵比寿講」と言う集まりがあり、本浜地区民と周辺の漁師・仲買が名前を連ねていました。志津川湾夏まつりの神事の中心となり、祭を運営し仕切っていました。二つの神社は志高時代の恩師、工藤先生の八幡神社宮司が務めています。先生は最近亡くなり私も少し神社と疎遠となっています。
本浜行政区は震災の年に解散となりましたが、これまで続けてきた若者達が、「引き継ぎたい」との想いに契約会の資金の一部を分配し、お祭りの再建は熱い気持ちに託されましたが、時間と共に風化し、厳しく状況と思います。地区民もバラバラとなり、今後の住宅再建に1年が掛かり、高台移転が完了しても、長年かけて作り上げた「七福神舞い」の復活再建は、総ての祭りの備品も流失してしまい厳しいと思います。
地区解散時に期待されていた、歌津中学校の阿部校長と息子さんへの期待もありましたが、仙台に移転したと聞きます。契約も高齢化と地区のリーダーだった佐藤良治さんも被災後に亡くなり、地区民の士気を高める事は困難と思われます。地域をまとめ上げる人材が無く、生活の大変さから残った地区民には無理です。
以前あった形を記憶の中で復元するか、新たな団体でこれまでと違う物を創造していくか方法は無いと思う。本浜地区民での復活は、多くの時間を要するし、強い再構意識が高まらないと無理と感じます。

七福神舞いの再建はなった物の、本浜地区の終わりを感じ、今は七福神舞いの新たなスタートに、エールを送りたい。
スポンサーサイト

【 未分類 | CO:0 | TB:× | 07:10 】

COMMENT
POST A COMMENT


















 TOP