2016
08/22

会葬御礼


母は大正12年5月生まれで、同い年の父との志津川での出会いがありました。母は松原にあった石母田医院の看護師として、東京から仲間と共に先生の後を追いやってきました。
「お母さん綺麗な人だったよ!」と、両親を知る人から聞く事が、自分としては誇らしい事だったと今も覚えています。
大震災の津波で、800人余りの町民が亡くなり、200名を超える人が未だに不明となっています。そんな当時を振り返ると、総ての物を失っても、3人で生き残った幸せを感じながら、5年5か月の月日を過ごして、生きている実感を日々思います。被災者となり、あれからの倉庫の5年余りが、一番に家族らしい生活だったと感じています。
震災の前の年の母の88歳の米寿を、自宅で町長さんから直接に祝いの言葉を頂いた事を、父は良く話します。
晩年は幾度かの脳梗塞から命を繋ぎ、認知症が加速し町の高齢化社会と老々介護世帯として、小さな倉庫で肩寄せ合って暮らした時が、今となっては家族の良さを改めて知りました。
母が人と争った記憶は私にはなく、我慢・忍耐の昔人を貫いた人生だったと思います。子ども達には厳しく、私は良く「言う事を聞かない」とお尻をつねられていた記憶が、今も脳裏に浮かんできます。

登米市米谷から隣町の志津川に来て、私たち三人の息子を育て上げ、孫たちも立派に社会人なりました。息子たちは母の大好きな子供に恵まれ、孫やひ孫が笑顔で遊ぶ姿を静かに見つめ、子ども達の優しさに包まれた、93年の幸せな人生だったと私は思っています。この母親の子で良かった。

地域の皆様、福祉施設で最後まで介護に取り組んでくれた皆さま、同級生の仲間たちや、総ての母を愛して下さった皆さん、本当にありがとうございました。

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