2016
04/25

10日後の東日本大震災


こんな光景が私たちの被災地でもあった。水道の復旧は3か月以上も掛かり、我が家は沢から水を汲んだり、内陸の隣町の親せき宅までポリタンクで水を貰いにいった事を思い出す。
この日は歌津地区に行き津波災害の姿を写真に収めた。写真は名足保育所の給水車が周辺の家庭に配る水を準備をしていた。
毎日、生きる事に一生懸命だった。

町の震災対策本部がベイサイドアリーナに設置され、メディアが取材でいっぱいだった。この中には多くの被災町民が暮らす為、入室を制限していた気がする。市街地は瓦礫に覆われ、通行の為の道路も国道や避難場所までの道路の整備が進められていた。10日ごろは多くの物資も町に入って来て、緊急車両だけが町に入れ、誰でもが町に入れない環境だった。車の数も少なく私は残った愛車(自転車)で、戸倉地区・歌津地区や登米市津山まで行って、避難場所で被災者の状況を見て回った。この住民の姿はまさに熊本地震の避難所と同じだったと思い出す。
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昨日、登米市に自宅を構えた親友が電話をくれた。「連休遊ばない」だった。9連休で故郷の仲間と会いたくなったらしい。母も8月には病院脇の災害公営の集合住宅に入ると言う。高齢者ばかりが住む町になり、我が家もその予備軍として今後を暮らす。
熊本でも「ノロウイルス」が発生している。480人の避難所で28人が感染したと言う。志津川小学校でも当時「ノロウイルス」が発生し、その他に「インフルエンザ」が抵抗力の低下した被災者を襲った。ここで震災後に被災者を診ていた医師がいた。自分の医院を被災し被災者であるのに、志津川小学校に避難しそのまま診療所を仕切り、被災者の体を見守り治療に励んでいた。いつも「医は仁術」を励行していた、主治医「笹原先生」で、テレビでも幾度となく取材され被災地の現状を全国に伝えた。
私の知人家族もここでノロウイルスに感染し、他の地区の病院に隔離されたと、こないだ聞いた。4月の発生はまだ温かい時期なので、感染の拡大と熊本はならなかったようだ。まだ朝晩寒い気候に健康だけは留意してもらいたい。しかし、テレビから流れる避難され身を寄せる車や、被災した家屋の納屋などで暮らす被災者が多く、早く落ち着ける事を願わずにはいられない。

今回の震度7の連続の地震発生は、「耐震基準」にも大きな影響を与えている。巨大な地震が2回連続し発生すると、耐震基準の家でも崩壊すると言う。現在の我が家の建設会社は、問題があり過ぎて「30年保障」も無理で、現在倒産している。建設間もなく壁とクロスにヒビが入っている。巨大地震が2回連続発生したら、一たまりも無いと思っている。最近は時々「震度4」の地震があるくらいで、震度5の地震は発生していない。それが熊本では10日間で震度4が76回と、それ以上も10回以上発生している。東日本大震災の連動地震は震度4が3分間続いた事を身体が覚えているが、熊本の震源地の10日以上も続く震度4以上の地震の恐怖は、我々の理解を絶する。「おさまるのを待つしかない」と被災者は話していた。
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