2016
03/28

志津川西地区東工区


志津川高校の裏山の「志津川西地区」の高台に初めて入った。通行止めの工事のバリケートが無く、午後に造成地に入る。旭が丘団地の左側の坂から西地区の白い足場が見え、そこを登っていくと他の地区とは違い狭いながら、住宅建設が始まっていた、基礎も含めれば総ての住宅の工事が始まっていた。西の東の奥では沢山の人が集まり、建前上棟式の為か賑やかな風景が、多くの車も駐車し屋根の板張りの最終仕上げに入っていた。終の棲家の再建は「土地さえあれば!」、こんなにも早く建設工事は進む。そこには工事を進めのた場所の選択が、行政と委託された「UR都市機構」のミスがある。この場所は選択時から土地の調査で「硬岩」があると、広い造成を変更し西地区西工区が造られる事となったと、当時の判断がある。
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西の東は半分が造成が終わり、土地引き渡しと住宅が建設されているものの、半分は岩がゴロゴロと土地整備は進まなく、今後の工事の進め方も厳しい気が、見るからに判断できる。中央区の東側の土地も大山が今もあり、西側の下部が整備引き渡される今年度末がある。高台移転の選択が住民の民意を取り入れての場所と思うが、早期の町づくりと住民の流出を防ぐには、町の工事計画の決定に、何処かに甘さがあった。志津川地区のバランスを取った都市を造ると、このような配置になるのだうが、町と住民の以前の暮らしを守る計画としては、正解かも知れないが、復旧復興の力を大部分のの再建の為の工事と時間に費やすべきだった。
また、行政のよこしまな考えで「想定を誤った!」と私は思う。町内の高齢者が住宅の再建を待たず、更なる「永眠」と「新しい町」を見ずに、亡くなって行く。津波の驚異と苦しみは今後も続く。
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気仙沼の階上中の卒業式で送辞をした生徒の言葉がある。「天が与えた試練としては重過ぎる」と、仲間の死と生活の全てを奪った天災を振り返った。「天を憎まず運命に絶え、助け合って行く。」と言葉を結んだ。天災なら防ぐのは難しいが、人が決定する事は普段の生活で培っているもので、その判断の過ちは普段の生活と生き方に宿る。津波防災への考えを真剣に取り組まなかった「ツケ」が、人命と言う大きな代償を払う結果を生んだ。町の減少を「自然減」だけと言い切る町の判断での対策もあてにはならない。

また一週間が始まる。今日は広島の来訪者の支援と、明日は仙台での理事会があり、組合の「60周年」の準備の会議に臨む。
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