2016
03/26

あの時と今


ここ2日間は震災の日と、生活環境が変わった志津川を、写真とあの時を振り返りました。今日の写真は「さんさん商店街」の場所の、3.11当時の姿です。

県の福祉事務所の3階建ての建物が残り、その裏には志津川消防署があり、その間に漁船が建物に覆い被さっていたのを思い出す。消防署員・消防団員も沢山、津波の犠牲となり、現在の仮の消防署の駐車場に「慰霊碑」が静かに、殉職した家族が建立されたと聞く。旭が丘団地の二つの道路に津波が押し上げられた、多くの家々が坂道に押し流され折り重なっていた。署員も津波の威力で団地に避難し、その後の町民の救出活動が夜を徹しておこなわれた事を思い出す。
写真の場所には多くの商店・住宅の建物あったが、県の福祉事務所の鉄筋コンクリートの建物だけが、「ホツリ」と残るだけで、あとは更地のようになった。津波の威力の巨大さを伝える教訓に、この写真を使っていきたい。
この日の寒さの中で多くの町民が息を引き取った。防災庁舎だけが究極の場所と言い続ける事は、町の津波防災のマニアルの政策失敗を露呈する事となる。多くの町民が「震度4・3分」の体感した事の無い震災で、町の7割が津波で被災しても、その6割の人が高台に逃げている。役場職員もこの状況での避難行動は当然で、誰も非難する人は無い。非難すべきは町の防災マニアルと留まる事を指示した、対策本部長にある。
昨日の報道で再度の遺族の責任者追及の行動が報じられた。自分のミスを補うかのような、町再生に取り組む行動は、自分の避難行動の失政を誤魔化すように見える。
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私の糖尿病の「網膜剥離」を、自分の責任と強く先輩に叱責された。私の今の生活には「サングラス」は欠かせなく、落して壊れたサングラスの修理に登米市鹿賀野の「三浦眼科」に昨夕行って来た。鹿賀野に同級生も移住し、近くに住むも家に寄る気にはなれない。みうら眼科から石巻日赤の紹介があり、以前の眼科への戻っても良いとの指示があった。少しは近くなったが「瞳孔を開く」ために一人での通院は厳しい。

昨日は親戚の一人が御礼に来た。志津川高校の一日入学があり、普通科への息子の入学ながら、「72人だった」と言うが、情報ビジネスを入れた一年全員かは定かではない。今年から普通科が1クラス減少となり、2クラスで1クラス「36人」は余りにも寂しい。私の平安な時代は1クラス「53人」だった事を思い出す。親戚の息子さんは登米市に移転した同級生と共に志高に通学する。祖父母の安堵感を目にする。
このままの志津川高校生の減少は、間違いなく統合へと舵をとらざるをえない。誰の責任化と言う大震災と人災と、私は思わずにはいられない。

ガンバロウ〔絆〕南三陸町!

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