2016
03/14

過去にない大震災、復旧復興は私が亡くなった後かも


戸倉地区に会社の再開の仮営業所を、戸倉「荒町」に決め約3年間を過ごし、二年前の4月に現在の場所に移転した。今日の写真は通いなれた荒町の、BRTの戸倉バス停前の風景です。震災後と見るからには変わりないが、折立川の被災した水門は撤去され、向かいの川沿いは河川堤防の工事が本格的に始まっていた。
仮営業所と工場での経営は大変ながらも、仕事ができる喜びと、何も無くなった大震災から将来に経営を繋げる基礎を造った。これが無かったら今の生活は無い。多くの支援者との繋がりや、自分にとっての震災からの脱出と、失明の状況が発生した時に、震災後の行動が無かったら、生きる事への諦めと繋がったかも知れない。しかし、会社の継続と両親の介護の使命感に燃えここまできた。後どれくらい生きられるだろうか? 一日を精一杯これからも生きて行きたい。
昨日は焼香の「はしご」をした。旧本浜町の方が亡くなり大雄寺に行く。無くなった地域の方が少しながら参列していた。懐かしい出会いに近況を話した。喪主の御礼の挨拶で「母の店の出す事を叶えた」との話に、言葉が詰まった。私と同じ心境で両親のやりたい事を叶えたいが、子供達の気持ちにはあった。母も70歳頃からは一線から退き、日々を自分のしたいように「のんびり」と余生を過ごし、今もこの生活を継続している。施設で寝たきりの食事が楽しみの生活を、現在も続けている。
もう一軒は震災後生活した荒町の同級生の所だった。国道を通過すると良く歩道を歩いていた彼の父親を想い出し、突然の死だったと話す。私と同じ生活の中で、親子での暮らし方を聞けた。夜7~8時には自分部屋で早めの就寝だと言う。我が家は朝まで父の部屋を覗く事は無い。同級生は午前中に父の頭が痛いとの事で、病院で検査したが何もなく、帰って気遣いながら食事も食欲が無く、夫婦は部屋を幾度か見た時に異変に気付いたと言う。肌の温もりを感じながら蘇生をして救急搬送をした。何故こんな事をと聞くのだろう思うだろうが、私は死の狭間を焼香時に聞く。亡くなられた方の「証」の最後を知る事と、自分の家庭の対策のヒントを得ている。そんな事を考えても「脳梗塞」「心筋梗塞」の病状が発生した時、我が家は静に一人で逝く事を想定する。そんな事を日々考えながら、今を暮らしている。これまでも多くの知人が一人夜中に亡くなった事例に、余りにも寂しい現実を知っている。
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昨日も防災庁舎前の映像が映る。焼香台前には列を作り多くの人が参拝をしていた。佐藤仁氏はかさ上げの高台から当日の話しをしていた。防災庁舎の屋上で津波をやり過ごし、次の日の朝に庁舎屋上から志津川小学校に帰還した。津波後の屋上の夜の寒さは大変だったと話す。しかし、多くの町民が避難の備品もなく寒い夜を過ごした。命を繋げた避難者も電気も無い中で、寒さに震え何日も避難所で過ごしていた。何度も聞く佐藤氏の言葉に「ネクタイに火を付け10人で暖をとり、命を取り留めた。」と。貴方だけではなく町民個々が自分を守る事を震災時はしていた。幾度となく「美談」のように多くの職員が殉職し、その中で生き残った事をメディアと通し話す事は、町民の被災地で頑張る今の現状よりも、武勇伝のように佐藤仁氏を伝説としているようだ。その蔭で多くの高齢者が町と自分の再建途上の中で命を落としている。新しい町を見る事なく現世を去る事は、さぞかし無念であるだろう。子ども達も再建ないままで仮設での死に、悔しさを抱いている気がする。


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