2016
03/12

2011.3.11を私は忘れない


この日は意地でもあの人間と同じ場所には居たくなかった。
10時からの父の介護認定に立ち合いで南三陸病院へ、メディアが病院の「みなさん通り」に陣取っていた。総合窓口で「何処へ行けば」と聞くと、役場の介護担当が来て、「11時から」と言う。2週間前の連絡では10時だったと思ったが、私の耳が悪いのだろう。直ぐに帰り11時にまた病院へ行き、外科の桜田先生に呼ばれるのを待つ、父は「早くして」と私の仕事を気遣う。すると「先生は透析に」と言う。外科の先生も掛け持ちで診療に当たっていた。待合室にキリコがあった「旅の人心にひびくおもてなし」こんな言葉があった。気仙沼の40人の医師から比べ、我が町は7名?の医師で頑張っていた。気仙沼市立病院は医師の育成などの健全経営の取り組みを表明していた。
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家に12時過ぎに帰りテレビを見ると、見たことの無い風景が飛び込んできた。「テレ朝」のスーパーチャンネルのメイン司会者が映っていた。その場所は「高野会館」の屋上からで、写真の背後には小学校がこの角度で見えた。町の敬老会で4階に避難し16mもの津波が行き去るのを夜通し待った場所で、約400名の高齢町民が助かった。何処を見ても嵩上げ土しかない市街地が広がっていた。5年前と多くは変わっていない被災地に私は見える。初めて見る光景がここにあった。

今日の新聞に2時からの町の追悼式の記事に、親戚の「ゆうこ」が被災者代表の挨拶に立ったと言う。震災後に母が心配で仙台から実家に帰り5年が経つ。30歳になっていた。現在は町の緊急雇用で職員の一人で被災者の支援で働いている。亡くなった父も「がんばれ!」と天国から応援しているだろう。若者たちが志津川に残り町の創生に関わった欲しい気持ちでいっぱいだ。会場には1200人が集まったと言うが私は会場の光景を見る事避けている。また、知人の民宿にオーストラリアの将校さんが、ホテルよりも民泊を選んでいた。一方では「未希の家」が放送され、母が今何をすれば娘の死に報いる事かを話してくれた。
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この海から一気に津波は町を呑込んでいった。現在の10mの嵩上げの下には、あの大好きだった「志津川」が眠っている。新しく整備される志津川市街地を私は故郷と絶対認めない。何故かと言うと「何も町の跡(思い出の場所)がない!」からだ。私の心の中には、あの大震災で故郷は亡くなったと思っている。「敵と戦う!」そんな気持ちで今を生き抜いている。
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全国の皆さんに防災庁舎の今日の姿を紹介する。「何も無い!」今月で庁舎のこの場所へは入れなくなる。自分の町なのに行く事が自由にならない町の時間が長すぎる。昨日は16時に町中に向かうと商工団地前からの渋滞だった。抜け出せるまでに「7分」掛かったが、この5年を考えればたいした時間ではない。復興の今の志津川をゆっくりと眺めるのも又イイ。
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