2016
03/11

津波の脅威を伝承

2011-04-24 13.54.11
仕事柄ながら震災後は「記録を取らないと」と、携帯で写真を撮り続けた。携帯からタプレットで撮影は「4月11日」から始まり、登米市のショップから買いもとめ、撮影とブログを始めた。多くの志津川・戸倉・歌津の震災写真を撮り続け、今見ても当時の何も無くなった町を思い出す。「忘れないように!」が私の行動と考えにあった。我が家の三階建ての一階の残った天井部から自宅、本浜地区の様子を撮影した。
2011-04-29 12.50.13
4月の桜の時期に「福祉の里」に行った。震災の日にデイサービスの予定の入谷地区の高齢住民が多く亡くなり、介護施設「慈恵園」で私の義理の叔母が亡くなり、施設で働いていた同級生も殉職した。高台の「旧志津川中学校」を包むように多くの住宅があり、その大部分が木造住宅で、津波の破壊力は想像を絶していた。人間は木の葉のごとく津波に巻かれ、物にひっかかり残った方は幸運だったかも知れない。津波の引き潮で海底の奥底まで大切な人を運んでしまった。一昨日には家族の願いで、荒島周辺の海底探索が、海上保安庁の潜水隊が捜索をした。何もみつからなかったが隊員は「家族の願いを叶える事で家族の安堵感が得られたら」と話す。人的被害の無い家族の思いとの温度差をは強く違い、その総ての悲しい家族の思いを知る事ができないが、震災直後に娘と孫を目の前で津波に呑まれた、お母さんの嘆きで知った。
2011-04-29 12.53.43
現在の農協本所から志津川市街地を望んだ。何も無い世界が広がっていた。この時、防災庁舎の意識は何処にもなく、不明の家族への思いが渦巻いていた。私は両親を高台の弟の家(旭ヶ丘)に避難させ、町の様子と救助活動を手伝った。本当に雪の舞う寒い夕方が始まり、その日の小春日和の日中から、天変地異の気象へと変わった瞬間だった。
次に母校「志津川高校」の高台に行く。多くの知人が体育館に居て、大丈夫だった事を互いに喜んだ。4月の中ごろには校庭に仮設の建設が始まっていた。遠くに私の地区と志津川湾の守り神の島「荒島」までが見える。その前の光景で線路は残ったものの、総ての木造は瓦礫と化し、鉄筋コンクリートの建物の骨組みだけが残った。正にここで生死の狭間の地獄のような状況が展開されていた。私は幸運にも家族と共に生き残った。
2011-04-29 13.15.15
旭が丘地区の突端から震災の夜から朝は、市街地の震災後の姿を見ていた。これが私の愛し続けた町の変わりようだ。

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