2016
03/08

震災後の住民の混乱の中に多くの人たちが来てくれた


震災の年に長野県飯島町から、私のブログを見つけた一人の議員さんの要望から、被災地南三陸町の状況案内と、7名の議員団との交流会を歌津の「泊崎荘」で開催した。その中の竹澤議員との交流が今もあり、「南三陸町の被災者の笑顔を!」と飯島町のマジック倶楽部が2度南三陸町を訪れ、平成の森と志津川中学校仮設、戸倉中学校仮設、南方仮設の4団地で、被災者との交流を深めた。2回の宿泊は歌津の「高倉荘」と「コクボ荘」を利用し、南三陸の海の幸を堪能してもらい、南三陸志津川の商店街でお土産や、キラキラ丼を紹介した。その中の宮澤さんは余生を飯島町で暮らし、自分の作った「ネギ」「ジャガイモ」を4年間に渡り8回、物資支援を続けている。町内の8割以上の仮設に物資を届けた。南三陸町との繋がりを大事に見守ってくれた。マジック倶楽部の代表でもある宮澤さんの話術で、会場に集まった方々の笑いの顔が今も目に浮かぶ。「感謝・ありがとう!」です。
そして今回、長野県飯島町の「七久保地区」の御柱祭りの、7年に一度の大祭にあたり、竹澤さんよりご招待を受け、今月の19・20日と私の友だちの2人と飯島町へ行く事となった。車で8時間は掛かると言い、私の目の不安を二人がカバーしてくれる。地元で頑張る友達に感謝です。

我が家を建設した名古屋の社長が急逝した。震災の翌年に町民に紹介されたと我が社に来た。「南三陸町の為に何かをしたい!」と言う。私も被災し仮の営業所で仕事を始めたばかり、しかし、町外から多くの支援者の受け皿として、多くの人達を支援した。その他にも国内外のメディアに南三陸町の震災状況を伝える為や、町を支援するボランティアや、再建に協力したいと言う方にはお手伝いとして、要望に応えて来た。
その一人が名古屋の建設会社社長で、石巻の住宅再建も手掛け、我が家と岩沼の2軒を受注した。震災後に被災地に仕事があり新たな会社の発展の為なのだろうが、被災地の状況は建設に長く従事していても、予想以上の問題が山積していた。建設に関係する地元の事業所確保は、被災で仕事を受ける業者が居なかった。資材も高騰し人件費も高い中で、名古屋の価格設定を被災地に当てはめたのが最大の失敗の元だろう。何度も打ち合わせと称した「飲食」で、その体が悪いとの状況を聞いた上での、大酒の姿に私の心配が当たった。建設の終末に至った時は2年前の25年12月で、元気に仙台を往復し采配を振るっていた。今月に入り名古屋の弁護士から「破産手続き」の、債務者の事情堪忍が届いた。そして、今の状況はどうなのかと弁護士に連絡すると、「社長が今年1月に亡くなった」と聞いた。私より確か2歳下で57歳のまだ若い死だった。
多くの訪問者があり、悪い「一攫千金」を狙い被災地に来る輩も少なくない。建設契約には一度の失敗も震災後に経験し、多くの書類は確実な建設をするためと気を配った。しかし、書類の建設期間遅延保障や建設後の保証は、ただの「紙切れ」となった。
初めて一生の大金を掛けての住宅建設は、被災地ならず建設業界の不振で、多くの問題が発生していた。建設中の建物は建設会社の物で自分の物ではない。「金を支払わないとカギは渡せません!」と言われた。日曜の住宅問題では家の途中で建設会社が自己の理由で建設を放棄した。そのままの姿で何も出来ない施主は嘆く。住宅ローンだけが残り、借金と母の介護と妻と二人の子供は行く場を失い、今後の夢の生活が悪夢の状況となり、家族が露頭に迷う事となっていた。住宅建設にはこんな状況から自分を守る保険制度がある。基本的には10万円の保険金と言い、だが保険を掛けるのは建設会社で、施主はこんな事は知らないで建設が始まっているのが現状だと、関係者は言っていた。

まだまだ私の周りにいろんな事件が発生している。何もしないのが一番安心ながら、逆に何もしない事に「生きる意味」が見いだせない。仲間の意見を聞きながら問題に巻き込まれないように努力したい。「お金を動かす前に誰かに相談する事」を薦めたい
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