2016
02/24

5年で人の人生がこんなにも変わるなんて


誰しもが5年でこんなにも生活が一変した事はないだろう。南三陸町での被災から静岡~登米市仮設、ここから移り慣れ親しんだ南三陸の町へ帰る事を夢見て、多く障害で仙台での「終の棲家」を決めた。
こないだ河北新報に畠山御夫婦の顔を見つけた。「色々お世話様でした。無理せず頑張って下さい」の私のメールに、「元気でやっていきます」の返信が帰って来た。南方仮設から仙台に出発の日に、仮設の人達の作ったアーチで送られた時に涙が出たと言う。私もその光景を思い浮かべても、感激の思いが伝わってくる。二人の仙台の仮設住宅の部屋での姿は、何処となく寂しさを感じる。家には南三陸町の絵が津波でも流されず、部屋を飾っていた。南三陸町が思い出の町となりつつある。
終の棲家として松原の5階?の町営住宅と決め、毎日の志津川湾から登る朝日を見て暮らしたいとの、細やかな希望が大震災で粉々に打ち砕かれた。南三陸町に帰る事への希望も多くの問題で、仙台で暮らす事も余儀なくされた。いったい誰が悪いのか、誰が救いの手を差し伸べてやらなくてはいけなかったのか。だが、最後の決断は苦渋での仙台の暮らしだった。静岡での暮らしは「南海トラフ地震」を心配しての一次避難だったと言う。震災後の多くの不安の中で、仮設のグランドゴルフと、奥様との二人の生活があった。
私も南方仮設を幾度か訪問した時、町への帰還を夢見、高台移転の再建の経緯と進捗を熱心に見つめていた。4年を過ぎて心の糸が切れてしまったのだろうか。仙台に暮らしていても知り合った人との「絆」「繋がり」は決して消えず、高齢となり故郷と人達の姿が懐かしい事だろう。
仮設生活の畠山さんに被災後「故郷の病院に透析施設建設」の要望書の志津川地区の代表者をお願いした。快く応えてもらい町長に要望にと町まで来てくれた。完成した南三陸病院には、りっぱに「透析施設」が設置され、地元で暮らす透析患者を救い助けてくれた、畠山さんの活動の証が残りました。ありがとうございます。
出会いは突然で、15年はなるだろうか、我が社に年賀状の注文にきて、話が弾んだ事を今も覚えている。相手を思い考える会話に自然と引き込まれた。議会でも先輩同僚に、海洋実習の先生でお世話になった事を聞く。仮設の役場事務所にも何度も足を運び、偶然に幾度かこの混乱の時も会う事ができた。奥様は父の知人の妹?さんで、天王山に昔暮らし、昔話しでも盛り上がった事が懐かしい。故郷に帰った折には、また話をしたいと思う。震災を共に生き抜いた仲間として。
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こないだ志津川地区中央区の高台造成の進捗を、総てが見渡せる場所にいた。三段階に分けて土地が引き渡されると言う。当初希望していた人たちが40人も減少している。その中には4人の同級生がいた。また、今回の一段階目の土地提供に幸運にも当選した仲間もいる。これまで頑張ったご褒美と私は思う。正面の大山も崩され整地される。まだ時間が掛かりそうで29年の3月と言うが、区割りを含め造成変更など、工事がまた延びそうな気がする。
松方弘樹さんが「脳腫瘍」だと告白し、手術の為長期休養に入ると言い、舞台やショーを出演中止にした。73歳の熟年は、これまでの人生を少し休みなさいとの警告と思える。
日本の女性の7割が「250万円未満」の所得と言う。都会での生活はさぞ大変だろう。老後は「南三陸町で!」はどうだろう。ちなみに私は「200万円前後」で、これまでの蓄えを切り崩し今を生きている。
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