2016
01/23

北へ南へ


昨日は気仙沼に仕事で向かった。助手席に乗せられ45号沿いの変化に写メにて連続撮影した。運転していては見る事の出来ない物・事が沢山目に入って来る。
歌津の仮設商店街が移動し開店したものの、あるべきはずのサッカーフラッグが無かった。公共用地としてのゾーンも設けているものの、途中のファミマの隣りに本設で「仙台銀行」が建設中で、市街地には銀行が消えそうだ。枡沢には伊里前の商店の町並が移るかのよう再建が進んでいた。田の浦の高台移転の場所は、下から見上げるような場所で、冬の坂道を心配している。帰りに「歌津大橋」の残った道路の解体らしい工事が始まっていた。
本吉に入ると道路の両方の高台に、ポツリポツリと民家が経ち、自己再建が「防集」の合い間に建設されていた。企業の進出では「トマト工場」が、被災した小泉の田園に整地整備され事業が始まっていた。地元雇用は30人と言われ、直売所も始まると地元民は伝える。

気仙沼市の被災住民の意見がある。定住・帰郷を希望する住民は「戻るつもりはないが52.9%」にもなり、戻りたいが現実的に無理が「20.7%」で、帰郷が決まっているが「1.4%」でしかない。年祝いの同級会に帰郷した668人の内208人(31%)のアンケートなよるものだ。故郷に戻る条件に、「働く場がある事が62.5%」が一番で、次に医療や介護の面で不安がない事を上げた人が「45.5%」となった。
若者が自分の将来の為に安定した職場・報酬も求めるも、企業誘致がなく、地元の事業所も今は建設特需があるものの、後5年の復興期・安定期が終われば、職場が減少する。行政の企業誘致も、若者が居ない我が町に設置は難しい。優秀な若い将来を担う人材が町を離れ流出し、将来の町形成に不安が募るだけだ。
町の人口減少阻止へは「将来への安定感ある働く場所の確保」が、町民が一番望んでいるようだ。入谷の震災後の企業進出も、国の企業立地補助金目当てで、町の廃校の有効利用の互いの思惑が成立した。結果的には継続は無く撤退したと聞く。現在も1社が同じ町の為の企業立地となったが、町の支援なしには継続は厳しく、雇用も住民の望む体制ではない気がする。
漁業・農業もさることながら、商店主の後継もなく自分の代で終わりが半分以上と感じる。親もこの町での事業の継続は厳しいと、後継を望んでないが現実だ。しかし、町の事業者の後継者は優秀で有名大学に入り、高い能力をもっていた。
現在、私たちの前後の年齢の子供達が、安定職種として「地方公務員」として町に就職している。町民皆が望むものの狭き門である事は間違いがない。家督として町に残り役場職員を希望しても、挑戦するが何回も就職は叶わないと言う。年齢制限の終末にきている。
気仙沼市の家族も「子供達は仙台市や盛岡市」の一時間圏内に暮らして欲しいと、被災地の地元での生活を望まず、子ども達も「望む職がない」と、地元就職を諦めている。
昨日、志津川市街地に初めて事業所が本設された。セブンイレブンで渡辺さんと言う地元の方が、震災後から仮設で家族で経営し再建を果たした。現在の来客を見ると建設関係者が多く、復興後の経営は「三陸道」の開通で、ストロー現象となり来客の減少を想定する。志津川市街地の商店街も観光客の集客も一時的な活性化となるが、風化による厳しい状況が必ず訪れる。町の住民数が町商店の復興に大きな繋がりを持つ。

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気仙沼市の最知地区に「旭川ラーメン」があった。被災しながらも場所を移し内容を変えたものの、ご主人の味の継続をしていた。若い頃に車の免許を取ってから夜中に幾度となく、「塩コーンチャシュー麺」を食べた。二杯食べたこともあり気にいっていた。昨日も同じメニューを食べたが、口に親しんだ味は健在だった。
昔の商店も町民には懐かしく再建を待っても、もう町を去ってしまい、再建も厳しい環境にある。もっと昔ながらの町の商店復活の支援を、町にはお願いしたいものだ。


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