2016
01/11

町民の流動はまだまだ続く


昨日の夜に震災後初めての「釣り仲間」と酒を酌み交わした。
震災時の大津波の物凄さを記憶に留め、震災後の老人ホームの入所者や職員の痛ましい姿を確認したと言う。家族の安否にあの何もない荒野と化した、町を歩き回ったと振り返る。そして今こうして再開し、家族と子供の事を想い将来の設計をしていた。
私の志津川中学校の同級生も、津波被害の及ばない土地の安価な安全な地区への移転を決め、また一人その数にプラスとなった。市街地の住民の高台移転は今後もその多難さを感じる。造成地の5.5万前後の土地代は再建住民として大きな負担となっていた。
若者の7割の生活不満の中で、行政の町再建は計画修正なしに復興を進め、当たり前の人口政策に終始し、行政トップのブレーン達が会議に加わり、町の疲弊を改善する努力も少なく、誰でもが描く対策案を声高に言い続けている。これでは他地区から来たボランティアは拍手喝采だろうが、住民の満足感は行政と密接な関係を持っている方達だけだろう。こんな町に未来は薄い。
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一昨日、歌津地区の「鎮魂の丘」に、被災町民の一人の仲間の慰霊碑に名前に手をあて聞いてみた。亡くなられた人の想いは誰かが代弁しないといけない。そうしないと亡くなられた人の死が、「無」になってしまうと思っている。何度も津波の驚異を人に聞く事で、その記憶を心体に留め、多くの人が亡くなった事を風化させないために、これからどうすれは良いかが自ずと判ってくる。
昔のような町の再建と、残った人がまた南三陸町で平安に暮らせる町を造るが、生き残った町民の役目だろう。それが亡くなれた人に報いる事となる。
今日で4年10か月となり、未だに1237名の人が行方不明と宮城のラジオは伝える。
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