2016
01/06

歌津地区の変化


歌津地区へは用事があったら出かける。私にとってはこんな地区になってしまった。仕事の用事も多くの老舗の商店が廃業し、数10年の取引先も生活の為に町を出た。住宅再建は地区ごとの5~20軒の防災集団移転は整備を済ませ、新しい家々が出き新しい生活を始めている。歌津で残っているのは「枡沢団地」と「歌津中裏団地」の2カ所が在り、120世帯が土地整備を待ち、同等の数の災害公営住宅の整備を待っているようだ。
そんな中で市街地整備も事業の資金源の確保が決まった。しかし、市街地は被災5年目を迎えようとしているのに、私の目では何も変わっていないように映る。

そんな中で歌津駅裏を通過した時にラーメンの登りを目にした。震災前に伊里前の寄木地区に向かう道路の角にあった店が、被災した駅裏に店を構えていた。震災以前にラーメンと餃子を食べた事を思い出す。この場所にはネギの畑がありラーメンの具として使われていた。両親の土地であり畑だった所と聞く。市街地の土地があれば、被災地であっても住宅が建てられれば、と言う町民も少なくない。住宅建設規制が被災した土地には掛けられている。ラーメン「タナカ」の再建は建設関係者だけでなく、歌津地区に暮らす人たちにも地元の味の復活は、住宅再建の力としてその元気に繋がっている気がする。
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石泉から田束山に向かう道路に出て、西光寺から国道45号に出る道で帰る時に、「三陸道」の高架橋が道路に架かっていた。既に高架橋に道路の鉄骨が上げられ、しばらく来ないうたにここまで完成していた。
町民は言う! 「三陸道よりも住宅整備を」「商店街よりも早く土地整備を」とだ。町が消滅するまでになった町に何が必要かと言えば、住民がいち早く暮らす場所である。早く住宅が整備できる場所の選択と、建設の手段としての早期の住民再建ながら、行政は浜々の小さい土地の整備である。多くの住民が暮らす志津川・伊里前市街地の住民再建の整備は一番後回しの「復興計画」は、行政の一番の失敗であり、その復興計画の期間決定の為に多くの町民が町から流出した。27年11月の人口は「13840人」と14000人を割った。節目の月として、「12月末」「3月末」の人口動向が気になる。

19歳から39歳の住民意向調査によると4000人余りの調査人数に「29.2%」の回答があり、10代の若者は4割が町外の就職を望み、6割の住民は早いスーパーなどの生活環境の利便性を求めていた。生鮮食品の確保には未だに近隣の町へ行くしかないと言う。住民の生活の改善は17年の夏のスーパー開設まで時間が掛かる。5年経っても生活環境整備はできず、震災6年で町民が一番望む買い物の場の確保は、余りにも住民の意向を考えない、実現できない行政の甘さが在る。「千年の一度の災害」と、何時までも逃げ続ける町がある。
女川町の駅の再建が終わり、商店ゾーンも昨年末にオープとなった。女川町の5mの嵩上げが早期の町整備を実現させた。人口の減少は女川も危機的状況ながら、「さあこれから!」と新しい町づくりの一歩となった。

昨日は生活の大変から、生命保険から借り入れの返金をした。年利「6%」ともなる借り入れは、更なる生活の圧迫となっていた。「前向きに!」何でもして行きたいと考えで、被災地の復興の一助となるよう、新事業の開拓を今後もして行きたい。


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