2016
01/05

志津川清水地区


歌津からの仕事の帰り途中の志津川清水地区の変化があった。時々通過するが旧清水地区の中へは、小学校からしか今は行けなく、4か月以上も伝えてない。昨日は少しの時間の余裕で気仙沼線の「清水駅」から、津波でも残った橋脚の解体の光景を撮ってきた。津波での町の変化と写真で残す活動の中で、忙しくても時間とチャンスを生かしデータで納めている。
清水小学校の閉校時の写真も、入谷の中学校の姿もブログを始めたのが10年前ごろなので、どこかにその写真が残っている。暇になったら懐かしい姿を紹介したい。ブログをやっていた事で何もかもを失いながらも、志津川地区の風景はブログのどこかにある事で、私の志津川の思い出が残っているとの安心感が繋がって、この大災害を予感していたような気もする。
今の場所も何も考えず、周辺の商店主が購入したからと、勝倉三九郎町長時代の政策での工業団地整備があり、この結果多くの商店主が事業の再開を早期にできた。日々の生活から自然と向き合い、その身体的な予感を感じ取っていた。

石巻の大川小学校の遺構として残すべきか、地区と市が幾度となく議論の場を作って、何度も今後と家族の思いを汲み取り議論を重ねている。清水地区の鉄路の橋脚とて地区の震災遺構とて成り得ると私は思う。防災庁舎の20年間の保存で、町なかの震災遺構の必要性が無くなった訳でもない。
160104_145733.jpg
清水地区は桜川の河川堤防の建設だけで跡地の利用は何も決まっていない。地区の歴史と伝統は地区民の心の中だけでは、行政の大震災を伝えるとはならなく、復興で変わった町を高台の新しい場所から、整備の完了の跡地の風景を見るしかない。私は震災後の海岸線も直後の復興工事も、清水駅の移り変わりも通る度に携帯やカメラで保存している。膨大なデータは会社が終わったら整理したいし、どこかに欲しい方に上げたい。今の行政にだけは決して渡したくない。町民の活動に公平・公正を欠き、広い視野での町民の維持の考えられなく、これまでの人口流出の結果を生んだ行政の政策は、国民の税金の無駄で、復興交付金はいったい誰の為と思う。震災前の職員の対応と、今の幹部職員の対応は大分違っている。震災復興で職員の多忙といつまで言い続けるのだろうか。
明日は歌津地区で新しい発見があった事を伝えたい。
スポンサーサイト

【 未分類 | CO:0 | TB:× | 07:21 】

COMMENT
POST A COMMENT


















 TOP