2015
12/04

西へ西へと大移動


登米市の三陸道のインターから西に道路整備が進む。東北道への連結と新幹線の「栗駒駅」までのアクセスの、時間の短縮へと工事が進んでいた。
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こないだ町の重鎮に「朝日製糸」の事を聞く。元の志津川小学校にあり、現在は国道398号の東岸の橋脚下から盛り土の部分に位置していた。以前の町の財閥と言われる10軒の方が関わっていた。震災前の大長・佐周・佐久・田中さんがそうだったと言う。現在は皆が町を離れ他の町で暮らしていると聞く、土地持ちでもあり力のある方々が、町の復興の中心となり再建のトップを走って貰いたかった。しかし、現実は昔の隆盛も消え、復興交付金・義援金・支援金・寄付金などによる、行政の成すがままで、町長の名声だけが報道で踊っている。悲し過ぎる現実を前に将来への期待だけが、私の復興への希望から輝きを無くしつつある。
登米市浅水小の向かいには10数軒の志津川町民が移住したと聞く。それも志津川の名士ばかりの名があった。鹿賀野地区だけでなく、登米市全域に志津川の人達が移転をし、高齢者と町でしか生きられない人たちが町に残った。「防災庁舎の在り方を議論したい」の若者たちの声は途絶え、防災庁舎を中心に「町の観光依存」へと、町の復興は集中から安定期へと進む。昨日の来客の話しです。

父親はネズミにかじられた布団にガムテープを貼り、来客もある部屋に万年床に近い状態で暮らす。叔母が「恥ずかしいから買ったらいいっちゃー」と兄に忠告をする。「寝れればいいから」と父は言う。さすがに叔母に言われ昨日に津山の呉服屋で買ってきた。さぞかしフカフカの布団で気持ち良く眠れただろう。「父は無駄な事は良いから」と言う。生活はコタツに横になり眠ってしまう、こんな一日に生活の不安定があり、テレビの代とイスを一昨日買い父の環境を、誰が見ても恥ずかしくないように努めた。
今週も仙台と水戸から父の来客がある。「疲れるなら止めれば良い」とアドバイスをする。人との繋がりは同じ建物の中に居ても親子の会話が少ない事を思えば、良い事と思うが、「疲れる」を最近は連発する。父の生活に目配りし二人の生活を楽しもうと努力している。

昨日は「還暦祝い同級会」の第二回目打ち合わせ会を、志津川仮設商店街の「松原食堂」の同級生の店で開いた。会議を早々にビールで喉を潤し、報告で着実に来年1月30日の開催の同級会に向け進んでいる。住所不明も多く被災しバラバラになった我々の仲間の集まりは、事務局の頑張りはあるが、全員への案内通知は難しいようだ。
登米市の方々に「気仙沼線再建」について聞いた。40代女性はBRTと長距離バスで十分と言い、60代の女性は「開通までの取り組みの姿を思い出すと寂しい」と話す。津山の駅の寂しい姿に本当にこれで良いの?
 これまで努力した開通した「気仙沼線」を、廃線にして町の先人に報いられない空しさは無いとと思う。

今日は金曜日、何をしようか。
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