2015
10/22

昭和49年志高卒3年4組クラスのみんなへ


大恩師工藤先生が急逝され、昨日21日午前10時から開催され2時間のお別れの場に参列した。志津川高校の昭和48年度の2年4組からクラス替えにより、担任が工藤先生になった。進学クラスとして共に先生の教育・指導を受けた。その先生が16日大好きなお酒の晩酌の後に亡くなった。余りにも突然の死ながら、私は亡くなる3日・10日前に会っていた。自宅を元の場所に娘さんが建て、両親を南方仮設から迎えて移転した日が、私が最初に訪ねた10日前の午後の事だった。志津川地区はまだまだ復興は程遠く、市街地には赤土の山があるだけだ。

葬儀に弔電を送った。
「工藤すけよし先生の突然の訃報に接し、謹んでお悔やみ申し上げます。教壇に立つ『凛』とした先生の姿は忘れる事はありません。安らかにお眠り下さい。」
昭和49年度志高3年4組クラス一同

3番目の弔辞は今年から志高校長として赴任した、同級生の入谷の山内松吾が当時の事を振り返り、最後に二人で趣味の先生のカメラの写真に収まった事を話した。
学院高校から国学院大学に進み、信教と学問に没頭し、八幡神社の宮司となり、築館女子校から佐沼高校そして志津川高校と、宮司と教員の二束のわらじを最後まで全うした。震災で自宅を無くした物の、県の神社庁から全国の神社庁の仕事も厳しい生活の中で続け、被災地「志津川」の地区の活動は元より、ボランティアとの交流を大切にし、震災復興の加速する中での「地鎮祭」への仕事も、車の運転をしない生活で、町との行き来も「巡回バス」を利用し、町民の皆さんと同じような生活をしていた。当年「80歳」を迎えながら活発に家の事と町への復旧への尽力の日々だった。
先生の生き方の思想と理念に感銘し人々が集まり、多忙の中で若い時からの「短歌」は、自叙伝を出版もしていた。志津川の地区を守る「上の山八幡神社」の宮司として、多くの仲間と町内の何か所かの神社の氏子も含め、多くの人が最後の別れに参列した。300名は居ただろうか、その人望の深さと人脈に驚く。
高校教諭として県の協議会に参加し、60周年の記念誌発刊の事業が完成まじかだったと、代表はその無念さを神前で伝えた。
私たちの弔電は100通を超える中で選択され、教え子の代表としての気持ちを伝えられた。多くの人の中に他の当時の先生方の名前を聞く、卒業してから丁度40年が経過していた。卒業後も先生の暖かい優しさに包まれ、「のぶたか・伸孝・・」と先生はよく言っていたと、奥様の言葉に寂しさが増す。総ての教え子にも温かい目で接していたのに、早すぎる死に対し町民・教え子・同僚が集まってくれた。安らかに(二礼二拍手一礼)
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