2015
08/22

歌津「皿貝」の現風景


友人との繋がりは偶然にしても不思議と兼ね合いを感じる。昨日の父の「戦後70年」の記事があった事を昨日伝えたが、その新聞の「不幸欄」に友人の親族の事が掲載されていた。幼少からの付き合いは学生時代のブランクはあるものの、何でも事在る毎に共に志津川で歩んでいるし、今後も彼と志津川で楽しく日々を過ごすつもりだ。多くの偶然が二人の記事となった。
昨日は歌津の南三陸皿貝インターの出来る場所を見に行った。その入口には歌津地区の被災した建設会社の、新しい工場と自宅の造成が終わり、施設の建設が進んでいた。この場所からの高速を利用した町外との仕事の開拓と利便性から、早期にこの場所を確保した。この会社は震災直後から県外からの労務者を引き入れ、復旧工事や仮設の建設を初め、被災住民の自宅復旧工事や、町の再建への貢献を果たしている。今後も更なる公共施設や住宅再建の本格化など、会社の隆盛は町の再建が終わるまで続くだろう。
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昨日は登米市の「ささはら診療総合病院」に行った。太ももの付け根にピンポ玉位の出きものを4日前に自分で見つけ、不安な日々で一人悩んでいた。前日には患部から膿が出てきていた。大きな仕事を仕上げ納品まで何とか済ませたので、午後から先生に覚悟して行った。
診察結果は毛穴からバイ菌が入り、体内で化膿したからの診断に、最悪の「癌」でない事に先生の言葉に安堵した。糖尿病の持病がちょっとした菌でも、病気になりやすいと先生は話す。甲状腺ガンも笹原先生に見つけてもらい、助けてもらった経緯がある。患部を切開し膿を出し処置してもらい、今日もまた登米市に行く事となった。待合室には私が知るだけで4人の町の患者がいた。南方仮設で生活している同じ地区の方に声を掛けられた。「生活不活発病」の町の取り組でテレビに出ていた。志津川の災害公営の一号棟に入る事が決定し、志津川に帰る事を楽しみにしていた。
笹原先生は町の患者さんも多く、先生は以前志津川公立病院にも勤務しており、震災後には避難所での町民の診察や仮設診療所での勤務など、町の病院に残って貰う事を要請できなかったのかと、大きな医師の損出を感じる。

当分は通院し治療する事となる。4時間の通院・診察は大きな時間の損出でもある。
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「完治には10日くらいかな」と先生に言われた。今日も登米の笹原先生の傷口処置を受け、「来週の月曜に来れる」と、通院するように言われた。昨日・今日と二日間で南三陸町の人に、今日の5人と会い、知らない人も入れると30人以上もいる気がする。皆さんは志津川に帰り「災害公営」や「自宅再建」と言う、嬉しい声を聴いた。しかし、大多数の人は私も含めた高齢者で、震災前の主治医を頼り登米市の笹原先生の病院に通院していた。
同級生の母親が2人もいて、「孫できたでば!」と町の将来を担う子供の誕生? と思った。だが一概には言えなく、「外孫」かも知れない。還暦60歳となると孫もいて当然だ。「おらピーちゃんだでば!」と笑顔の母親がいた。

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