2015
08/11

あいつの生まれた場所


突然の電話だった。昭和31年生まれの同級生のリーダー的存在と私は彼を思っている。勉強・スポーツ万能で、優しさと人の間を取り持ち、仲間への思いやりも欠かさない、そんな「奴」だった。私は近づきがたい人間として、小学校時代から同級生だったが、高校で初めてクラスを共にしながらも、羨ましい存在と遠くから見ていた。
彼は「夢」を求め大学に、そしてまた大きな夢を持ち前へ進んでいた。高校を卒業してから、志津川と東京で暮らし互いの多くの問題の中で生きて来た。私の会社に突然、奥さんと子供と帰郷の折に顔を出してくれ、親友でもないのにお土産を貰ったと記憶する。そんな生活が続いた時に、チョットした彼への指摘に途絶えていた繋がりが、昨日の私からの謝罪で、互いの環境を理解しあった。
「・・・何処にいったの」「大丈夫なの」と仲間を気遣う電話だった。父親も知っているし、母も津波から逃れたと聞いていた。私の両親と同じ年齢で、お母さんはと聞くと「転んで入院中」と聞く、みんな同じ生活の中にあった。彼だけは未だに自分の目標とする人間に近い。
そんな彼が住んでいたのが、写真を撮ったこの場所あたりにあった。こんな事を思い自分は以前の土地に店を構え、「多くの仲間と昔を語り合いたい」と、細やかな今の目標を描く。
CIMG3422.jpg
大森町の残った高台の集落の前にも、震災前は1m位防潮堤があった。現在は写真のようにそんなに高くない3m堤防が出来ている。海抜から考えると8.7mになり、津波襲来の高さと同じだ。
還暦を前に「昔が愛しい」、昔を思うと生まれてからの事が一つ一つが、走馬灯のように蘇ってくる。塔婆を立てた時も「のぶたか君」と商店街で声を掛けられた。仙台で震災前までは教頭をしていたが、今は校長になっているかも知れない女性です。志津川高校3年4組の仲間は素晴らしい。しかし、指折るだけで4人が亡くなった。助けてあげられなかった近くの仲間達、何もできなかった事を悔やむ。みんなの分まで町を見続けて行きいと思う。だって大好きな志津川町だから!


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