2015
08/08

志津川の街並みが写真で残った。


震災前に同級会が昭和63年1月1日に大森町の「東京家」で開催された。昭和46年度志津川中学校卒業生の32歳の女性の厄年の同級会の記念誌に、当時役場の職員だった仲間が町の資料の、航空写真を提供してくれた。私たちの仲間の多くは町に残っていた。
家督として漁業・農業・自営業や、地元の若者は「遠洋・沿岸漁業」に従事し、役場の職員として津波で亡くなった2人の他に2人が勤務していた。大型船の遭難で2人が亡くなり、病気・交通事故も多く、一人で苦しみ悩んだ仲間の自死もあった。今回の大津波の役場以外の犠牲も少なくない。
還暦の「角塔婆」には24名の名前を刻み、同級生・仲間の冥福を祈り、「忘れてないよ」の思いを込めた。
24名の死は私に多くの「生きる事の大切さ」を教えてくれ、どんな苦しみがあっても「前向きに」生き歩む事をだ。仲間の事を思い出し「当時の事を語る」、これが供養であり、避けて通る事をしない。仲間の分まで、生まれ住んだ「志津川町」の事を語り継ぐ役目として、いまを捉えている。後戻りでない将来への「警鐘」で、周囲に今後同じ苦しみとならない活動として生き続けたい。天命が訪れるまで。
ブログ8.8{1}
仲間の街の資料提供はこんな形で役にたった。多くの仲間は記念誌を持ってないだろう。たまたま高台の倉庫に、過去の自分の作品として残っていた。この写真の町並の中央に私の故郷である家が見える。それは一生変わる事はなく、それくらい愛着のある綺麗な町で、決して知らない建設家の造る町並ではない。今、町がつくりだそうとしている町は、デザインコンペによる町民以外の構想がある。「中橋」「港橋」など、町民が参加できない町づくりに、愛着なんて持てる訳もない。多くの町民会議の意見など、ただ聞き取るだけで、大きな造りは他人任せの観光都市の再構は本当に町民の為なのかと、毎日自問自答を繰り返している。
退職・現職だった多くの役場職員が再建で町を離れ、祖父母・子供たちの3世代家族が、子供の為や親の事を考え、町を離れた。将来に繋がらない住民形成が町にある。生活が大変だから、子供達の為と町から出る選択は、自分の故郷を無くす事に繋がる気がする。「共に生きよう」は難しい事なのだろうか。
寂しい・悲しい・苦しい・辛い・・、こんな多くの悩みを語っても、生活が良くなる訳でもなく、今を楽しむ事をしようと日々言い聞かせている。
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