2015
05/04

あの時と今

さすがに志津川市街地も高台造成も工事が休みで、街中のトラックの往来もない昨日だった。
病院建設現場から魚市場とその前の堤防堤は建設中ながら、その巨大な構造物に驚く。本浜町には最後まで残っていた、鉄骨コンクリートの建物が知らないうちに解体されていた。我が家のあった場所には高く赤土が盛られていた。私には周辺の被災当時のままの光景が写真として保存され、土の下になっても映像と心にしっかり刻まれている安心感の中にいる。旧伊藤屋から戸倉に向かう途中に、志津川湾の青い空と紺碧の海の写真を、観洋と折立の入口で撮り、戸倉入口の現在の光景を撮影した。今度はレンズを戸倉中の校舎と、戸倉団地の方向を撮り、やっぱりここからも広大な海の水平線をカメラに収めた。天気は絶好の撮影日和で、時間も太陽が真上にある時間を選んだ。戸倉中の体育館の津波被災の現場を撮影し、観光客の案内の「語り部」の説明風景も、偶然ながら戸倉中校舎前で撮らせてもらった。そこから戸倉団地の現在を撮影しようと向かうが、入口はバリケードで塞がれていた。戸倉小学校が今年の二学期から共用となる。災害公営と戸建の完成は28年度の末で、その時点で引き渡しになるのかは、まだ流動的と思うが、関係者は予定期間よりも早く推移していると言う。帰りには防災庁舎に行った。庁舎前は観光客と車でいっぱいで、手前で車を止めその姿を撮り、帰りには川沿いの道路も閉鎖されていた光景も撮影した。この撮影時間は「1時間30分」で、被災地の急ピッチで進む海岸線一部を見て回る事ができる。

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2011.3.19日の行動
この日も戸倉に行った。戸倉の国道45号最後の地域が「荒町」で、瓦礫は10日も経つと道路の整備が進み、瓦礫は路肩に積まれ戸倉まで普通に行け、そのまま仙台までは崖崩れや多くの橋の安全性の為、走れる道路は限られ、災害復旧車が優先的に通行を認められていた。
従弟と対面し会う事で確認され安堵し、仙台へその生活の場を移していたと聞く。先輩達からのラジオと懐中電灯が差し入れされた。荒町に住む同級生・教え子・親戚の13人の生存を確認する。顔を見るまでは安心ができない。これは人が流動的であり、津波の襲来を逃れる機会は、多くの偶然が重なりあい、命が確保される。時間は午後3時20分から30分の間に津波襲来しない場所にいる事で、家族の悲しみからの回避ができる。
仙台甥っ子から「携行缶」でガソリンを30㍑貰う。小松先生と同級生と沙織「戸倉剣道OB」から電話が入った。その後で入谷地区に行ったと記されている。

多くの仲間・親戚に助けられた震災後だった。


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