2015
05/03

東山からの震災翌日の光景


3.11の大津波で志津川市街地が消滅した光景を初めて見た姿です。志津川中学校の眼下とは又違った光景が広がっていた。あの街並みには大きな鉄筋コンクリートしかなく、白く市街地に残り点在していた。勿論民家は全てが、津波で町の奥の隅々まで運ばれ、後は海の底まで引きづり込まれていた。

2011.3.18の8日目の行動と出来事。
磯の沢に水汲みに行く、飲み水ではなく生活用水の物で、高台に倉庫とガス台があり、洗顔の水だったり洗い物の為に沢水を使っていた。放射能の影響など考える余裕は何処にも無かった。
初めて歌津に行ったのがこの日で、同級生の妹と震災後初めて会った。その足で横山まで戸倉の剣道スポ少の無事の有無を確認に行った。横山の小学校の体育館に、戸倉地区民が避難していた。こんな一日の行動があった中で、午前10時半に登米市より、遠い親戚が物資を持って来てくれた。アリーナで守さんと晴敏さん夫婦に会い、ヒデキと母の死を聞く。正和の妹さんも無事を確認した。が、両親はその後津波の犠牲になっていた。仙台の兄の義理の息子が、町の震災復旧の道路整備で町に入り、その連絡が携帯で繋がった。この日、母の薬と生理用品を貰った。午後には同級生の近場にいる二人に、物資のお裾分けを持って行った。また、志津川小学校で山形県庄内町より炊き出しの支援があり、もち入りの鍋の汁が美味しかった。と記されていた。情報では熊谷呉服店の社長さんと、昆慶さんの社長など商工会の幹部の死を知る。昆野家の家族の父と同級生と兄夫婦が全て亡くなった事を、その後に知る事となった。

こんな行動を思い出し、毎日が「何かしないと」と、自分の家庭と会社よりも周囲の知人の安否や、できる事の支援と、行政への情報提供に努めていた。アリーナに置かれた対策本部に、避難所の状況と不足な物を伝える事にしていた。
みんなが何もないマイナスからのスタートがここから始まっていた。
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