2015
05/02

2011.3.11から一週間


ネパールの大震災から1週間が過ぎた。震源地が直下で深さ15Kの地震は、レンガ造りの建物にはその震度を防ぐ力は無かった。町が壊滅的で何もなくなり、住民は路上でテント生活をし、食糧も震源地の地域にはなく、震源地からの脱出の光景があった。生活するために電気・水・食糧もなく、被災地の救助も重機もなく、ままならない状況が一週間経っても続いている。

2011.3.11の4年前の震災一週間後の町の状況の、本浜から荒島を望んだ。何も見る限り人の手は入っていなく、津波後そのままの光景が広がっていた。
町中の復旧は高台にあった重機で、道路の復旧が震災の3日目から始まった気がする。高台や津波の影響の無かった公的施設など、学校に避難した住民が片寄せ合って暮らしていた。ネパールと比べても地域的に言えば、震災対応が出来ていた。
震災一週間目の私の行動が、議員手帳に記されている。夜の日課が一日の行動を纏める事だった。当時の知り得た情報が書留られていた。
雪の為に歌津・戸倉地区には行けなかった。朝9時に栃木との電話が繋がった。のぞみ作業所の通所生が2人亡くなった。教員をしていた従弟も十三浜で無事を確認、お得意さんの若竹さん御夫婦と娘さんの無事を確認、岩渕武くんは大丈夫で、親戚の寛明にガソリンを頼んだ。従業員の叔父から林の石田良寿君の家も駄目だった事を教えられた。記されている遠藤久美子(中国人)の意味が解らない。西條畳から姑・・・、(子供はいるが母・・・)、など意味の解らない事も記載してある。剣道の教え子の阿部誠と志津川電子の従業員の一人の無事を確認、この時点で同級生の荒砥の民宿あらとは消息が分からないとある。荒島のデベソ島まで潮が引き、その後、島の鳥居が津波で隠れたと、津波襲来の様子を聴き知る事が出来た。
震災直後は議員としての行動をとり、両親二人を残った倉庫に置き、家を一日中出たり入ったりしていた。残った車と倉庫にあった自転車で被災地を廻り、被害状況を調査した。
それと比べてネパールの大震災は、都市が本当に消えてしまうような、震災環境にあると思った。
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