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2015
03/11

賑わいの市街地が消えた日3.11


今日の朝は雪となった。ラジオは防災庁舎で手を合わせる被災者の姿を伝えていた。春の日差しが朝の雪を溶かしてはいるものの、強風が町を襲う。追悼式の会場アリーナ前の、追悼者の出迎えのテントもこの風では大変だろう。咋日の93ミリの雨で市街地の国道も冠水し、防災庁舎前も水浸しで、鎮魂の慰霊も厳しい状況がある。4年も経つのに嵩上げの盛り土はあるが、市街地の状態は何も変わらない気がする。70%の人たちが「復興は遅い」と言う。

写真は旭ヶ丘の突端から眼下の、津波襲来の跡地と、左の山の上の煙は、新井田地区の車両火災の延焼と翌日分かった。
幾度も襲来した津波繋藻の中で、6時頃の光景で、昼間のこの時期の小春日よりが、大震災と津波で一気に気象の、大気の変化を痛感した。家に閉じ込められた人々がいた。助けを呼ぶ声が、あちらこちらから聞こえてきた。広がる瓦礫の中には沢山の人々が埋もれ、静寂の中で何も聞こえなかった。県の庁舎の屋上で知人が助かっていた事も、震災後の3か月たってから聞いた。

この市街地の光景に町内の一万人が亡くなった! と感じた。しかし、800名の死者・不明だった。チリ津波を経験した町、「地震が来たら逃げる」が当然の町民の行動だった。これは「自助」という自分で自分の命を守る事です。私の本浜地区では「共助」を普段の避難活動で実践していた。地震で近所の高齢者に声を掛け、一緒に指定の高台に逃げた。

「公助」はと言うと、行政の防災器機は大地震で機能を失い、行政の住民への防災放送は、30分間の津波襲来時前まで、職員の「大津波です早く避難して下さい」で終わった。
住民を守るべき行政の機能麻痺に、普段の防災対策の甘さを指摘する。震災の復興遅延のそれによる危機感の無さを何時も思う。防災を軽んじ目先の観光・商工の新興を重視した結果が、今回の住民の命の消失と人口流出に繋がったと言い続けたい。

この大震災を風化させないためにも、行政の震災復興への取り組みを注視し、計画の改善ができ、新しい町づくりに繋がればと思う。決して震災復興への邪魔をしている訳でもなく、大好きな志津川を守りたいがある。また一世帯が町から去った。
いま、神奈川連三浦半島から大根の支援が届いた。
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