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2014
01/24

新たな名所へ


入谷鏡石の国道398号沿いに大きな看板が立っていた。
一昨日のテレビで見たことのある笑顔が溢れていた。建前での多くの人たちとの祈念写真に驚き、こんなにも多くの地域民・ボランティアの皆さんに支援されている。と感動と羨ましさを思う。
志津川物産組合が被災前にあり仙台市民広場で、地元から10店前後が仙台市民広場で、南三陸町の物産品を販売し好評を得ていた。テレビでは「癌公表」もし、医師より余命は限られるとも言われ、その状況で対面販売の大好きな仕事を続けていた。
震災時は志津川病院に入院中で、津波の時は病院入浴中で、パジャマ姿の中で命からがら屋上に避難し、雪の寒いあの一夜となった。お父さんはこの時の津波により病院で亡くなられた、とも話していた。
仙台の病院に転医を余儀なくされが、ここで死ぬのは嫌だと、志津川での仕事の継続を選択した。志津川中学校での「復興市」がそのスタートで、多くの被災地支援者・ベランティアの応援の声に救われた、感謝したいと言う。病気も落ち着き、御礼の気持ちを伝える為に、自分の店「松野や」をオープンした。
先週末の事で支援者がお花を届けてくれる。「嬉しくて涙がでる」と言う。ワンコインで定食が食べられる。自家製の野菜でご飯は食べ放題?と言う。南三陸の産品をつかった「そば」「まぜご飯」は量も盛りだくさんで、お客さんは大満足と話す。オープン時には藻くずガニをサービスで、感謝の気持ちを振る舞っていた。
松野さん無理しないでと言いたい。物産組合の仲間の水原さんも54歳で、復興半ばで亡くなられている。松野さんは「御主人に何かを残したい」と最後に話していた。近日中に食べに行きたい。

昨日同級生が突然電話をくれた「3年ぶり」だ。被災前にあったきりで、勿論家は流された。「何か仕事ないか」だった。私は思う「俺たちは資格を持っていないと何もできない」と、40年間一つの仕事をしてきた私たちには、続けた仕事で生きるしかできない。
朝、26日間入院していた先輩が来た。自分の身体を過信し、集中治療室で一週間、生と死の狭間を体験したと言う。被災地の復旧の仕事に2年半も走り続けた。「少し休んで下さい」に来月3日から働きますと言う。じーと家になんか居られないと話す。
私もそうだが、私は「甘ちゃん」である。

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