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2013
05/06

天皇陛下と同じ場所から


4日の日にこの場所に行きたくなった。ここから歌津伊里前市街地・海、そして歌津大橋の今を見た。天皇皇后両陛下が深々と大震災で亡くなられた方々に頭をお下げになった姿を、その気持ち尊さを思う。そこで一日も早い被災地の国民の再生を願った。
震災後に父に何か残して欲しいと懇願した。それは「千葉家の過去帳」であり、「父の来し方」など何かに書きとめる事をお願いする。しかし、あれから2年が過ぎるが書けないと言う。そんな時に震災で亡くなられた知人の父からの一冊の本が届いた。「以前息子に頼まれた」と、贈呈してくれたと本の最初に記されていた。
父が言う「寂しい」「怖い」を何か目標ができる事で、この震災の色々な苦しみから逃れる事ができると思い、一つの案として父に話した。父親を私は目標にして生きてきた、ここまで精神的の弱さは年齢と、過去の全て物質を失ったこと起因する。まあ無理を求めてもとの気持ちになってきている。
仙台・宮城DCに歌津伊里前で「福興市」の開催をする。その市街地の整備が進んでいるかを見る。重機が商店街の前に置かれ、駐車スペースらしき場所が確保されていた。地域にも・町民にも公平な行政の復興計画であって欲しい。
CIMG0220.jpg
歌津大橋が遂に解体へと向かっていた。4台の大型重機が解体に使われるのだろう。南三陸町の「遺構」の議論をしたくはないが、昨日も多くの観光客が防災センター前にいた。町に残る震災の爪痕は、高野会館と歌津大橋、そして防災庁舎だけであり、歌津大橋が解体され、残り二つがあり高野会館は400名以上の町民が、志津川市街地津波水没の中で助かっている。多くの職員が亡くなった場所は議会で解体の方向にあり、それが解体された場合に、高野会館を今も残している理由に、行政の遺構の考えが伺える。私の勘繰りでしかない。
15歳以下の子供たちの人口が1649万人となった。その比較に1957年の私の生まれた年が出てきて、当時は現在より1000万人15歳未満以下が多くいたと言う。確かに津波で児童は減った、私の時代は小学校のクラスの人数も4クラス40人で、160名がいた。現在は42名の志津川小学校の入学生の数でもその違いが判る。国も自治体も人口減少は避けて通れない現実と、減少問題を解決しようとする政策が無かったが、安倍総理はそこにもメスを入れようとしている政策案、そして行動を取っている。気が私にはする。
自民党政権になり、二代目根本復興大臣は連休の遊説に「チェルノブイリ」を選んだ。27年前の教訓と拠点施設の整備の必要性を感じ学んだと話す。総理はトルコに日本の原発建設の官民営業をしている。経済政策を最優先で、震災の復興に関しては、多くの大臣・議員は、海外へか地元に帰った。まだ2年が過ぎたがまだ何も変わりない現地は、「住宅再建元年」の自治体の位置づけがある。町民は本当に戻れるだろうか? それが何%となるのか? 町の再建失敗の疲弊の責任は? 全て未曽有の大震災のせいにするのだろうか?


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