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2012
03/12

一年前の朝


2011年3月12日、寒く冷たい昨夜からの雪の朝だった。被災後は弟の旭が丘の家に避難するも、電気も無くコタツに5人で少ない毛布にくるまり過ごした。夜中12時ごろには車で被災地の様子を一人見つめていた。
朝眠れず何回も真っ暗闇の中、星の明かりで向かいの志津川中学校を眺め、夜中のヘリコプターの動向や、向かいの山の奥からの赤い煙を心配する。多くの人が何回も被災地の様子を見に来た。朝7時に携帯で撮った写真がこれです。今日の朝の風景と本当によく似ている。
土・日と震災の一年間を全ての番組が、振り返り放送をしていた。2時30分からはアリーナにおいて「追悼式」が体育館であり町民が埋め尽くしていた。新たな現実と、津波の怖さを各角度から分析し、その自然の脅威を全ての人間が感じる日となった。
この中に志津川高校からの映像があった。二人の女性の津波からの奇跡の生還があった。その一人の「粕谷さん」は、私の叔母の同級生で、被災後誰かに「探して無事を確認してほしい」と依頼があり、仙台に避難した又、同級生の知人の方から無事である事を聞いたが、足首を骨折し入院していますと事だった。ユーチューブ見たし、昨夜の映像に残っていた。自宅の裏の塀2mから飛び降り、足首を骨折し、その足で畑を駆け上がり何とか津波から逃げた。もう一人の鈴木さんは、足が悪く立ちはだかる堀に阻まれたが、偶然の二本の角材が流れてきてその間に挟まり、流れてきた屋根に乗り上げられた。映像にはそのままの姿も残っていた。まさに「奇跡の生還」を映像がとらえていた。また、慈恵園老人ホームでも、職員の菅原さんが、ご老人の女性94才を車いすで津波に流されながらの救出が映っていた。被災後おばあさんは「認知症」ながら、当時の記憶がままならない中で「菅原さんだよね」と、19才の彼の名前を呼んだ、菅原さんの目からは涙が、助けられてよかったと、彼は助けられなかったら将来・一生の悔いになったと話す。
気仙沼市大島の海兵隊と子供の話には私も泣いてしまった。被災し父親の魚屋の店は流され、息子は無口になり気力を失くす姿に、母は海岸の店の前の冠水があり、人がと通れなく復旧のトラックが通ると、ぬかるみが波となり押し寄せていた。人が渡れないからと、その波を防ぐ土を運び土手を作る仕事を与えた。小学生の手で小さな道具では直ぐに作った土手もまた流される。記録を撮るために海兵隊がそれをカメラに、何をしているのかと不思議だったという。この姿に胸を打たれアメリカ海兵隊の何人かが、一緒にその作業をする。子供には自然と笑顔が生まれたと言う。今回の海兵隊の活動は歌津地区てもあったが、なかなか被災「地の復旧が進まないなかで、大島の応急の港の復旧作業は9日?で終わったと思った。子供と海兵隊の作った土手は「栄光の架け橋」と名づけられた。海兵隊の撤退には島民が、日本国旗と星条旗を二本竹に掲げ、見送る姿に、この交流は共に助け合うの気持ちと、国境を越えた被災者救援がある。
マザーずホームの先生に押し寄せた津波と火災からの、子供たちの救助は「IT」の力を実感させられた。被災後の当日から一年間の被災地の復興が続いているが、始まったばかりである。
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