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2012
03/09

兼業


ここは見てもなかなか何処か判らないと思うが、戸倉地区の西戸から荒町地区の玄関口を望んだ写真です。被災から8日目の国道45号線で海岸部から立ち並ぶ建物が瓦礫となり、津波最終地点の道路の両方に瓦礫となり、山のように折り重なっていた。
写真で見るとたいした事のないようだが、瓦礫の列は荒町のは入り口いっぱいに続く。折立川が左でこの部分の瓦礫が撤去なつたのは23年12月を経過しても終わらなかった記憶がある。ホテル観洋から戸倉地区に入るが、そこからここまで2.5Kの道路沿いの建物総てが流失、跡形もなく残るのは戸倉公民館、戸倉小学校が平地に残る以外は、生活の「証」と「歴史」が消え失せてしまった。
右側には「気仙沼線」があったが、戸倉折立の「陸前戸倉駅」は壊滅したものの、この鉄道は「命の道」となった。道路の崩壊はもとより、戸倉半島から国道45号の主要道路には、「折立橋?」が倒壊・流失し、水戸辺・在郷などの海岸部の住民の救助場所への避難は困難を極めた。戸倉小・戸倉中の子供たちは、倒壊した折立川を渡り、気仙沼線の線路を通り荒町へたどり着いた。また、ホテル観洋の観光客や近隣の住民も、同じ線路を通り荒町地区民が救助場所として支援した。
この地区の小さな集会所は被災者でいっぱいとなった。以前、荒町の住人だった方の息子さんが、福島で医師をしていて救助活動に駆け付けたとの話も聞く。そのご両親は志津川市街地で被災し亡くなった。
荒町に避難してきた戸倉地区の住民は、その後「登米市」の学校や体育館・公民館で、仮設ができるまでの5か月間過ごす事となった。
当時は連日の自転車での被災地の状況把握の行動があった。車は残ったがガソリンがなく、横山まで自転車でのアリーナ「商工団地」倉庫からの行動は、被災後八日目となり、疲れのピークを迎え、二日間ぐらい寝込んだ事を思い出す。無我夢中で生き活動・生活した一週間だった。
都会での「老々介護死」があった。認知の95才の母を65才の娘が見ていた。娘が急病で倒れ、母は餓死したという。今後、日本中でこんな事が起こる。私とて他人事ではなく、昨日は母を介護の父親が風邪で体調を崩し、9時に私が返ると「このまま死ぬかと思った」と話していた。千葉家は家族が今、一生懸命に生き続けている。新たな町づくりの為、そしてその町を見届けるためである。町長の兼業、三役とも今までの行政業務の現状に、何の問題もないと言っていた。一新した幹部職員に期待したい。
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