FC2ブログ

ARCHIVE - 2018年03月

2018
03/05

汐見橋3.25開通

2011-06-01 08.02.55
3.11の大震災から3か月後の「潮見橋」に立っていた。
ここからは松原の瓦礫置き場で、野焼焼却は一端終わった頃だろうか。左奥には八幡川の「自動開閉水門」が見える。当時議会の総務常任委員会で、町の消防体制の調査で志津川消防署行き、一室の10画面?の町の水門の状況が一目で見え、ここで津波の防潮堤の開閉をしていた。
八幡川の水門は5つに分かれていたが、2つ?が閉まり3つがそのままだった気がする。地震で電力が切れ、捜査ができなかったのだろうか。志津川市街地を襲った津波は「16m」と、防潮堤は海面から6mぐらいだっただろうか。津波は遥か上を遡り通過した。チリ地震津波の津波想定で6mに満たない防潮堤は、3.11の津波に対し何の防衛ともならなかった。
八幡川の川岸の高さを見て欲しい、この時で川岸を走る道路と同等の高さになっていた。津波による地盤沈下による物と思われる。

IMG_5975.jpg
3月25日の新しい「汐見橋」が開通する。さんさん商店街がある隣りにあたる。国道45号は8.7mでの町内河川堤防整備と同じで、川面がこんなにも下にある。橋は市街地の10mの土地に架かり、橋は1mまた高いだろう。
「親水性」という町民が八幡川に親しめる環境など、どこにも見つからない。階段は河川堤防にあるが、川面に下りるには、あまりにも危険で、水に親しんでもらいたい「子供達」には、無理といっても良い。
志津川町づくり協議会の議論は何だったのか。会議に参加するために瓦礫の町中を通り、多くの会員が当初は来たが、最後には委員となった10名前後が、町の建設課と復興を請け負った「UR都市機構」の職員が、町民の部会の人数よりも多かった事を思い出す。

今思うとこんな空しい事が、震災後の復興の会議にあった。町の大きな力が働く会議が沢山開かれ、「町民のための町づくり」とはならなかった。だから今も町民の多くが貝の様に口をつぐんでいる。
スポンサーサイト

【 未分類 | CO:0 | TB:× | 06:56 】


TOP