ARCHIVE - 2018年03月

2018
03/31

次のステップへ


旬が過ぎつつある「春の息吹」をいっぱい頂きました。この前は「ふき味噌」と、故郷の恵みに包まれています。フキノトウを天ぷらで、塩が一番合い、ソースや醤油でも食べたり、ほろにがさとビールが良く合う。

昨夜は友人の娘たちの旅立ちのお祝い会。おかあさんと子供達で作った「おもてなし」の餃子が最高に美味かった。友人とのビールも進み、今日は再度の二日酔いとなった。
素直な二人の娘さんと、笑い・話し、変わらず大きく成長して欲しいと願った。人と会う事で多くの情報を得る事は、自分の肥しとして大いに役立てていきたい。「千葉さんには……」と、そんな言葉が嬉しい。

来月には62回目の誕生日を迎える。少し保守的な態度と行動が自分に現れ始めている。信頼できる人と共に生きる事で、「もうイイ!」との気持ちが増している。冷たい人になっている感じもする。

昨日は本浜営業所のユニットの水道破裂で、2週間も経って業者が来てくれた。理由は凍結防止の電源が外れていた事で、元栓を開けての大洪水だった。営業所の看板も4月1日から新しくとお願いしていたが、業者が年度末と言う事で「忙しくて」と、予定どおりとはいかなかった。でもイイ! それで何も変わらない、今生きている事には。
スポンサーサイト

【 未分類 | CO:0 | TB:× | 07:53 】

2018
03/30

町の復興事業の完成に立ち会って


3月29日(友引)、南三陸町給食センターが新井田地区に新築移転した。町から教育委員会に引き渡された。
11時からの開所式には、宮城県気仙沼教育事務所の所長が祝辞を述べた。「食育」は子供達の成長には欠かせなく、その他に子供の成長に欠かせない、「知育」など3つの「育」を述べていたが、メモを取る事を忘れた。良い事を話していたと感じる。
式が終わりセンターの見学と、給食が振る舞われたが、私は議会で見たし、人ごみは嫌いなのでキャンセルした。帰りに職員が追いかけてきて、「これを!」と神奈川からのキャベツを手渡された。

この日の友引に合わせ午後1時からは、志津川の市街地の中央を走る「国道45号」の渡り初めにも、一般人として記念の日の撮影をしてきた。しばらくぶりで色々な人達の顔を見た。志津川保育所の園児が「渡り初め」に参加させられていた。
元気な笑顔と歓声があった。普通の生活に少しずつ戻っている感じがする。高野会館を左に見ながら新設となった道路を通る。あの津波から7年、その会館で壮絶な「生と死」の境目のドラマがあった。大地震から自宅・家族を心配して帰った方の多くが津波で亡くなった。社員が「ここに残るように!」と、芸能大会に参加した高齢者を制止した。地震から30分後、会館に16mを越える津波が、350名余りの町民を襲った。会館の社員もまさかこんなにも大きな津波が襲来するとは思っていなかっただろう。渡り初めに来ていた高齢の女性も、高野会館に居た時の事を想い出し語る。

こんな一日だった。



180327_071231.jpg
「逃げろ!」の合図でスタートした復幸男の出場者たち
 東日本大震災から立ち上がる新生女川町を発信しようと町内の若手住民が企画し、今では春の一大行事として定着した「女川町復幸祭2018」の第7回が25日、JR女川駅前商業エリアで開催された。「濃い町に恋しに来い!」のテーマ通り、1万8千人(主催者発表)の来場者が町自慢の味覚や芸能、体験を楽しみ、港町の活気を満喫した。
 今年も前日の24日には「津波が来たら高台に逃げる」という津波避難の基本を伝える「津波伝承 女川復幸男」を実施。震災時、町に津波が到達した午後3時32分に「逃げろ!」の合図でスタートし、町内外から集まった230人がゴールの白山神社までの全長400メートルの上り坂を駆け抜けた。
 1着でゴールし名誉の〝復幸男〟に輝いたのは、石巻市在住で先日、仙台育英学園を卒業した高玉蓮斗さん(18)。3年連続出場で悲願の復幸男に輝いた高玉さんは「3度目の正直。昨年は3位だったので、ようやく1位になれてうれしい。春からは大学で陸上競技を頑張りたい」と語っていた。

女川のイベントとの違いを実感する。町民が進んで街の復興事業に参加する形・意識の欠如は、いったいどこが違うのか。これまでの町中心の復興政策に問題がある。


【 未分類 | CO:0 | TB:× | 07:30 】

2018
03/29

国道45号開通式


今日の午後1時に東日本大震災の大津波で橋は残ったが、津波対策として土地の10m嵩上げした東西の土地を結ぶ45号線は、橋桁に設置の橋の高さを入れると「12m」にもなる。しかし、南三陸町志津川地区はそれを遥かに超え、16m以上の大津波が襲った。この橋に立ったら、その津波の巨大さと、自然の驚異の物凄さを実感できるだろう。八幡川の川面からどれだけの海水が町を呑込んだかを!

「国民の判断にお任せしたい。」と言う総理、衆議院議員選挙は昨年の10月に野党は大差で敗れた。鳩山総理の奇行発言と管想理の原発対応の失敗で、民進党の堕落さを今感じる。山田太郎氏の総理に「つい辞めるのですか。」の参院での質疑を見た。来年の参院選で「国民の判断?」を、この現状を忘れないで、投票行動に表して欲しい。総理は「国民は時間が経てば忘れるだろう」と高をくくっている。30年度予算が決した。

昨日の議会の全員協議会で、国民健康保険の改定の説明があった。低所得者対策が講じられた保険税と言うが、中間所得者の保険税が上がると言う。我が家の以前の保険税は「40万円」ながら、議員となり「60万円超」となり、母が亡くなった事もあり、国民健康保険の負担の影響は来てみないと解らない。
90歳過ぎの両親との三人暮らし我が家は、医療費・老健施設入居・入院など、国民健康保険の大恩恵となっていた。それを考えれば国民の義務、政府決定には従うしかない。

2月末の人事院勧告も、国会のゴタゴタで告示が遅れ、一か月遅れの議員の一部報酬のアップは否決されたが、職員・特別職の期末・時間外報酬が少し上げられた。そして、国民健康保険など、税制改変も昨夜の国会通過で、国民健康保険の新たな税制で新年度がスタートする。

今日は町の給食センターの開所式が11時にあり、午後1時からは一般人として開通の橋を渡る。震災から7年18日目、やっと主要道路国道45号のう回路から本道路の開通ながら、三陸道の延伸で通行する車は、以前の半分と私は想定する。防潮堤の機能をもった国道の整備であり、町は海際にも防潮堤の建設で二重津波防衛体制となるが、「必要なの、そこまで?」。

【 未分類 | CO:0 | TB:× | 07:33 】

2018
03/28

国政の闇はまだ深く

昨日は仙台の最後の理事会に出席した。宮城県印刷組合の藤井理事長からの「陳情書」が議会で採択された事を、理事会に伝える事ができた。理事長も3期6年の今年度で退任する。震災後の係わりの思い出は多く、感謝を伝えた。
午前10時15分に出発し、仙台バイパス六丁の目位まで1時間10分で到着した。気仙沼から来る人は12分の短縮ながら、まだ1時間50分と遠い。
昨日の「佐川元財務長官の証人喚問」をラジオで聴きながら行く。佐川理財局長の作年2月の国会答弁の違和感をずーと思っていた。昨日も「刑事訴追の可能性があるため発言を控えます」の連発は皆が覚悟していたが、結果的には何の解決の糸口すら見つからなかった気がする。
キャリア官僚は伊達じゃなかった。国会の証人喚問にも動じない佐川氏がここにいた。学力による知識のアップは人生に於いて必要と、これから進学する卒業生には言いたい。45年前なら学力なくても生きられた時代から、これからは社会勉強で成長して行く事もあるだろうが、学力なくして安定した生活から結婚、そして老後の確保とはならない。だから今から何を目指すのか、目標をもって進んで欲しい。私のような「後悔の人生」とならないように!

昨日は南三陸町の移動が発表された。幹部クラスの大胆な移動が見られた。新年度から南三陸町の町づくりは、どの方向に進んで行くのだろうか。

【 未分類 | CO:0 | TB:× | 07:16 】

2018
03/27

志津川町平磯地区


しばらくぶりで志津川地区荒砥に行った。
防潮堤の工事が進み、道路もう回路またう回路と、迷路のようになっていた。14m以上の大津波が途中の「平磯地区」まで押し寄せ、海抜12mの場所の家屋にも被害をもたらした。入り江の集落は全てが移転し、高台に新たな住まいを建設した。

役場の幹部がテレビで話すのを偶然目にした。「政府の津波防災に習い工事を進める」「万が一再度津波が襲来した場合、その通りにしないと町の責任となる」と言った会話の内容だった。
私は他の自治体のように、被災した住民に説明だけでなく、この地区はどうすべきかと、防潮堤の在り方を議論すべきだと思う。日本国民の税金を無駄のないように活用すべきと思う。無駄な設備投資は社会保障や福祉対策・生活弱者に回す、そんな国政政策を私は希望したい。
建設会社で働く労働者への「働く場確保」が、色濃い国の政策と感じるのは私だけだろうか。

180326_141038.jpg
震災からの町づくりも、町民の主体の町づくりを私はのぞみたい。女川の「復幸祭」に学んでほしい。1万8千人の来町者で、若手住民の企画により、町民主体のイベントだった。この復興イベントに行き止まりの「女川駅」を使い、多くの人達が集まった。災害復興住宅が建設された高台から、歩いて来れる環境が町づくりの基本にあった。

【 未分類 | CO:0 | TB:× | 09:38 】

2018
03/26

互いの「老い」との戦いの中で

土曜日に本吉町の父の川柳仲間から電話が一回二回と来た。固定電話へ来たものが私の携帯電話に転送された。
午後3時に一回、午後7時にまた来た。「何かあったのか」と出先から自宅へ電話すると、偶然にも父が出てくれた。「本吉から電話だから連絡して!」と話した。この後の再度の電話だった。翌日に、「電話したの?」と聴くと、していないと言う。何度もくる電話は何かあると、私の携帯の着信番号を教え電話をさせた。
私は94歳の父はまだ元気なんだから、「人にできる事はできる限りやって欲しい」と懇願した。友達からの話の内容は「来月、百歳になります。一度会いたい。」と言っていったと話す。お茶や川柳をたしなむ上品なおばあさんです。
3か月前に気仙沼に行く機会があり、お土産を買っていたが、父は「気持ちが?」と行く事をやめ、今に至っている。来月の日曜日にでも、本吉の自宅まで私が連れて行こうと思う。

180325_144658.jpg
午後は父と初めての「将棋の勝負」です。

この駒と将棋盤は知人が被災で内陸に二次避難場所に、山形から支援の招待で当時「お土産」にと私の分もと頂いた物だった。戸倉地区に仮事務所を設置した時に戸倉に持って来てくれた。25年の4月に新しい住宅に移転し、将棋盤が見える所にあったが、「駒」が何処にもなく、引っ越しの時に何処かに紛れてしまっていた。生協から安い将棋を買い求め、昨日の将棋に臨むと、父が「将棋の駒あったー」と、言ってきた。下駄箱の中をゴソゴソと「これが。」と出してきた。これこれと、やっと見つかった。
認知とボケ防止の対策として私自身が、前々から将棋を父としたいと思っていた。父は70年ぶり、私は20年ぶりに将棋に向かった。結果は私の2勝だった。将棋の経過を見ると、盤面全体への確認に注意が少なく、先を読む事に欠けるが、指し手や考えはしっかりした物と驚かされた。日曜日の我が家の行事として続けて行きたいと思っている。

昨日は充実した一日だった。午前の日課のブログ・フェイスを書き発信し、仕事もしたし、報道2001と日曜討論を見ながら、「ドラゴンボール」の最終会も見る事ができた。20年間?も続く番組で、高齢者となっても面白い番組だった。

CIMG7339.jpg
「男の料理」は身を助けている。妻を亡くしたり、独身だったりすると男性は、食事作りの壁にぶつかる。私は料理好きでこの面では問題は無い。得てして男の料理はお金を掛けるが、被災地・高齢世帯でお金は掛けられない現実がある。
昨日の料理は実に安上がりにした。菜の花の和え物は、菜花が100円・チクワ100円で一品。にんにくの芽の炒め物は、にんにくの芽は100円・もやし30円・ウインナー150円で仕上げ、もう一品は貰った「フキノトウ」を天ぷらにした。それにビールとご飯一膳で、豪華な夕食を料理を楽しんだ。朝もその残り物で朝食とした。

今夜は何を食べようか? 明日は仙台に出張です。父親にはお昼の弁当を5日分注文しました。弁当の日は喜んで楽しみにしています。

【 未分類 | CO:0 | TB:× | 07:30 】

2018
03/25

我が町の復興計画に疑問


土曜日は震災復興に向かう自治体を見て回っている。
昨日から女川町は「復幸祭」が女川駅を中心に開催されていた。多くの町民が参加し、女川の良さを確認する、住民参加型のイベント開催をしていた。
女川町庁舎も建設中で、町を見下ろす高台に、モダンな建物が町の中から望める。その隣には巨大福祉施設も震災以前のままであり、行政・教育・医療機関が町の海を見渡せる場所にある。女川の復興を見て貰い、感謝の気持ちで観光客を迎える体制が整いつつある。

180324_151935.jpg
4m余りの嵩上げで、減災を目指す町づくりを町は決めた。商店街の風景はのんびり流れ、観光客はまばらに町の散策する姿が見られた。女川中学校は高台にあり、生徒が企画した震災を忘れないようにと、校舎前に「碑」が建立された。将来的には小中の一貫校へと、教育体制が移行して行く。将来を見据えた住民たちによる「町づくり」の挑戦が進められていた。

180324_155606.jpg
女川中学校の校庭の「女川いのちの碑」です。

「文書改ざん問題」「森友問題」など、国会・地方議員から「安倍やめろの声も!」、自民党党大会はどうなる。こんなフェイスブツクの記事を見つけた。

自民党本部では、24日午後から全国幹事長会議が開かれています。森友文書改ざん問題で、地方からの不満も高まっています。

 (政治部・前田洋平記者報告)
 安倍総理大臣は会議の冒頭で、森友文書改ざん問題について触れ、「最終的な責任は行政の長たる内閣総理大臣の私にある。深くおわび申し上げたい」と陳謝しました。1年後に統一地方選を控える地方議員にとって、森友文書改ざん問題による内閣支持率の急落は大きな不安材料です。ある地方議員からは、「このまま問題が長引くなら、安倍総理には辞めてもらいたい」といった声すら出ています。こうしたなか、小泉進次郎筆頭副幹事長は会議に先立ち、記者団の取材にこう答えました。
 自民党筆頭副幹事長・小泉進次郎衆院議員:「(民主党政権になった)2009年は、とにかく自民党以外に1回やらせてみたい。今はその機運ではない。だから、その時よりもっと緊張感を持たないといけない。自分たちで何とかしないといけないから」
 25日の党大会を波乱なく乗り越え、地方の不満を払拭できる機会にすることができるのか、安倍総理にとって待ったなしの状況です。

ツイッターの記事に学ぶ

育児世代の住宅支援を
 岩手大教育学部社会学研究室による大槌町の応急仮設住宅の入居者調査がまとまった。85%が生計や人間関係などでリスクを抱える一方、75%が町に愛着を感じていることが分かった。調査した麦倉哲・岩手大教育学部教授と野坂真・早稲田大文学学術院助手は「古里への愛着が強いがゆえに仮設住宅に残らざるを得ない子育て世代への住宅支援や、災害公営住宅(復興住宅)でも孤立しがちな高齢者の継続的なサポートが必要だ」と指摘する。【中尾卓英】
 調査は、研究室が2011年から7年連続で実施。昨秋は18歳以上の1347人を対象に、面談と郵送で259人(19・2%)から回答を得た。
 生計面では「暮らしが厳しい」が56%、人間関係では家族や親類、友人らの訪問が年々減少し「交流活動が特にない」が45%だった。精神面では「平穏になりつつある」と「厳しくなっている」が28%で並んだ。三つのリスクのいずれかを抱える人は85%を占めた。「復興の度合い」では個人、町ともに4割未満が半数以上だった。
 また、住まいの再建では「自宅を再建」が49%、「復興住宅に入る」が30%だった。だが、20~40代では「できるだけ仮設住宅にいたい」「自宅を再建したいができない」が合わせて27%を占め、「復興住宅に入る」(20%)を上回った。政令月収が15万8000円を超える収入超過世帯が、入居3年後からの家賃の大幅アップに悩んでいる姿が浮かぶ。ただしアンケート後、県と町が減免措置を発表したため、意識が変化した可能性もある。
 一方、「大槌町への愛着が強い」は昨年より大幅に増えて43%、「やや強い」が32%だった。自助や共助では、地域の交流活性化▽防災の文化を受け継ぐ▽犠牲者の鎮魂・慰霊▽祭りや伝統行事の振興--などの復興まちづくりを希望。公助では、医療介護費の負担軽減▽生活再建支援金の増額▽地元産物が安く買える産直店舗▽低家賃住宅--などを望んでいる。
貴重な経験、今後に生かす
 町では、震災で人口の1割弱にあたる1286人が犠牲(行方不明者を含む)となり、家屋は全体の半数を超える4167棟が全半壊した。2月末現在、44の仮設団地に683世帯(1336人)が暮らす。今春以降、7年の設置期限を迎える仮設住宅では、自宅再建や復興住宅の入居が決まった「特定延長世帯」以外の約300戸が退去を迫られる。
 同町で21日にあった調査報告会には、仮設住宅自治会長ら約20人が参加。小鎚第2団地代表の野沢文雄さん(73)は「復興住宅に入ったお年寄りは、今も仮設住宅のお茶っこに帰ってくる。近く戻る町中心部での暮らしでも、お茶っこや畑作業など仮設住宅の貴重な経験をコミュニティーの再構築に生かしたい」と話す。
 安渡町内会長の佐々木慶一さん(56)は「経済力のあるリーダーが退去した仮設住宅で、どのようにコミュニティーを維持していくのか。人の交流で活力のある元気なまちを目指してきたが、『せめて住宅再建を』と復興の概念が変わっていることも大きな問題だ」と話した。

【 未分類 | CO:0 | TB:× | 07:31 】

2018
03/24

皆が仲良くこの町で


南三陸ホテル観洋のロビーから志津川湾を望んだ。
観光発信と南三陸町の素晴らしさと、三陸沿岸の海の恵みを、国内・国外に伝えている。しかし、BRTの停留所もなく、宮城交通も運行を中止し、長距離バスも、気仙沼線の廃止と三陸道の延伸により、人と車の流れが変わった。多くの弊害をホテルは追っているが、最大の被害者は南三陸町訪れる観光客のように感じる。共に相乗効果が発揮される町、観光で再生する町になって欲しいと願う。

私は観光立町よりも「水産立町」の町になって欲しいと思っている。

180324_072538.jpg
従業員が三陸道「三滝堂インター」で面白い物を見つけた。恋する珈琲神社のコーヒーで買い求めた。参杯記念「かみわり」で、中には「おみくじ」が入っていて、「中吉」だった。楽しいと話していた。

【 未分類 | CO:0 | TB:× | 07:46 】

2018
03/23

この日の嵐のわうな怒濤の一日


ついに玄関の木製の衝立が春の嵐でボロボロとなった。それくらい一昨日前の「爆弾低気圧」は凄かった。
そんな中で県税の建物調査が午前中にあった。なんでこんな日にと思う。「建物取得税」の現地確認で、二人の職員が、まだ何も無い志津川市外地の換地の高台に来た。これでまた、会社再建の一つが片付いた。この場所は山降ろしの風が非常に強く、「のぼり」も重しがあっても一緒に倒れる。この市街地は今の所、工場再建は7軒で企業誘致はない。本浜町・南町・十日町の震災前の面影はもうどこにもない。

CIMG7329.jpg
南方仮設の先輩が「引っ越し中です」と、薔薇の花を二輪持って来てくれた。いまは3軒の被災町民が住むまでになったと言う。頑張り屋の先輩、引っ越しや仕事で少し体が「まいっている!」に感じた。自分でも感じているようで、「疲れている。」と一言、まだまだ人生の道のりは長く、ゆっくり歩んで行きましょうと話した。

DVC00092-1.jpg
3時から叔母の嫁ぎ先のお寺で、津波で本堂が倒壊し、「倒壊した本堂の柱からギターを作るプロジェクト」のお披露目があった。制作されたのは4本で、その音色の素晴らしさを、プロも絶賛している。1本はアメリカに渡っていると言う。住職は大事に保存し、一人のギタリストがコンサートをした。私は1時間居たが準備が伸びて、仕事の用事で帰った。大阪からの電話や、荷物届きましたと携帯が何度もなった。

CIMG7331.jpg
夜は「まちづくり未来」の会議があり、「南三陸町震災復興祈念公園」の、要望に対する回答についてが儀論された。5年前? 奈良の大学の宮城教授の設計が、アリーナで説明されたが、あの時から何も変わらない。28年の11月から会議が実施されていない事に驚く。それでいて12回の志津川町づくり協議会の、「輝く未来づくり部会」だった。
祈念公園の構想に疑問を持っている私は、最初は「何も話すまい!」との思いは、他の被災地に比べ建設的な議論の無い会議に、一つ二つと鬱憤が爆発した。「なぜ慰霊碑を建てないのか」「震災で亡くなった町民の名前を刻まないのか」「歌津地区民も入れて議論しないのか」など、祈念公園の構想には、多くの住民を入れない、行政主導で、町民の意見など何処にも入る余地は無いようだ。
一番驚いたのは、こんな大きな津波を体験し、祈念公園の建設で、多くの来町者を迎えようと言うのに、「避難道」が新設されなく、既存の道路を利用しての非常時の非難体制だと言う。
首長は800名もの町民を失い、多くの観光客を迎えようとした時に、津波対策の無い町づくりに、南三陸町の悲劇は「起こるべきして起こった!」と再確認した。一日も早く新しい町のリーダーの誕生を期待する。

今日は地区の「役員引継ぎ式」があり、夜6時半からで、また今夜も出掛けないといけない。1時半には父を病院に載せて行く。機械の調子も悪く、多忙と心配ばかりが頭を駆け巡る。今朝の空腹時血糖は「180」と高く、今も震度3の地震が発生した。


【 未分類 | CO:0 | TB:× | 07:29 】

2018
03/22

巣立ち旅立ちの春


21日春分の日、気仙沼市本吉のクリーニング店迄、ワイシャツ5枚を持って行く。目の前の南三陸海岸インターから乗り、北へ向かい歌津インターまで、出口は20台もの渋滞となっていた。この区間は知人に言わせると、「国道を通った方が良い」と話す、そのとおりかも知れない。
歌津駅から石泉を廻り小泉から本吉に出た。祝日で「グリーンロード」はがらがらながら、この日は交通事故があったと言う。車が少ないとスピード超過の輩もあるのだろう。帰りは国道45号を通ると、大型の工事車両が前方にいて、ここでも20台は連なっただろうか。春に向かい被災地の運転は気を付けて、ゆとりを持って運転して欲しい。歌津港地区も川に橋が架かり、10mにも達する道路ができていたが、これも一時の仮の橋かも知れない。(写真は小泉地区の裏街道に工事の進む高速の高架橋です。)

昨夜嬉しい連絡が入った。私の友人の娘が高校に合格した。残念ながら志津川高校でなく、気仙沼の高校だった。母は言う「通学が大変」「学校までの治安が悪い」など、こうした中学生を持つ親の意見に真剣に取り組んでいない、関係機関がある。しかし、震災復興に向かう中で、まだまだ町の生活事情は厳しい中にある。
向かいのコンビニで義理の妹の妹に会う。子供達を紹介されたが、こんなにも大きくなっていた。娘の成長には私も多くを知り感慨深い物がある。被災地の子供達の成長は単純な物ではなく、多くの我慢を強いられた生活があった。きっと強い子供達になる気がする。くじけないで、困った事があったら周囲の大人・友だちに相談して欲しい。誰かがきっとあなたの良い方向に導いてくれます。これが日本であり、平和なこの国です。世界を見渡して御覧なさい、子ども達の取り巻く環境は残酷なものです。

【 未分類 | CO:0 | TB:× | 07:30 】

2018
03/21

母校の南三陸町の卒業式


昨年10月の選挙で「南三陸町町議会議員」となり、追悼式典の献花、公的施設の完成式、高速道のインターの開通式など、復興への歩みに同席できる事となった。昨日の志津川小学校の卒業式は、これまでの4年間は、部外者となり式に参加できなかったが、平成29年度の母校の小学校の卒業の、旅立ちの祝いに参加できた。

その席上に剣道スポ少で震災後に活動した子供達の顔が並ぶ、りく・ひかり・たけと・まさひとがいた。1年半ぶりの彼らの姿は、一回りも二回りを大きく輝いて見えた。なきじゃくり、痛いと顔をゆがませ、がむしゃらにぶつかって来た子供達を思い出す。あの瓦礫の中を剣道に取り組み、仮設から道場に元気に通ってくれた。諸々の都合から去った子供たちもいた。私もスポ少から離れた。しかし、私と二人の団員だけでの活動もあり、子供達と竹刀を合わせた練習、稽古の成果を大会でおもいっきり発揮した。
戸倉愛好会での私の指導者としてのスタートは、「参加する事に意義がある」から、親たちの子供への願いを「勝つ事」「優勝する」で表す、方向へといつしか変わって来た。

素晴らしい卒業式に感動した日だった。

議会も昨日で会期をすべて終え、町の予算も議会を通過し、町は30年度に動き始める。

【 未分類 | CO:0 | TB:× | 10:02 】

2018
03/20

私と父の思いが広島の千羽鶴に


春に近づくにつれて「花粉症」の方の辛さが伝わってくる。
動物も冬眠から覚め、春に誘われムクムクと! ホームベージには南三陸町の入谷では、背中にゴソゴソ、コウモリだった(ウソー)。志津川地区では大きなコウモリを手にした店主が、写真を掲載していた。

18日の日曜の河北新報「リアス版」に、父と私が建立した「東日本大震災慰霊塔」に広島の山下さんが「千羽鶴」を持って来た事が記事となり、嬉し過ぎる事が生きていると起こる。
今日は志津川小学校の卒業式に出席する。卒業生の中には、3年だった小学生が卒業の日を迎えた。志津川剣道スポ少の団員として、弟1年生と共に入団した。今年度からスポ少は抜けたが、震災後の大変な中で子度たちは頑張っていた。
昨日は遠くまわった叔母が、「60年以上も前に志津川の皆さんにはお世話になりました」と支援金を届けてくれた。95歳となり大震災に見舞われた「志津川」の人達の役に立ててくださいと言う。今でも息子が志津川地区の皆さんに御世話になっているからとも話す。当時から世話になった皆さんに、今でも物品を運んでいる。「生まれた時はみな裸なんだから!」が口癖のおばちゃんです。

180319_184603.jpg
昨日は「特製カレー」を作った、何て事はない、残り物をぶち込みカレールーを入れただけの物です。食べる時に「粉チーズ」をふりかけるのが、私流の食べ方です。

18日に慰霊碑の視察で東松島に居た時、突然、同級生が電話をくれた。高校の仲間で「クラス会をしないか!」と言う。良い話しながら私が幹事は無理である。「3年4組」は多くの嫌な事ばかりが思い出されるが、そんな仲間と今は昔話に花を咲かせている。後何年生きるか解らないが、「楽しく暮らせたら最高だ」と、日々取り組んでいる。


【 未分類 | CO:0 | TB:× | 07:16 】

2018
03/19

東松島市の首長の震災復興が私の理想


東松島市へはこれで2回目の私の視察となる。
仙石線の「のびる駅」の整備と、高台に学校・住宅・災害公営・交流会館など、海岸の被災地を一か所に集め整備をした。多くの建物は木造で、地域の産材を利用し、そこには仙台までの鉄道も走っている。こないだは多くの学生が、学業に遊びにと乗り込む姿に出逢った。その顔は笑顔に包まれていた。

東松島市の慰霊塔には天皇家の皇族や、外国からの要人も訪れ、1100数十人の御霊に低頭で慰霊を行っている映像が流れた。
「何で南三陸町は多くの復興予算をもらいながら、いまだに慰霊碑が立っていないの?」と素朴な思いが、フェイスブックに綴られていた。この方だけではなく、町民の多くもそう感じている。何も言わない被災者感情が、防災庁舎の存続・県有化により、解体が覆った事で、町民の意見は政治力によって、決定を否決・存続へとなった。

CIMG7285.jpg
正に国政の問題と同じ、大きな力は「私欲」「我欲」となり、国民の為の民主主義が崩壊したと、野党のみならず、与党の一部からも声が高まっている。安倍政権の支持率も色々あるが、東テレは「30.3%」と10数ポイントも下がった。政府は「時間が立てば戻る」と楽観的な観測でこれから向かう。絶対に民意が消される政治はあってならない。国民を騙し馬鹿にしている政治がまかり通っている。

土曜日の慰霊碑巡りは、2歳の我が子と共に亡くなった29歳の母の名前があった。子供が一人が津波で亡くなる事の思うと、「お母さんといっしょに!」は、救われた気もするが、決してそうではなく、残された夫と家族はどちらでも良いから生き残ってと、きっと思うだろう。亡くなった親子を思う家族の存在は大きく、もしも残れば、子どもは成長し、母はまた弟・妹を宿す事ができる。こんな所からも「命の尊さ」を感じる。

CIMG7299.jpg
東松島市の以前の「野蒜駅」のホームは残され、震災を伝えるスペースも整備されました。一つ残った「戸倉駅」の再生も方法も多く議論されないままに、残った線路はここ一年で総てが撤去され、気仙沼線の町民の努力の形・歴史を、どこにも遺構として残さず、先人の努力を全て消し去る、現町政の心ない政治政策に、私は多くの異論を持っている。
一時期は町の華々しい復興の元で、発展の姿には見えるだろうけど、将来的には人口減の中で、悲しい末路を辿る気がしてならない。復興特需を得た会社・人もあるが、町・民の本当の復興にはなってない。



【 未分類 | CO:0 | TB:× | 07:33 】

2018
03/18

町の慰霊碑建立と犠牲者追悼を


石巻市十三浜の慰霊塔に手を合わせて来た。
地区内で「約240名」の犠牲者を出し、海岸線の家々は全てが流失した。今は大きな防潮堤と道路が整備されている。
人が集まる所として「交流センター」が建てられ、震災の伝承と地区の産品が販売されていた。ホヤ串とツブ串を買い求め、昨夜の「酒のつまみ」とする。
この地区にあった「石巻市立吉浜小学校」の慰霊碑には、一人の先生と、7名の生徒の墓碑銘があった。その傍らには生徒の家族の死も刻まれていた。
学校に寄せられた「義援金」で碑が建てられた。将来に学校の存在と亡くなれた人々を、ここで住んでいた事を忘れないように、慰霊碑が整備され「祈りの鐘(こころ)」が設置されていた。

それなのに震災から7年目が経過したのに、我が町には今だに慰霊の場は無い。

CIMG7252.jpg
どこの慰霊碑にも亡くなられた人たちの名前が刻まれている。野蒜駅の東松島の慰霊塔には「1100名」を超える人たちの名前があった。我が町では死亡・行方不明で800人を超える。亡くなられた人たちを、どうやって忍び確認すれば良いのだろうか。
十三浜はプレートを慰霊碑に植え込み、東松島市は名前のチップを慰霊碑に並べ、名前設置に重いドア開閉ができる。悪戯や盗難防止の対策まで講じていた。南三陸町は20mの築山に、モニュメントを設置し、その中に死亡・不明の方の名前を記載した名簿を収納する。これでは高齢者など足の弱い人が自由に行く事はできない。「震災祈念公園」を設計する。奈良大の宮城教授に、町では「名前は刻まない慰霊の場」と、注文を付けたのだと私は思っている。

CIMG7242.jpg
今日は10時から沼田地区の「総会」と、2時から知人の葬儀に行って来た。前日まで元気だったと言う。人の命ははかない物ながら、大災害の死は何も身体管理の不備でもなく、突然の自然の猛威、これに対し町が最大の対策を講じ、総ての町民の命を守る義務が町にはあった。それを甘く考え、チリ津波の教訓を将来に生かせなかった。今の首長は、商工・観光など自分の思惑を主体に、津波への対策が希薄だった気がする。
防災訓練に、中学校の生徒や、自衛隊の利用など、行政区への非難パフォーマンスなど、怪我人の搬送など、地震による避難訓練があった。津波は違っていた。その脅威を目にした時、これまでの非難訓練が、本当に意味ある物かを、私は振り返ると「?」「疑問」が、あの3.11から頭の中を巡っている。

【 未分類 | CO:0 | TB:× | 07:27 】

2018
03/17

弁当と政治


一週間が無事に終わりました。父の世話も予定(私の考え)どおりにはいかず、多少食べ好きのようです。昨日の病院予約は午後2時でしたが、1時には病院へ行き4時には、処方箋も貰い帰る事ができました。

議会でも昼食は町内の弁当店を順番に利用しています。昨日は入谷地区の「まめ菜工房(ビーンブクラブ)」さんで、春の天ぷらには「フキノトウ」が入っていました。ほろ苦い味に春の訪れを感じさせて頂きました。また、内容の「おしながき」には「おもてなし」の気持ちがいっぱいでした。
父の食事も「コモンズ」さんにお願いしています。塩分少な目、野菜を多くと希望も聴いてもらっています。昨日の薬剤師さんは「野菜は控えて下さい。」と忠告を頂いた。父のお昼弁当は、残った量のおかずとご飯を、夕方にレンジで温め食べています。こないだなどは、「カレー食べますか?」のコモンズさんの温かい言葉に甘えました。しかし、食事の内容と量は私が調整しています、お気使いなくと丁重に説明しました。
こないだも「いちご1カップ」「干し柿1袋」を、ペロリと平らげました。認知症かな? 過食に走っている感じと思っています。「食べたい物は食べさせてあげたい。」と、父にはひもじい気持ちにさせたくないとの、息子心からです。

180317_081937.jpg
「森友問題」は遂に自殺者まで出す事になった。廃棄したはずの書類が沢山出て来た。「内閣人事局」で官僚幹部の人事・任命に、総理の意向が働き、財務省・理財局に、総理が「私が係っていたら議員を辞職する。」発言があり、これにより多くの機関への強い政治力が影響した。弱い真面目な国家公務員は、「私だけが理財局に残った。」と苦しい立場の人間がその責任を背負った。

「森友問題」は遂に自殺者まで出す事になった。廃棄したはずの書類が沢山出て来た。「内閣人事局」で官僚幹部の人事・任命に、総理の意向が働き、財務省・理財局に、総理が「私が係っていたら議員を辞職する。」発言があり、これにより多くの機関への強い政治力が影響した。弱い真面目な国家公務員は、「私だけが理財局に残った。」と苦しい立場の人間がその責任を背負った。


前川喜平前文部科学次官が名古屋市の公立中学校で講演した内容について文部科学省の担当者が録音データの提出などを求めたことについて、林文部科学大臣は「誤解を招きかねない面もあった」と注意していたことを明らかにしました。

 林文科大臣:「やや誤解を招きかねない面もあったと考えられるために、十分に留意する必要がある旨、伝えたところ」
 文科省などによりますと、前川氏は先月、名古屋市の公立中学校が行った公開授業で講師を務めました。これを受けて文科省の担当者は今月に入り、前川氏に依頼した経緯などを市の教育委員会に問い合わせ、授業の録音データの提出を求めていました。林大臣は問い合わせについて「法令に基づいた行為だった」とする一方、方法や表現などについては慎重にするよう担当の局長らに注意していたということです。
 名古屋市教育委員会・杉崎正美教育長:「このような問い合わせというのがあまり聞いたことはないので、文科省の方にはどういう意図で問い合わせが行われたのか聞いてみたい」
 名古屋市の教育委員会は授業への介入があったという認識はないとしたうえで、文科省に改めて意図を問い合わせる考えを示しました。

【 未分類 | CO:0 | TB:× | 10:47 】

2018
03/16

一人は大変だよ!


一昨日は「19.5℃」と、このお天気を利用しない手は無いと、朝6時に洗濯機を回し、7時に物干し竿いっぱいに、溜まっていた洗濯物を干した。外に干すのは30年に入り初めてだった。
父への食事は、昼に弁当を取る事にし、多いと半分は夕方に食べる、我が家の食事のルールにしている。私も貰いものや生協の100円前後の品が、私の血糖値の上昇には丁度いい。

今年度から南三陸町は婚活に力を入れ、130万円を計上した。結婚へのセミナーやイベント活動をする。登米市・気仙沼市では3年も前から始まったている。宮城県でも「結婚相談会」を、自治体の要望で開催しているが、一回目は相談15分に8人と開催したが、一人も来なかったと言う。そして、今月再度相談会をする。
地元高校への「魅力化事業」として、今年度は教育支援と言う事で、「1200万円」をふるさと納税から支出した。来年度も1800万円を学習指導と別での一人の人間を採用する。副町長は言う、学校の魅力化の会議で、「学力の向上を要望している。」と話す。今年も70名足らずと、年々20名ずつ減少しているのが実情です。登米市から学生受け入れと、町から学生の通学で、巡回バスの南方仮設の閉鎖から路線廃止が一変し、巡回バスを2往復確保する事となった。そんな中で東松島市は「全寮生高校として開交」する。改革の方向性は町外・県外から学生を取り込む事へと向かっていた。

CIMG7210.jpg
3.11の前後は多忙を極めた。広島・大阪からの支援者の受け入れは元より、年度末を控え地区の庶務としての総会の準備、父の入退院とその後の「お返し」の対応、退院したのにまだ見舞いに来てくれる人もいる。昨日は登米市の従弟が「叔母から」と、仮設で暮す3人の方に届け物をと、私が昨日に配達し喜んでくれた。議会も後半で、今年度予算の細部への「町民の声」を町に伝えた。行政の大変なのは解るが、被災した町民もそれ以上に大変である。

今日は午前中に歌津地区の「小学校卒業式」があり、議会の開催は午後1時30分からとなる。議会運営で決定した20日までは、私は終わりそうもないと思っているし、多くの問題に議論を尽くしていきたい。

【 未分類 | CO:0 | TB:× | 07:25 】

2018
03/15

大阪・シンガポールから友来る


昨日も予算議会で、その中に「シンガポール義援金」があり、30年度に完成を目指す「生涯学習センター」に、設置される図書館の備品に活用されるとの話があった。
10日の交流会には、町出身のシンガポールで働く、私のブログで繋がった東大阪支部の同業者との、初めての御対面があった。私も初めての出逢いながら、昔からの知人の様に感じた。
ネットの情報網は凄い! 私のブログの一部分から、南三陸町の支援で来てくれた人を特定できる。そんな事で今回は「3.11」の7年目の追悼の日に寄り合う事となった。
「友好支部」となり4年目を迎えるが、これまで「気仙沼・南三陸支部」に5年間義援金を頂き、交流費に充て南三陸町の新鮮な魚介を送っている。大阪の総会・ビアパーティー等の「ビンゴ」の景品として活用している。一昨年の大阪印刷組合60周年の席上にも招待され、「南三陸町の若布」をプレゼントした。

CIMG7195.jpg
11日の追悼式典にも参加された。その前に被災した南三陸町を見晴台から望み、さんさん商店街を見学した。私の営業所・伝承館に寄り、会社・本浜慰霊塔に寄り手を合わせてくれた。近くにできた「菅原そば店」で昼食を取った。
常宿の「コクボ荘」では三陸の海の幸に満足頂いた。この日は「ワカメ・タラのしゃぶしゃぶ」で、獲れたて新鮮な南三陸町の水揚げ産品に、新たな美味い物を食べさせてもらった。女将の話も交流会を和ませてくれた。

DVC00117.jpg
昨日は志津川高校の合格発表会あり、普通科80人に「38人」、ビジネス科40人に「24人」の合格だった。追加の募集となる。
登米市佐沼の92歳の伯母に電話をいれた。話で南三陸町の出身の若者世帯があり、私も知っている家庭ながら、震災後に結婚し二人の子供ができたと聞いた。この子らが何も無ければ南三陸町の、未来を切り開く担い手となったのにと、震災後にどんな方法を使っても良いから、町に若者を残せなかったのかと、過去に戻れない事を嘆くばかりです。

過去を振り返り、こんな失敗をしないようにしようが、将来再び「同じあやまち」をしない事に繋がると私は思っている。仕事や生活に於いても!

【 未分類 | CO:0 | TB:× | 07:37 】

2018
03/14

人との出逢いの不思議


広島の山下さんとの出会いは、広島に私の少しの知人の震災疎開があり、知人への「被災地の状況報告」があり、私がこの状況を伝える写真を編集した事から始まった。

広島を中心とする、山口・福岡・熊本などの団体会員が、「愛の福袋」活動を始め、拠点として知人が繋がり、宮城・岩手・福島の被災三県を支援し続け、7年目を経過する。震災報道で「手ぬぐいが無い」となれば、タオルをダンボールで何個も送り、ピアノが津波で被害となったとテレビを見れば、何処の学校か探し当て「ピアノ2台を贈った」。活動のこれは一部でしかない。

今回も南三陸町に初めて「慰霊塔」が建立されたと知り、今年の活動として「千羽鶴」を、広島の皆さんで折り、「私も伝手います」と、多くの顔が色紙の写真で、その思いを伝えてくれた。

代表の山下さんは、わざわざ広島から7回目の「3.11」の前に来てくれた。ここに来るまでにも出逢いの不思議を話してくれた。バスターミナルで飛行場までのバスを待っていると、運転手さんが「高速が交通事故で動けません。」と言う。一緒に待っていた人が沖縄の人で、「卒業?」で帰らなくてはならないと言う。勿論、広島の交通網も知らないので、別な方法で空港まで行けるように、教え手伝ってあげ、無事に沖縄まで帰れたと言う。山下さんは「これは私に与えられた事」と笑って話してくれた。広島からは仙台までの最後の直行便で、夜遅くに着き、晩御飯の予定は駄目だったが、朝食を共に取り今回の行動の内合わせをした。

CIMG7179.jpg
10時に志津川市街地の本浜跡地を訪れ、慰霊塔に「ずー」と手を合わせてくれた。広島の方は死者への慰霊の気持ちが強いと感じる。それは世界で初めて「原爆投下」を経験し、多くの県民が亡くなり、今も苦しんでいるからだろう。世界で苦しんでいる女性や子供達への支援活動があり、外国へも何度も渡航している。「人に寄り添う事」を使命としているかのようで、今年は私も広島の地で手を合わせに行きたいと思っている。「互いに!」と言う気持ちを実現させたい。

「WFWP活動」の南三陸町への今年の活動は、今年入学の小学一年生へのお祝いのプレゼントと、6月には被災し再建・再建途中の住民に寄り添う活動わ上げていた。

CIMG7182.jpg
今、私に何かできかです。父親を見守り二人の家庭の意維持と、町民を一人でも多く助けて上げたいがある。

【 未分類 | CO:0 | TB:× | 07:22 】

2018
03/13

昔の志津川町にはもう戻れない


私の町長の予算編成への「総括質問」

平成30年度の町長の施政方針及び概要予算について、総括的な質問をいたします。7つの主要の基本としての考えがありました。
日本中で人口減少・少子化・高齢化が進んでいます。そんな時代となり、被災地「南三陸町」は、大震災の津波被害により比べる事のできない、人口減少と高齢化が将来の町の大問題としてありまする
町の復興計画の中で、「創造的復興」を目指して、残り3年の復興完了に向け進む中で、将来にわたり安定した行政サービスには、強固な財源基盤を築くためにも、職員の資質を向上させる必要を上げています。
復旧期・復興期から発展期と、当初の多額の整備事業が終わり、来年度予算の一般会計は前年より約12億円の増額、今年度補正予算で66億円の減額となっています。
こうした状況の中で、住民生活の確保に、無駄の無い、将来にツケを回さない財源の活用をお願いします。

7つの柱の中の2つ目の「子育て支援及び移住・定住人口の拡大」の、移住・定住対策は町にとって最大の問題と思います。全国の自治体は過疎の進む町や、地域の限界集落化など、対策は急務であり、既に手の付けられない状況となっている地区もあります。そうなる前に総ての自治体が人口減少の対策に取り組んでいます。成功している自治体は、他の所ではできない、小さい町だから出来る政策を打ち出し、全国から子育て世代が集まっているといいます、職員の英知と成功事例の自治体から学ぶ事が求められます。
ここで取り組む町の「新たな結婚活動の支援」の取り組みと、可能性を伺います。

次に7つ目の「地域産業の振興」について伺います。総ての産業に結びつく循環型の町の経済発展が望ましく、総ての町民生活に潤いとなる産業振興をお願いします。
「ASC」「FSC」の国際認証での、町への大きな財源に繋がる意味を教えて下さい。震災後の「南三陸産材」の活用は、被災住民の住宅再建にあたり、補助金助成もあり、多くの町民が「助かりました。」と言っています。目に見える、しっかりとした町の財源に繋がる、事業の投資をお願いします。
そして、ここにあるラムサール条約」の登録を目指し、町は30年度に活動をしていくのですが、その登録の手ごたえは、どうでしょうか。また、「KODOMOラムサール事業」があります。子ども達との交流と繋がりの創出だと思いますが、新たな交流人口の獲得と思いますが、伺います。


町長は常々話す言葉に「小さくてもキラリと光る町づくり」がありますが、今後人口が減って行く町には「コンパクトシティー」の町づくりを前面に出し、財源が減少の中で、町民の全てが笑顔で暮らせる町の創造を、佐藤仁町長は担っています。
多くの震災復興の問題を抱え、「町民との会話」「町の事実情報発信」を密にして、解決には町民と一つになる事が不可欠と思います。
以上で町長の施政方針の総括的質問とします。

【 未分類 | CO:0 | TB:× | 05:11 】

2018
03/12

俺も被災者


「俺も被災者」と言った言葉に後悔の念が募る。

昨日は4年ぶりの「南三陸町追悼式」に出席した。震災前からお世話になった「笹原先生」に声を掛けられた。先生には震災時の糖尿病の薬が無い中で、怪我が化膿し、その治療を志津川小学校で受けた。ありがとうございました。
昨日の被災者のメッセージは、戸倉で剣道を教えていた「美里」、素直で頑張り屋の彼女だった。震災時の事を初めて知った。自分を可愛がってくれた祖父を津波で亡くしていた。震災前に祖父が5年生の孫に、「今日は一緒に寝るが!」と言われた、彼女は「恥ずかしい」と断った事を覚えていた。あの時の事を今も忘れないでいた。美里は7年間で大きく成長していた。
志津川中学校への統合の入学式で、多目的ホールでの式に、二階で見ている私を見つけ、手を振ってくれた。剣道は決して強くはなかったけど、そんな優しい女の子は、立派に成長していた。山内校長も「優秀な生徒だよ!」と語っていた。
突然の姿は「志高生議会」の開催にあたり、議長の役目を果たしたのも彼女だった。進学を決め将来は「臨床心理士」を目指しが大学に進むと言う。

生きていると、「悲しい事」も沢山あったが、そして「嬉しい事」にも出逢える。人生は素晴らしい。

【 未分類 | CO:0 | TB:× | 07:30 】

2018
03/11

震災を風化させない事

2011-04-24 13.39.44

2011-04-24 13.40.02

2011-04-24 13.54.00

被災地に何が必要かの「辛坊治郎」の問に、震災時の対策本部で町長が話した言葉は「震災を風化させない事」と答えていた。
そうだだろうか、私は「町民が一日も早く元の暮らしに戻れる事」を上げたいる。
凡人だから?

IMG_4119.jpg

2011-04-24 13.54.11

【 未分類 | CO:0 | TB:× | 07:33 】

2018
03/10

大震災を乗り越えた子ども達

2011-06-19 05.13.09
戸倉地区は私に取って想い出多き地区であった。10年間戸倉の小学生・中学生と、「戸倉剣道愛好会」から「戸倉剣道スポーツ少年団」の指導者として、子供達と交流する機会があった。

この神社は低地部にあった小学校から、大震災時に一晩を過ごした場所であり、低学年の子を高学年の子たちが、歌を合唱したり、身体を寄せ合って寒さをしのいだ。先生方の判断で裏山の「五十鈴神社」に避難をして全員が助かった。日々の静かな暮らしから一変、何も無い、苦難と我慢の中で子供達は7年間生きて来た。

2011-05-11 09.02.31
あの「2011.3.11」から、子供達や私の環境も一変した。私の立場で、当時登米市善能寺小学校校舎での、戸倉小学校の入学式に出席した。入学式で剣道の子供達は、新しい仲間を迎えた。

そこから戸倉中学校は地区から、志津川中学校に統合され、6回目の卒業式を迎えた。「良くここまで頑張ったね。」と心で呟く。多くの被災後の出来事が想い起こされる。

CIMG7162.jpg
自分の夢に向かって、義務教育から自分が選択する「道」へと、思いっきり羽ばたいて下さい。「おめでとう!」

【 未分類 | CO:0 | TB:× | 06:46 】

2018
03/09

命を守る町づくり

2011-05-01 14.53.13
瓦礫となった自宅・工場から、被災し跡形も亡くなった故郷「志津川町本浜」の海を望む。5mの堤防・漁協が見え、広い道路の両側には家々があったが、何も無くなった。これが津波の脅威です。震災後この場所へは、住んでいた地区民は訪れる人もなく、今でも10mの嵩上げとなった場所へ来る人達など、想い出に浸る人は少ない。
以前の行政区の私が御世話になった沢山の皆さんも、現世にはもう戻る事はできない。そんな多くの人達の顔が浮かぶ。54年暮らし多くの月日で皆さんとの、深い繋がりと「絆」を築いてきた。
残った地区民の皆さんは、新たな環境で再スタートをし、新たなコミュニティー構築に奮闘している。高齢の方も多く新たな地域で、繋がりの再構築は、各団地で困難を極めている。しかし、前へ進もうと御夫婦で努力しているが、希望の途中で家族の死に直面する方もいる。一日も早く、長く落ち着いた安定生活に戻る事を願う。

IMG_5982.jpg
南三陸町志津川字本浜の場所は10mの嵩上げとなり、防潮堤堤防が急ピッチで建設されている。津波の規模は「L1」に対応する防潮堤で、「8.7m」の高さで整備される。東日本大震災は「L2」で千年に一度の津波であり、16m・20mの津波に対応できる堤防の整備ではない。町では「人の命を守る」「避難の時間を作る」「施設を守る」など、津波対策を講じた。「人は高台へ」と町の人々が安心して生活できる環境整備に努めている。

今月末に国道45号と汐見橋が開通する。「震災復興祈念公園」はと言うと、32年9月に完成と言う。総て(電気・水道・排水路など)の市街地の整備が終わらないと本格工事はできないと言う。手を合わせられる町の「慰霊の場」は、最近は行かなくなったが、木造の地蔵と焼香台だけの粗末な場所しかない。死者への慰霊・畏敬の念に欠ける、町の復興計画に異論を声高に言う町民は少ないようだ。
8年目を迎えるあたり、私の会社の地区の慰霊塔には、これまで私の活動している、町に支援をしてくれた方々が、訪れでくれると言う。

【 未分類 | CO:0 | TB:× | 07:07 】

2018
03/08

海が引いたら逃げろ!

津波3.11
「2011.3.11のあの日を私は忘れない!」と発信続けている。

子供の頃から祖母・父に「海が引いたら高台へ」と二人は言う。地震が来たら地割れなどのおそれで、荷造り板を地面に引き、その上に子供達を父は立てと言う。5歳ごろから言われた地震・津波の対策だった。

あの日、私は海の引きを見る事は無く、川沿いを自宅へ帰った。両親を車に乗せ町の指定の避難所は車では狭く、自然と1k以上離れた弟の家を目指した。道路の混乱・渋滞の中を、狭い交通の少ない道路を走った。「地の利」である。

高台ながらも海の状況を見る事はできなかった。川はと言うと川沿いを高台へ向かったが眼中には無かった。

2011-04-12 15.22.39
震災から3か月後に、穏やかな美しい同じような場所から、志津川地区の志津川湾を望んだ。

写真では島まで半分の海が引いた。57年頃前もチリ津波で、市街地に5mの津波が押し寄せた。海の引きに磯に貝や魚を獲りにいった人もいたと聴く。
大きな自然現象が起こる前には、「予兆」という環境の変化があり察知し、昔から語り継がれる事を、行動の一つとして、常に家族で対策を考え、相談して行く事で家族の命が守られる。

現在の小学生の津波記憶が薄れて行く中で、「語り継ぐ」ことの大切さを防災教育の推進を、全国で展開して欲しい。自然災害は「つなみ」だけではない。

【 未分類 | CO:0 | TB:× | 07:34 】

2018
03/07

南三陸町志津川「五日町」


南三陸町の志津川地区の商店街「さんさん商店街」も本設となり、一年間を終え65万人の来場者を迎えた。
震災後に1年足らずで仮設のさんさん商店街ができ、5年間で200万人の被災地支援の方が全国から足を運んでくれた。感謝の気持ちしかない。
現在は三陸道も南三陸町内に3つのインターができた。ストロー現象とならない事を願うばかりです。
商店街の来町者を80万人の問票だったが、その数には達しなかった。しかし、仮設の時の1.6倍の皆さんが南三陸町の商店街を訪れてくれた。3.11の追悼記念式典が開催される時には、何人の方が御出でになるだろう。私の知人も大阪から4人と広島から来町する。「おもてなし」で歓迎をしたい。

2011-05-19 11.08.45
写真は志津川地区で繁華街と言われた「五日町」です。壊れたビルは仙台銀行で、屋上に金庫が有ったと噂が話題となった。左側に商店があり商工会もあった。その場所を重機での瓦礫撤去と、ボセンティアの100名を超える皆さんが、鉄クズやガラスなどを取り、その上を10m嵩上げし、「さんさん商店街」が建設された。多くの町民の歴史と思い出の上に、新しい町ができた。

一時期の潤いは「一過性の物」と、経済学者は言う。風化させないようにするには、地域が語り継ぎ、町民が笑顔で暮らす姿を見せる事が必要と思う。

【 未分類 | CO:0 | TB:× | 07:25 】

2018
03/06

ここは住宅の玄関です

2011-06-09 05.02.20
旧志津川市場の南堤防(灯台側)に繋がる南町の、一軒の玄関の津波後の姿です。堤防まで続く土地は、総て海の下に沈んでしまった。地盤沈下は2m以上と感じる。当初は70㎝の沈下があり、跳ね返りの隆起が起こり、震災から1mの土地の隆起が発生している。土地は生きている、驚きの南三陸町の状況です。
玄関向かいの平地には「牡蠣剥き小屋」があり、養殖業者が朝早くから牡蠣剥きに働いていた。現在は旭が浦地区の「南三陸卸売市場」の隣接地に、志津川地区の生産者が共に働いている。以前は4カ所の牡蠣剥き小屋で作業をしていたが、現在は高齢化や跡継ぎ問題など、生産者は半分近くに減少し、この場所で共に作業をしている。

IMG_5964.jpg
志津川地区の商店街から、海に向かう道路は、今後は「潮騒通り」として整備が進む。震災から8年目を迎えるにあたり、今は市街地の換地も終わり、商店主などに土地引き渡しはされているものの、この周辺の換地の商店再建は、蒲鉾工場・歯科・飲食店2軒の4区画で建設が終わり営業を始めている。
写真の道路の先は防潮堤が建設され、その前には漁民の作業場所と、以前まではコンクリートブロックの建設場所だけがある。水没した土地は埋め立てられ、元のように漁船の船着き場が完成している。
南防潮堤の「根つき魚は戻ってきているだろうか」「八幡川のアサリは再生しているだろうか」、こんな事を思い起こす。子供の頃に牡蠣剥き場に、剥いた殻に「たなご」が群れを成し集まり、沢山釣った事。カキ剥きの殻の山に自転車で転び、手が血だらけになった事など、私の心には多くの良き志津川町が広がっている。

【 未分類 | CO:0 | TB:× | 07:16 】

2018
03/05

汐見橋3.25開通

2011-06-01 08.02.55
3.11の大震災から3か月後の「潮見橋」に立っていた。
ここからは松原の瓦礫置き場で、野焼焼却は一端終わった頃だろうか。左奥には八幡川の「自動開閉水門」が見える。当時議会の総務常任委員会で、町の消防体制の調査で志津川消防署行き、一室の10画面?の町の水門の状況が一目で見え、ここで津波の防潮堤の開閉をしていた。
八幡川の水門は5つに分かれていたが、2つ?が閉まり3つがそのままだった気がする。地震で電力が切れ、捜査ができなかったのだろうか。志津川市街地を襲った津波は「16m」と、防潮堤は海面から6mぐらいだっただろうか。津波は遥か上を遡り通過した。チリ地震津波の津波想定で6mに満たない防潮堤は、3.11の津波に対し何の防衛ともならなかった。
八幡川の川岸の高さを見て欲しい、この時で川岸を走る道路と同等の高さになっていた。津波による地盤沈下による物と思われる。

IMG_5975.jpg
3月25日の新しい「汐見橋」が開通する。さんさん商店街がある隣りにあたる。国道45号は8.7mでの町内河川堤防整備と同じで、川面がこんなにも下にある。橋は市街地の10mの土地に架かり、橋は1mまた高いだろう。
「親水性」という町民が八幡川に親しめる環境など、どこにも見つからない。階段は河川堤防にあるが、川面に下りるには、あまりにも危険で、水に親しんでもらいたい「子供達」には、無理といっても良い。
志津川町づくり協議会の議論は何だったのか。会議に参加するために瓦礫の町中を通り、多くの会員が当初は来たが、最後には委員となった10名前後が、町の建設課と復興を請け負った「UR都市機構」の職員が、町民の部会の人数よりも多かった事を思い出す。

今思うとこんな空しい事が、震災後の復興の会議にあった。町の大きな力が働く会議が沢山開かれ、「町民のための町づくり」とはならなかった。だから今も町民の多くが貝の様に口をつぐんでいる。

【 未分類 | CO:0 | TB:× | 06:56 】

2018
03/04

志津川地区の7年目の風景


「防災の町づくり」か「減災の町づくり」かの議論がある。
南三陸町は防災の町づくりで震災復興へ向かっている。女川町は再建した市街地の商店街には「防潮堤はなく、「女川駅」「商店街」は以前の大地とは多少の高さの変化しかなく、海から登る「神々しい旭」は昔そのままと言った感じだ。

大震災から1か月経った頃の、自宅の残骸の上から被災野風景を撮影した。時々パソコンの写真で懐かしさを思い起こす。この場所で私は「55年間」も生活してきた。その場所に「慰霊塔」を建立し、家族が暮らしてきた証の痕跡を残し、自分はここに暮らしていた事を伝えたい。何か震災前の生活が蘇ってくる。

2011-04-24 13.52.50
こんな事をするのは私だけかもしれない。平成15年6月から、マイタウン情報わ発行し、100号を発行するまでになった。「大好き! 南三陸町!」から、「大好き南三陸町」と私は住んでいた街の発信をし続け、それが震災前の南三陸町志津川の姿を残す「町の歩みの遺構」となった。誰も関心は無いようだが、私は震災前の町の姿を一生心に持ち続け、これからも生きて行こうと思っている。何もしなくなった時に、ゆっくりと私の作った情報誌で、過去を振り返って見るつもりだ。「私は震災には負けない!」とここまで来た。

今年の「3.11」には、東大阪印刷支部の支部長さん一行が、追悼式典に参加を希望している。また、広島からの支援の女性の会の代表が来てくれる。私のかかわりのある方々は、被災地への慰霊の気持ちを強く思っている。

【 未分類 | CO:0 | TB:× | 06:30 】

2018
03/03

排除


今日は「18℃」まで気温が上がる? 昨日の雪嵐の朝から一転し、日々、生活と同じ色々な異変が、私自身と日本中に起こっている。
3月1日、今年も志津川高校の卒業式があった。10年以上も続いた式への案内状は来なかった。中高一貫高となる時代の、加藤校長から招待を受けていたが、母校への入学式・卒業式への喜びの席に、これまで参加出来たことに感謝したい。

●気になった「フェイスブック」の記事から
阿波おどり赤字4億、市観光協会の破産申し立て
 毎年8月に徳島市で行われる阿波おどりを主催する市観光協会が、約4億2400万円の累積赤字を抱えていることから、同市は2日、協会の破産手続きの開始を1日付で徳島地裁に申し立てたことを明らかにした。(読売新聞)
最近は県内に火災が多く、その原因は「野焼」だと言う。気を付けてと言うよりも、野焼は禁止だと思うし、消防署への連絡が必要とも思う。
また、三陸道の逆走が続いている。免許書交付も75歳以上?は運転試験があると聞く。今後は70歳から認知症検査の方向にあるとも言う。65歳から70歳の「7人に1人は認知症」とのデータもあり、高齢者の運転の免許書交付が厳しくなりそうだ。

●気になった「ツイッター」から
桜坂高 開校初年度入学者が巣立ち 県内高校で卒業式
楽しさも厳しさも思い出
各クラスの代表生徒に卒業証書が手渡された(桜坂高)
 県内の公立高校で1日、卒業式が行われた。石巻市立桜坂高校(佐々木武弘校長)では、旧市立女子高と旧市立女子商業高が統合して開校した平成27年度に初めて入学した3年生185人が卒業。新設校としての楽しさも厳しさも感じながら成長した卒業生が、旧2校の伝統と桜坂高生としての誇りを胸に巣立った。
 この日はあいにくの風雨に見舞われ、列車の遅延の影響などで石巻北高では開式時刻を5分繰り下げて対応。それでも各校では卒業生が晴れやかな顔つきで最後の式に臨んだ。
 このうち桜坂高では佐々木校長から各クラスの代表生徒に卒業証書が授与された。佐々木校長は「皆さんは入学した時から桜坂の制服を着用した最初の生徒。校歌にあるように一人一人が夢見る花を開いてくれた」とたたえた。亀山紘市長も「皆さんの3年間の歩みは桜坂の歴史の礎。自信と誇りを持ってほしい」と激励した。
 在校生代表として生徒会長の鈴木ひなさん(2年)が送辞を述べた後、卒業生を代表して前生徒会長の木村ひな子さんが「何を話せば良いか分からなかった同級生とも、3年間で気が付けば他愛もない話ができる仲間になった。心の底から桜坂に入学して良かったと思う。これからも花を咲かせられるよう努力していきたい」と涙をぬぐいながら決意を語った。

南三陸町の「キラキラ丼」を食べにいらつしゃーい!

【 未分類 | CO:0 | TB:× | 07:40 】

2018
03/02

雪嵐


朝6時にパソコンに向かう。外はと言うと「風」「雪」が家に吹き付ける。建設会社の選択失敗で、自宅に心配はあるものの「雨漏れ」「家の破損」も、今の所、生活するのに異常はない。静かに生きるには何の問題も無い。

新鮮な南三陸の海の恵みに浸っている。今は「ワカメ」「メカブ」で、湯を通し「麺つゆ」をかけるだけで美味しく、それに「しょうが」を磨って入れれば最高だ。この「爆弾低気圧」の被害がワカメに出ない事を願うばかりです。
「漁師の若布」は新鮮で間違いなく美味しいヨ。と知人の老いても元気な漁師は言う。もっと海で獲れたての若布・めかぶを食べて欲しいと言う。現在は全国からの南三陸の若布の注文が入っていて忙しいと言う。
私も「長野県」と「大阪府」に発砲箱にいっぱいのメカブを送ってとお願いした。着いたらきっと驚くだろうが、食べ方を教えれば、簡単で美味しいと喜んでくけるだろう。

180301_194241.jpg
趣味の「男の料理」は、冷蔵庫の残り物で昨夜は「竹の子ご飯」を作ってみた。賞味期限の半年前の竹の子と、冷凍庫の奥の鶏肉の半身を使って、具だくさんの「竹の子ご飯」で、これでご飯茶碗8食分となる。今日の夕方にはジャーから一椀ずつラップに包み冷凍庫で保存する。
こないだは南三陸志津川産の「カレイの煮つけ」を作った。母の作る「煮つけ」の味には足元にも及ばない。酒・醤油・みりん・砂糖・しょうが等で煮込むだけだか、その比率と料理の手順が違うのだろう。新鮮で生臭みはないが、しょうがは欠かせない。

180222_074810.jpg
今日から「3月予算議会」が始まる。行政報告から始まり、「施政方針」が町長から出される。それに総括質問を議員がする。
今議会には「10人」の議員が町長に質問する。議会の活性化に向かっている気がする。新人議員が全員壇上に立つ事となる。

町民の皆さんも無関心で無く、議員の発言に耳を向け、議員がどんな活動をしているか自分の目で確認して頂きたい。
志津川高校生もこんなに頑張っているのだから。

【 未分類 | CO:0 | TB:× | 07:17 】


TOP