ARCHIVE - 2017年10月

2017
10/31

亡くなる事も悲しいが 生きる事も苦しい


毎週末に葬儀に出席参列している。友達の母、恩人の妻、旧行政区の重鎮の方で、最後のお別れに出向いている。志津川町の町民の方のお蔭で、私は家業を続けられ今も生きていられる。これまでお世話になった皆さんには、死亡を知る限りは焼香に行くと決めている。父は言う「いがなくていいんでねえが!」と、しかし、私の気持ちが収まらない。信念を持ち意思を通す事で、自分の存在が自分で得られるような気がする。

以前にもあった事ながら、震災で止む無く町を離れ、住所が南三陸町にない人達は、町の広報にも載らないし、町長からの「弔辞」も届く事はない。届く弔電は「施設」「病院」「療養支援」の団体からが多い。私は旧本浜町の住民の死には、「千葉印刷本浜営業所」と明記する事にした。「自分達が住んでいた良きコニュニティーだった。」と、皆さんに一瞬でも感じてもらえればイイ。昨日は以前の地区民の皆さんは「ちらほら」と、共に生きて来た人の死を、送りたくてもそれができない実情がある。
広報には震災で町の住民基本台帳から抜けた人の死亡も伝えても良いと思う。行政だけが「特例」を活用し、町の復興を進める。苦しみ考えた末の、他町への移転での死には、以前の住民の死を伝えても、「広報掲載」には大きな支出とはならない。共に町の基礎を造って来た人達の死を知らないままの、「人知れず町民の逝去」では悲し過ぎる。将来には児湯孫が返って来れる、繋がりを維持して行く為にも必要な住民サービスと思う。

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昨日のニュースで「震災復興住宅」を、これからの「終の棲家」と決め、仮設から移転し故郷の町の帰った人達に、またの不安が広がっている。
入居から3年で「収入超過者」に対して、家賃が高額の3倍から5倍となるケースが紹介されていた。被災者への救済対策での「安価」での住宅の入居は国の一時的な処置だった。入居時には収入超過による家賃を値上げ知らせず、上がる事は理解しているがこんなにも高額となる事は、説明を受けなかったと言う。ある家庭は入居時「52000円」だった物が、3年後からは「128000円」になると言う。もう一人の方は4万円から18万円にも家賃の高騰で、災害公営住宅から出る事を考えていると話す。
地元新聞でも、大震災後に被災者に向けた最大5年間適用される、「雑損控除」が終了し、震災公営住宅の家賃が、平均的ケースで2倍以上となると言う。

震災後に地元民も「7.8万円」の家賃の支払いに対し、家を建てた方が将来への財産として残ると、隣市に家を建築した。震災から6年目の災害公営住宅の入居、土地整備での住宅建設に3年から6年の月日の経過などを考えても、国県そして町の被災者救済には、多くの改善を要する部分が多い。収入のある人は町を離れ、低所得者の町への加速は今後も続きそうだ。
震災から6年、住宅建設・公営住宅への入居から5年で、現在は税金の被災者控除はあるものの、被災町民の生活はこれからが正念場となる。
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2017
10/30

メガネと私


大震災後は全てが流され、一番困ったのが「メガネ」だった。議会での書類の整理や、仮の事務所での仕事でも、私の業種では目の視力低下は大問題である。17歳からの仕事に就き夜業は勿論、時間外労働・過剰労働は当然の中身で、それが当たり前とこれまで家業を続けてきた。
本格的なメガネ使用は20年前にもなるだろうか、登米市の三浦眼科でスタートし、隣りの眼鏡センターはお得意だった。生活習慣病の「糖尿病」を軽く考え、今の目の状況を生んでしまった。「美味しく食べられる」という飽食の環境が、血糖値を上げていたものの、大きな体調の変化はなかった。震災後にインスリンと処方薬の無い生活で、体調が一変した。傷が化膿し目に黒い斑点が見え、普通の生活が出来たが、徐々に視力が欠けて行った。震災後の仕事再建の途上で、「身体は大丈夫」と過信していたが「眼球」と言う小さな体の一部が異常をきたしていた。
私力の低下は「網膜剥離」「白内障」の影響で、「百均」の眼鏡はレンズの1.5~3.0倍まで、幾種類もの眼鏡を幾つも変えた。しかし、こんな事では何とも解決しなく。石巻日赤病院での治療となり、その重大な現実と直面した。そんな時のメガネを整理した時の物です。
今日からは網膜剥離の術後に「検眼」したメガネの、「近場」「投目」の二種の眼鏡が、物を見るには必需品となった。普通に生活するのにはメガネは必要ないが、物を見て何かをするのには、「メガネ・眼鏡」と探しているそんな自分がいる。晴天の時には「サングラス」が欠かせなく、車など4個も至る場所にサングラスがある。
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昨日は佐沼の眼鏡センターで、私の目で物を見るのには「拡大鏡」の併用が欠かせない事を理解した。今世間で流行している「ハズキルーペ」を試して見ると、楽々小さな字でも読めた。「1.85倍」のネンズだと言う。買い求め今後の活動に支障のないようにした。昨日は台風接近の雨の中を登米市に行き帰った。その後で「登米~東和インター」が通行止めのテロップがテレビに出ていた。

台風一過の青空が南三陸町に広がる。今日は大仕事の配達と、11時の旧行政区「本浜町」の方の葬儀に出席する。戸倉荒町でも幾つもの地域の方の葬儀にお寺に行った。本浜の人たちが各地に散り散りとなり、共に暮らし思い出の多い地区民の人たちの葬儀の別れの席には、絶対参列したいと思っている。昨日も「弔電」を送った。差出人は「千葉印刷本浜営業所・千葉伸孝」で、皆さんの暮らした本浜町で生きていますとのメッセージと思っている。ぜひ小さな事務所においで頂きたい。昔の「写真」「配置図」があり、昔の想い出話でもしたいと考える。事務所内は無人なので、080-1801-6399まで電話をいただければ、事務所を開けます。

一度は死んだかも知れない人生、生きているんだから、自分が出来る事をしたいし、笑い食べ知らない町への旅もしたい。その目標の達成には健康でないと出来ない。私は今の自分の病気とこれからも、仲良く生活して行く道を選んだ。なんてワクワクする我が人生と自負する。61歳となり色々失っても多くの夢が私にはまだある。

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2017
10/29

心の支え


河北新報南三陸町店の「お知らせ版」が今日も入った。
震災後に町を離れたり、仮設で住んでいる方々の死亡を知るすべがなかった。私の月一回の情報では、突然の死亡の告知板を出すのは無理があった。そんな時に先輩が震災後に河北新報の販売店を引き継ぎ、「南三陸ニュースお知らせ版」で、死亡広告を発行している。
何も知らないままで、町外で亡くなる町民の訃報を告知してくれる。人知れず震災で生活の一変から、自分の生活の確保に追われ、以前共に暮らしていた住民のお通夜・葬儀の出席など、訃報を知らない、既に別な場所で暮しているなど、「寂しい悲しい現実」の中で地域住民は暮らしている。私は旧行政区「本浜町」の皆さんの告別式には、訃報を知れば出来る限り参列を続けている。
「河北新報南三陸販売所」のお知らせ版は助かっている。今回は登米市の知人が後藤さんの急逝を教えてくれ、今日の告知チラシで内容を知る事ができた。明日午前11時に「大雄寺」の葬儀に参列する。しないと登米市で暮らす後藤さんの家まで行く事は難しい。

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朝、NHKの番組で「若年性認知症(アルツハイマー)」の母を、息子・娘の家族の支えにより、母があかるく社会へ係わりを深めている姿が、紹介されていた。
母子家庭で母が二人の子供を一人前にし、少しの安心を得た矢先に、母は50代で熟年性認知症と診断された。母は仕事を辞め、家に引きこもりになった。家族でとうすれば良いかを医師に相談し、寄り添い、母の病気を周囲に理解してもらう事を始めた。息子が結婚する事となり、結婚式の食事や挨拶などの不安を解消し、結婚式で母を家族が支え無事に終えた。息子が仕事としている「ラーメン」があり、ここまでは食事を式場のスタッフの気遣いできていたが、ラーメンの食べ方が突然解らなくなった。隣の娘が「すするんだよ」と言っても理解できず、繰り返し食べ方を話す。何とか口に入れ「美味しい」とラーメンを食べられた。ここまで認知症の現実が厳しい事を知った。日常の普通の出来事ができなくなり、言葉・衣類の着方・ボトルのキャップの開け方を、突然忘れてしまう。50代後半の母の姿に、自分達を女手ひとつで育ててくれた母が、病気でこんなにも苦しみ悩む姿を見て、27歳の娘は涙ぐむ。
高齢化の波は必ず自分にも来る、今から起こるかも入知れない「認知症対策」を家族でするべきと思う。周囲に理解してもらう事で、スーパーの買い物も、レジで店員さんが袋詰めから、財布からの支払などを支援する姿に、学ぶべき事が多かった。南三陸町もこんなにも高齢者・独居老人に優しい町になって欲しいと感じたし、行政の支援活動の拡大を求めていきたい。

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2017
10/28

多くの皆さんに助けられて


22日の国政選挙と南三陸町の町長・議員選挙を終え、大きな人生の一つの社会選択と、自分の泰山を越える事ができた。多くの皆さんからの期待は、600枚にも及ぶ選挙葉書の内容に対し、自分の行動が少しは指示されたと、勝手に理解をしている。
町長選に関して新人への「報復?」の、いやがらせの電話などの噂を小耳にする。何処でも地元・長期政権への、部外者の挑戦を「良し」としない土着意識がある。と地元を離れた親戚が言う。選挙が終わり対抗馬の関係に、異変が起こっているとも聞いた。町にとって良い事は認めるべきで、選挙の後には以前にも人事での、あり得ない人事が対抗馬の親戚に及んでいた。
私の知人も「うるさい・耳ざわり」な事をはっきりと言う人間で、役場内から公民館業務への転属があった。今回の震災でも優秀な職員が、左遷され命を落とすに至った現実が幾つかある。みんなで「口をつむぐ」事が、町にとって良い事なのか、それを恐れてはいけない。悪しき慣習の拡大は、町の発展や個々の頑張りまで遅延と排除する事に繋がる。

選挙前から現在まで一か月は、「怒涛の時間」だった。昨日で多くの問題と障害を全て解決する事ができ、ビールと料理を先輩の店で食した。現在は仲間同士が話し合い何かを食べながら、という店が町には少ない。商店街は賑やかながら、予約をいれれば何とかなると言うが、突然の来店者にはその扉は開かない。「観光客対応」が商店街の美味しい店となっている。ふらりと行きたい店が、震災前にあり商店街にオープンした「しお彩」であり、震災後に志津川商店街に開店した「はしもと」である。双方の創作料理と、新鮮な旬の食材には納得の料理が並んだ。もう「気軽にいつでも」「来客の接待」など、私の満足できる地元の味を提供してくれる店は「ここ」しか無い。私が元気な内に二つの店を、一人で訪れ連れ腹いっぱい南三陸の旬の味を食らいたい。

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サケ漁の不漁が続き、イクラが高騰し北海道では孵化場で盗難が続いている。昨日は地元の魚屋さんに「秋サケ」が並んでいた。今年は南三陸町のサケ漁も心配である。ギンザケの養殖は台風の被害も無く、水揚げも予測でき安定ではあるが、4年後に放流から回遊し、故郷の川に帰る習性も震災後に異変となっている。河川の整備もあるが、温暖化による事もある。しかし、北海道は大きな震災も無いのに「不漁」は、震災ばかりの理由ではないと感じる。サンマは中国・台湾の大型船が、日本近海に返って来る前に捕獲してしまう事で、不漁に繋がっているが「カツオ」も同じで、戻りカツオの水揚げが減少している。岩手・宮城の三陸の水産工場や関連業などは、仕事にならないと再建から倒産・廃業へと考える会社も多いと言う。
人間も、社会全体も自然を大切に、利益ばかりを追求する経済に問題がありそうだ。自然と人々の共存共栄は難しのだろうか。今の現実からも「世界は一つ」は無いようだ。
私が被災地支援した「広島の団体」は、今年イスラエルのガサ地区に難民支援に行った。私も同行しませんかとの誘いわ受けたが、行ける訳もない。今度広島で難民を迎え大きな大会があると言う。「世界は一つ」と活躍する団体に敬意を表したい。

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2017
10/27

激動の一か月から解放の 癒しの趣味


昨日の仙台での宮城県印刷工業組合支部長会議の席上、集まった役員・各地区の支部長より祝福の拍手を受け、一言挨拶をと突然、藤井理事長より言われた。「震災で半減した事業所の再開・帰還・支援の活動をしたい、印刷業は地元の事業所あっての業種、微力ながら町の復興の活動をして行きたい。」と話した。被災地は6年8か月が経っても、人口の自然減があり、事業所の再建は加速なくゆっくりと進んでいる。大型商店の進出の中で、建設特需の中で恩恵の少ない地元事業所の活力の低下がある。点在した住宅地には商店は無く、買い物弱者問題は今も続いている。

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私は気分の転換に趣味の料理があり、心落ち着かせ、冷蔵庫の材料で自分の好きな物を作り食べる。昨日はお祝いと貰った「地元産のホタテ」をバター醤油かけにした。アナゴは寒くなるに伴い油が載ってくる。「魚の三浦」に行ったら白焼きの40㎝くらいのアナゴ2本が、800で売っていた。安いと買い求め「アナゴ丼」を昨夜作り食べた。腹と尾の部分と煮汁でご飯一杯は、私の「至福の一杯」です。

多く作ったらタッパに入れ冷蔵庫へ、食べたいときにはご飯の間にアナゴを忍ばせ、煮汁を架けレンジで「チン」をし、その上に刻みのりを掛け、熱々を食べる。お茶づけにしても最高だ。煮汁は醤油・酒・ミリン・水・砂糖を1・1・1…と同量に入れ、隠し味で「梅干し」を入れる。身を柔らかくして臭みも取ってくれる。20分足らずで出来る「男の料理」です。

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心のストレスの解消は、落ち着いた環境があるからとも思っている。朝から父には「ホタテのバターステー」と「穴子丼」で、元気になって貰おう。
「希望の党」の若狭氏が落選し、政界からの引退を表明した。議員事務所の片付けを一人寂しくする姿を、新党結成の中心人物からの転落を誰が想像しただろうか。夢と希望と活動の場を失う事の、気持ちの落ち込みは経験した人じゃないと判らないだろう。

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2017
10/26

自分にいったい何ができるのかを考える


奈良の友達からお祝いの紫のコチョーランが届いた。「町長さんと上手くやって下さい!」との助言を頂く、今後とも仕事の協力と御指導をお願いしたい。互いに仕事・生活でもプラスとなる交流がベストと私は思う。送ったサンマを美味しいと言ってくれる。地元でも旬が過ぎても「鮮さんま」は、まだ高くて「いつでも買える」かと言うとそれはなく、昔から美味しく食べている私にとっては、年一回食すれば良いと思っている。

現在、我が家のリビングには、ユリの香りでいっぱいだ。共に志津川町本浜町で暮らしていた、父の同級生の逝去で、葬儀で供花のりっぱなお花をいただき、満開となっている。このユリのように華やかな時代、そして本浜町だった。現在は私と親友が被災した本浜に帰り仕事を再建させた。彼は生業を、私は「慰霊」と「想い出探し」「震災・人・本浜町の伝承」を目的に、小さなユニットを置いた。色々な事に活用したいと思っている。

志津川地区「中央団地」が綺麗なコンパクトシティーとして生まれ変わっている。教育・スーパーなどが隣接され、住宅地には3世代家族も多く住む。隣の災害公営住宅はと言うと、65歳以上の高齢者が5割にも及ぶ地区となっている。これからどんなふうに変わっていくか見届けたい。
今日はお昼に仙台で会議がある。そして会社は少し忙しい。

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≪教育委員会改革2≫
町村合併から12年間の教育長の一人に、田生校長があり教員となり地元を渡り歩いた人で、南三陸町の事を判り、歴代の教育長の意をくむ人思っている。残念ながらその道半ばで津波で殉職した。純粋な地元出身の教育長は、政治活動をすることなく、これまで町民の教育者の代表として、町の為に尽力してきた。教育機関は行政の長とは一線を隠し、町の為に両輪としての機関として、教育現場を第一に考え、時には町長への異論を申し上げて来た。現在は全てとは言わないが、町長が任命する教育長は、町外出身者が全てで、優秀な地元の校長出身者を教育長として登用しないのは不思議である。自分の思うように教育機関と学校PTAを自分の支持者として、教育を政治に取り込む、あってはいけない町づくりをしている。誰も独裁的な行動に「鈴を付ける!」事無く、お仲間政治が今もこの町に存在する事は、町にとっての新しい町づくりの障害であり、良き町の教区者としての人材の活用の場を失わせ、教育関係者の育成にも影響を与えている。

こないだ教育長として継続となった「佐藤教育長」は、岩手出身ながら南三陸町の教育の発展に尽力された。長年、南三陸町立志津川小学校校長として子供達の成長を見つめて来た。立派な良くできた人材と称賛したい。町の将来の教育者・教育委員会の発展の為にも、「もうイイでしょう!」と言いたい。次期の教育長は地元から採用を町長には懇願するものです。
(終わり)

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2017
10/25

町に変化が見られている


千葉印刷本浜営業所は小さいユニット、友だちの歯科は本格再建で、綺麗で歯科にしては落ち着いたたたずまいと、明るく広々とした診察室が完成した。志津川市街地にはまだ商店・事業所再建は疎らで、車でないとここまで出掛けてくる人は少なく、そんな町づくりの姿は観光客対応で、被災した商店街の再生となると、これまでの町の姿から大きく変わった。ここでの震災前の商店経営は厳しいと感じる。そして、商店街は町の商店と大型商店に二分され、以前の市街地がどんなふうに変わり再建されるのか想像も付かない。とにかく、友達・商店の再建・生業のスタートにおめでとうと言葉を贈りたい。

現在、寝る前の軽い運動を続けている。少し太り気味の身体のお腹をへこます為と、糖尿の血行不良対策です。立ってのつま先立を50回、腕立て伏せ30回、足揚げ腹筋60秒、足の振り上げ30回。意外と脹脛と腹筋が痛い。3か月余りの効果なのか、以前の74Kから71K代となった。ブログ開始の10年前のプロフィーに体重「68K」とあり、その体重を目指し寝る前の「ルーティーン」を続けようと思っている。意外と寝る前の運動で直ぐに眠れるようになった。

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≪教育委員会改革≫
3期の町議会議員から、旧町1期・新町「南三陸町」町長を3期、今回の選挙で更に1期の4年の町の舵取りで、町長として19年間する事となった。
「あの町長で無かったら、この町のここまでの再建はできなかった。」と先輩は言う。悔しいが私もそう思う。しかし、多くの疑問があり闇の部分を感じる。教員長人事がそれある。

新し好きの佐藤町長、佐藤町長の初仕事の一つに、「教育長公募」があった。町のPTA連合会の高い位置に着き、町外の教育者やPTA関係者の繋がりもあり、公募前から決まっていたかのように、仙台市教員委員会の所属する校長を登用した。片桐氏がその人である。「自分の言いなりになる教員長」の確保の、政治戦略があった。教育委員会へのパイプを確かな物とする、教育長の人事はこれまで行政が深く関与する部署ではなかった気がする。歴代の教員長は、自分の新年で町の教育を考え、政治的な繋がりを断ち教員者として、児童・生徒の教育の環境整備にのみ全力であたり、行政がそれを支援して行く体制で、「町教員委員会」があった。教育の場に政治の介入は望ましくなく、地元で教員現場のトップとして、教育の場に携わった校長・教頭経験者が、教育界の時代の流れの変化をキャッチし、後輩の校長や教員と連携し、学校教育の問題や対策にあたった方が適格だと思う。
(つづく)

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2017
10/24

町民の為に そして自分の為に


「千葉さんよがったね!」と、私の母と同世代お母さんが突然電話をくれた。未だに佐沼で暮らす方で、登米市にいると町で何が起こっているか判らないと言う。「早く町に帰りたい!」と話していた。
「千葉さん」と同級生のお母さんも、7時過ぎの突然の電話ながら、その元気で若々しい声に驚く、震災後も店で東京の孫と、震災前の店を仮設商店で続けていた。懐かしい「やきそば」「タンメン」が私は大好きだった。こんなにも近くに新築したのに、場所を教えてもらい、何時も通っている先輩の家の裏と分かった。一人また一人と志津川地区で共に暮らしていた人たちが再建していた。お母さんは「東京に避難して居る時に、貴方の情報で帰られました。」と当時を振り返った。震災の直後で我武者羅に自分と町民の為に奔走していた。同級生の妹さんの友達が、南三陸町にボランティアに行きたいのですが。」には、家族の為にも借りた仮設を貸してあげた。両親は「倉庫が良い」と時々利用していた仮設を、ボランティアさんに使ってもらい喜ばれた。昨日も同級生と知人が来てくれ、今の生活の事を聴いた。「何でもするぞ!」と、気持ちが高まる。
朝も「これから北洋に行く、その前におめでとうが言いたかった!」と、出船前に船長の先輩が電話をくれた。観光立町ならあそこも整備をお願いしたいと言って、いざオホーツクの海に出掛けた。

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歌津地区の伊再前小学校の仮設には、人影は無かった。歌津の親友も町を離れ、今は別な場所で暮らしいている。寂しくなった。
23日今日に「当選証書伝達」が議会三階である。無競争で当選した議員が初めて一同に会する。
来月には初めての議会で議員が招集されると言う。顔合わせと委員会の委員を決定するのだろうか。
私は8年前の議会から落選しての8年間、そしてその前の4年間は戸倉地区の議員が議長を続けている。後藤議長・佐藤議長で、佐藤議長は津波で殉職した。その後、後藤議員が再選され、私が落選した後の議長は星議長だった。12年間も戸倉地区の議員が議長というのは、異常と私は思っている。

その他にも入谷地区には4人・歌津地区には5人、志津川には2人の議員がいる。戸倉地区はこれまでも5人と多いにしても、合併した「旧歌津町」の議員さんが、議長になった事は無く、ぜひ歌津地区からと念願している。

私は絶対町長派でない議長を選びたい。裏でうごめく「野望」などは、私の知らない所でこれまでもあった。騙されないよう「清き一票」を、南三陸町議会議長選を投じたい。

合併して12年にして、初めての議長が歌津地区選出の議員になって頂きたい。


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2017
10/23

最大級の台風21号 南三陸町の上空を通過中


南三陸町長選は、現職5020票・新人1908票の大差で佐藤氏4選となった。
台風21号は南三陸町歌津地区で800世帯が停電となっている。
南三陸町の最大風速は28mと言うが、こんなに強い風は経験が無い。自宅建設の会社の理不尽な対応もあり、風で被害が出ない事を祈りたい。
海岸線の満潮が6時で、海岸線は大荒れで被害が発生しなければ良いと思う。建設中の住宅も被害が無い事を願いたい。
新聞も何時もなら4時の配達ながら、6時前に来た。

国政も「希望の党」の奢りと、若狭氏の過信で惨敗となった。理念の違う政治家の野合があったが、自民の基礎は盤石だった。萩生田氏も小池氏の秘書の父の「刺客」に、大差で小選挙区で勝った。
森友・加計問題の総理への不信もあるが、経済の安定と北朝鮮のミサイルの危機を、「国難」と国民に訴え功を奏した。

私が怖いと感じた4時頃の風、「風速31.3m」と言う。午前7時前に「高齢者避難開始指示」が出された。子供達も同様に避難を呼びかけた。避難所は、アリーナ・入谷・戸倉・歌津公民館を避難所して開設。午前7時の風雨に恐怖を感じる。家で台風通過を静かに待ちましょう。冠水・がけ崩れの被害予想地区の皆さんには、早く安全な場所への移動を! 最大の注意を払って。

佐藤町政継続の審判の元で、また佐藤町長の手腕が試される。

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2017
10/22

町は何も変わらないのか

10.22ブログ
享年94歳の友達の母が亡くなった。震災時は町社協の高野会館での「町の芸能祭」を見に行って被災した。一晩を会館で過ごし命を繋いだと言う、それ以後体調を崩し6年10か月を過ごした。友だちは施設への見舞いを欠かさず、母が大好きで常々欠かさず見舞いに行っていた。昨日の葬儀での落胆の姿は見て解った。「優しいばあちゃん」と孫たちは、言葉を贈った。祖父母の存在は子供達の性格の根底にはあり、祖母から母へ、母から孫へと「……家」の伝統を引き継いでいく。
今は別な場所で暮しているが、志津川町時代は「本浜町」の4軒となりに住んでいた。その故郷「志津川町本浜町」は消えうせ、10m地底に眠る。「大震災慰霊塔」を私は本浜14番地に建立した。葬儀の帰りに供花の花束を貰い、慰霊塔に供えた。もうすぐ父も土に帰ります。私のふるさとは志津川市街地の入慰霊塔は、その目印として今後も存在し続け、生きている限りは見守り、この地で暮して行きたい。
私の父と同級生で「天命を全う」と言える。多くの参列者は皆が年を取り、世代の交代が起こっているのに、町の活気が薄れ、世代交代の中で町は疲弊を続けているように感じる。

町外の人間の首長を私は求めてはいない。長く町に根差し生きて来た、「地の利」と「悪しき慣習」など、良きも悪きも知っている町民が、町長に就く事が望ましい。
町政の私物化を実践しての15年間の町政、またの継続はあってはならない。これまでの悪しき政治の実態を、議会で私は問い戦う。仲間も周囲も「余り敵対視しないで」「ながい物には巻かれろ」「上手にやれ」など、行ってはくれるが、私は「不器用で」「バカ正直」な人間で、今更この生き方や考えを曲げる事はできなく、政治から離れれば、もう町政を語らないと肝に命じ、今回の選挙に臨んだ。

昨夜は4年間の議員としての不安が一気に現れ、眠れず夜を過ごした。身体的な不安、高齢の父を抱えての家庭生活、会社や住宅ローンなど、多くの不安が頭の中を駆け巡った。

佐藤仁町長の能力は私が一番知っている気がする。経営手腕・社交能力・発想力・容姿など、私は全てで足元にも寄らない。しかし、志津川が大好きで、静かに暮らせばそれでイイが、佐藤町長は違い、その「野望」「我欲」はまだまだ健在である。大震災で多くの利権・金との繋がりがあり、益々その欲望が増した。彼も大震災でおかしくなった人間だろう。その才能を町の為に、町民の為、震災復興に早期達成に尽力して欲しい。だが、「我欲」は生まれ持った物、決っして身を改めるには、この町の現実を、将来の姿を思い思考の変換が必要だ。65歳になった人間には難しい決断となるだろう。

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2017
10/21

清き一業は町を救い未来に繋がる

言い訳…選挙準備の忙しい中で、1時間余りで書き上げた原稿は、落選後の4年間の活動から、町づくりをどうすればと考えできて事を、三陸新報の原稿に書き上げた。これが町への想いながら、拙い文章をお許し頂きたい。

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千葉のぶたかの町政の考え方
① 一層の復興加速に向けた対応
「観光立町」を目指す町の方針があり、志津川と歌津地区の商店街の格差の中で、水産品のブランド化を町と商店街の連携で、新たな来町者の確保は急務であり、水産品は三陸の海からの直送という事で、新鮮な山海の恵みを、安全第一に格安に販売し、リピーターの増加を図る。
② 人口減に対する取り組み
3世代世帯が多く町を離れた。子供達の教育環境を求めた結果がある。
5年10年後を見据え、郷里「南三陸町に帰れる環境が必要で、将来は南三陸町で暮らしたい」と、思ってもらえるように、町外へ移転した住民にメッセージや情報を流し、その繋がりを持ち続ける。子・孫ターンを推進し、I・L・Uターンができる環境を整備する。空家の活用対策を講じ、人口増加対策室を設置し、新しい事業の「道の駅」「海の駅」造りなどで雇用の場を確保する。
③ 水産業や農業・林業など、産業振興
佐藤町長が進める、さんさん商店街に隣接する「南三陸道の駅」の廃止を提案し、農業・漁業の産品を農・漁協組合が中心となり、第一次産業の所得低下から、所得拡大につなげるよう、生産品の販路の環境の整備をする。

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④ 志津川地区、歌津地区の将来のビジョン
二極化を続けている商店街の再々建が必要と思う。南三陸町への二つの町の合併は格差を生んでしまった。佐藤町長の志津川地区を優遇した商店再生に問題があり、志津川・歌津の共同の「道の駅」の建設にあたり、新たな商店街が必要と感じる。
二分化している二つの地区を融合させ、若者たちの集う、新しい地区を中間に整備する。
⑤ 三陸道を生かしたまちづくりの考え
三陸道は町に「ストロー現象」を生んでいる。オープンから8か月、来場者が60万人と増加していることを、町長は「逆ストロー現象」と言う。想定外の想定のできない町の危うさを感じている。一時的な来場者である。
自動車社会の現世で、南三陸町を考えれば海の見える「南三陸サービスエリア」が必要だろう。三陸道の北進は観光客の減少は視野に入れておかないといけない。
⑥ 災害公営住宅などでのコミュニティー再構築
町の各地区の分散で、年齢・生活環境などバラバラな家庭が存在している。
30代40代を中心としたコミュニティーの再生がが求められ、高齢者は若者達を頼り、自分がと口を出すのは、50代から60代の人間のしがらみがあり、町が先頭となり傲慢な意見を促そうという人を、町が抑え、子供達を持つ若者の意見を尊重する地域づくりが、将来に繋がる気がする。
古く悪しき風習からの脱却で、コミュニティーの再生が早期にまとまる。「還暦過ぎたら口を出すな」、住民が若者を見守って欲しい。

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2017
10/20

6.南三陸町の住民の減少の歯止め策を怠った


●佐藤仁町政の合併・復興の町づくりの検証
6.南三陸町の住民の減少の歯止め策を怠った
(若者の多くが町を離れ子供達が減少し高齢化の加速を生んだ)
人口の流失のくい止める為には、震災直後からの行政の対策が必要だったと思う。一次避難から二次避難、そして仮設の建設・入居があった。この仮設の整備で町外の登米市の津山・南方への住民の仮設建設での移動が、住民減少の最大の理由で、流失の増加に繋がっても居る。初動の政策の失敗を語らずにはいられない。
私は仮設建設での活動に、被害の少なかった入谷地区を選択した。そして、入谷地区の議員さんに相談すると、「行政(佐藤町長)と」と消極的な返事が返ってきた。志津川地区の7割が津波で消滅した中で、一日も早く普通の生活をしてもらう考えを示した。「被災者支援金100万円」と「り災加算金の200万円」の300万円で、長屋式の共同生活を提案し、私の近しい人たちの30世帯を超える賛同を得たが、その基本として入谷地区の議員の協力なしには、この構想は実現はなく、中の町の広い水田利用の、被災者の住宅再建ができなかった。300万円で40世帯が寄り添えば、1億2千万の資金で、一年足らずで長屋が完成した。震災から6年が経ち、やっと住宅の本設や公営住宅の入居となった。この時間の5年が住民の町外への移転を加速させた。
また、戸倉地区の住民の町外への流出は、震災前の「2433人」から「1490人」と、減少数は943人にもなる。減少率は38.8%と、南三陸町全体の「24.9%」を14ポイントを越え、地区別の減少率の志津川「35%」よりも多い。なぜ、こんな現象を生んだのかと言うと、行政の力の入れ方と、浜の人たちは仕事がし易い、住んでいた場所を希望した事によると考える。戸倉団地の土地確保にも、瓦礫の埋設物の発見があり土地の調査で、造成が遅れた事もその一つに上げられる。
私は戸倉地区でも津波の到達が無かった「荒町」を選択した。友人の土地とプレハブ協会加入の名古屋の会社と共同で、設計・県への書類をまとめ、地主と私の二人で「仮設建設の許可」を、宮城県土木部住宅課の班長さんとの話ができた。「町の許可が得られれば建設は可能です。」と言われ、その足で仮設の町長室を訪問した。町長は建設課長を呼び行政との議論で、町長が言ったことは「10億の事業だぞ。」と口にした。当時仮設一個当たりの建設費は「500万円」で、200世帯で10億円が掛る。それよりも一日も早く仮設の建設だろうと私は思った。町長の反対で戸倉地区の荒町への200個の仮設建設は水の泡と消えた。
戸倉地区の多くが登米市への仮設生活となった。総てが揃っている「登米市南方の生活は、「終の棲家はここが良い」と被災住民の心が動いた。時間との戦いなのに人の手柄を私の発想を聞き入れない、自分本意の被災者支援の意地を通し、震災前の「17815人」から、多くの人口「4435人」が減少した。子供を持った「三世帯家族」が多く、5人暮らし家庭だと「900世帯前後」の住民が町外に出た。
4435人の人口流失はそれだけでは済まない。子供達の減少は将来の町づくりにも影響する。若い世代が少なく高齢化の増加は、労働人口・30歳女性の減少は「過疎化」の要因でもある。若い世代の町づくりの崩壊でもある。
人口減は国から一人当たりの交付金の減少となり、住民サービスの低下を生みだす。気仙沼市は1万人が人口減となり、50億円の交付金が減った。震災特例で25億の交付金」が交付された。南三陸町を見れば、4400人の減で22億円となり、一人当たりの国の交付金が減る事となる。これも被災地特例が活用されるが、特例はいつまでも続く訳は無く、将来に減少が続くのは見えてくる。

佐藤町長の公約に、交流人口の拡大と、移住定住人口の拡大・子育て支援の拡大などで、町の人口増加が出来るかは難しい。私はこれまで南三陸町で暮していた人が、町外に移転している中で、その子や孫たちが返って来られる環境の整備を上げたい。I・L・Uターンの南三陸町の、志津川・歌津地区で昔暮らしていた人達が、家族で帰えれるように、町長・議員・行政職員が取り組み、町民も親戚・縁者に働きかける、こんな町一体で人口拡大に特組む事が大切と思う。将来9千人・6千人とも言われる人口減に、みんなで取り組む、こんな意識の拡大が必要だ。

【 未分類 | CO:0 | TB:× | 07:11 】

2017
10/19

5.慰霊の場や焼香・献花台の不整備


佐藤仁町政の町づくり継続反対!
《合併・復興の佐藤町政の検証》
5.慰霊の場や焼香・献花台の不整備
(仮設・臨時の慰霊碑の整備が無く6年7か月が経過しても死者への追悼の心の欠如)
あの3.11で防災庁舎での殉職職員や震災死がある、あの忌まわしい「防災庁舎」を震災遺構として残そうなど、この屋上で息絶え海に呑込まれ、自分が助かる事の殉職職員への謝罪も反省の言葉を、私は聴いた事が無い。
43名の職員の死と、町民・来町者が800名も死亡・不明となった悲しい現実に、「町長、生き残り町の再建を」と託されたとの町長の言葉は、正に「死人に口なし」のことわざを地で言う発言だろう。他の自治体の長は、自分の津波対応を反省し、多くの指摘から辞職したり、次の首長への復興を繋いでいる中で、震災・復興の大きな利権や、世界でも有名になった「南三陸町」に、全国・全世界から、多くの個人・企業が義援金を送ってくれる。全国からの義援金は「名前を出さないでください」との義援金の形を取り、公表をしないと行政は言う。

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志津川地区の八幡川の河川堤防の整備と、震災復興祈念公園整備が進められ、その完成は30年度末と言う。その頃まで現状の質素な慰霊の場を見て、家族は、来町者はどう感じるだろう。
大川小学校では子供達の犠牲に、慰霊碑・希望の鐘などの整備が終わり、東松島市では「復興祈念公園」が来月には完成の式典と言い、気仙沼市の祈念公園も今年度中には整備されると言う。そんな周辺の震災死の住民への哀悼の気持ちを形に、一早く行い「鎮魂」の気持ちを、首長は進めているのに、我が町は町民の菩提寺に、檀家・寺院が「慰霊塔」や「津波物故者名」の建立で、死者への畏敬の念を表している。

震災で町民の死を招いた責任の一端は町長にあるのに、「想定外の津波」と言い続けている。死者を思う気持ちが在ったら、自費での巨大な力の活動で、仮の立派な慰霊碑・塔を立てる事を、佐藤町長はしないのか。殉職した、町長を守り生き残らせそうとしたと言う、職員の気持ちを讃える碑を、なぜ自分が建立する活動をしないのか、本当に不思議な首長の意識を思う。

私は亡くなられた方々の名前を石に刻み、再度の津波襲来でも後世までも残る「津波の礎(いしじ)」の建設を町に訴えていきたい。何時でも亡くなった家族に会える場所こそが、町には必要で、全国の被災地訪問の来客も、素晴らしい綺麗な慰霊の場と言えるような慰霊の場を創ることが、南三陸町の悲劇を未来に繋ぐ為にも早期に必要だ。津波の経緯や津波の方向にモモニュメントなど、本当に必要なのか。突然の津波襲来の避難の丘など、自然災害の脅威を多くの職伊那・町民が亡くなっても、何も判っていない佐藤町長の死者への思考は、津波で崩壊した気がする。



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2017
10/18

私のネット戦略と行動での選挙


結果的には南三陸町の「議会議員選挙」は無競争で幕を閉じた。

私は過去の二度の選挙の回想を、この選挙で検証と反省の選挙と位置付けた。
一度目は何も判らないままで、ポスター貼りの役目を従業員の二人の若者にまかせた。「たかし」と「くに」にだ。従順な二人は私の期待に応えてくれたものの、聖くんは大震災で帰らぬ若者となり、我が社に務めていたら助かったかもくれないと、私にはその悔いを時々思い出す。呼び名の「くに」は、今は町を離れ隣市に移住した。
二度目の時は、当時、従業員として働いていた小澤さんが頑張ってくれ、友人の石田くんと兼田さんが快く引き受けてくれ、私の甘さから落選となり、嫌な思い仲間・友人に与えてしまった。

選挙に未熟な私は、今回は「とにかく自分で!」と、町政改革で「現職町長の継続反対」をネットでアピールした。周囲には迷惑を掛けまいと、親戚縁者・同級生には「何も告げず」、選挙に挑んだ。
17日の告示で書類審査を済ませ、選挙の七つ道具を貰い、今暮らす志津川沼田地区のポスター掲示板に、掲示番号の「8番」の真ん中に一番に貼った。次に震災後の会社をスタートさせた「戸倉地区の荒町」にポスターの掲示をした。
志津川地区から一部の戸倉地区の掲示をし、先輩が「まだ貼ってないぞ!」と入谷から電話をくれた。3時過ぎに入谷へ行き、父の晩御飯のおかずを入谷から買ってきた。しかし、全て入谷地区のポスター貼りは大変なものだった。結果的には入谷地区も残し、戸倉・歌津地区は9割を貼らずに一日が終わった。議員候補の掲示板の8番は空白のままで選挙は終わった。

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「がんばらいよ。」と車のクラクションを貰った。その間、多くの候補は選挙カーで、「……をよろしくお願いします。」と連呼を繰り返す。「見られるのが嫌だ」と選挙カーを避けるようにポスターを張った。これが自分の選挙の方法だ。ポスターを貼っている私に「千葉候補の健闘を祈ります!」の声は、私には辛く耐えられないくらいの屈辱だった。戦車には多くの支持者が乗り込み、その差は歴然としていた。しかし、私の佐藤町政への批判を理解してくれる人も多く、その声を直接伝えるには、選挙で、議会で発言する事しか方法は、私には浮かばなかった。この4年間はこの反省と「禊」で、周囲の色々な人に迷惑を掛けないよう心掛けて戦おうとしていた。
午後5時15分に「議員選無競争」との防災無線が鳴った。志津川市街地の旧本浜営業所の選挙事務所の前を、佐藤町長の戦車が「よろしくお願いします」と走り抜けて行った。

亡くなったタカシに恥じない生き方をしたい。殉職したその父との役場での議論も私は忘れない。多くの出逢った人たちに感謝しかない。一日のポスター貼りで感じ、町中を走り復興がまだまだ進んでいないと思った。

【 未分類 | CO:0 | TB:× | 07:24 】

2017
10/17

四年間町の為に町民の為に頑張ります


「無競争」で当選となりました。4年間、新たな町づくりに、町民が望む求める姿の構築に、議会で発言していきます。
お陰様でした。今後もご指導ください。

【 未分類 | CO:0 | TB:× | 19:18 】

2017
10/17

議員落選からの新たな選挙へ「佐藤町制の検証」


●いよいよ今日が告示で選挙が始まる、町の未来づくりの舌戦がスタートする。

「合併から復興の佐藤町政の町づくりの検証」
4.新町合併から15年間の長期町長政権継続の弊害
(観光主体の商業の拡大に特化した町政らより第一次産業の農林水産業の疲弊加速)
震災前の南町・本浜町・十日町を中心にした、「お魚町通り」を計画し、両脇にあったお魚屋・海産物店・商店の活性化に取り組んだ。首長と商店街なかまが南三陸町の水産業を全国にアピールし、この活動が経済産業省から表彰を受けたと記憶する。
「しおかぜカフエ」の設置は店内にボックスを設置し、個人でも制作した商品が販売できた。また、「まち中交流館」は観光協会の施設いて、観光発信を視野に施設がオープンした。しかし、今回の津波で総てが流失した。
町長の商店街構想は、志津川地区の開発や活動が多く、ここからの商店街の格差が伺える。議員時代の時にある議員が、「お魚町通り」から五日町・八幡町そして駅前までを商店街にしよう。」、こんな提案を思い出す。この頃から商工関係の町の政策が色濃くなり、震災の再建にも「水産業の再建」旗印に、「さんさん商店街」を早期オープンを計画した。
被災地支援の観光景気で町は潤い、参加出来なかった以前の商店は、他の場所での経営は厳しく、残ったのは理容店が多く、他の小売業はことごとく廃業となった。廃業は免れたとしても、新さんさん商店街も順調以上に7か月目を迎えているが、将来の商店街の店主も、今後大変な状況を迎える気がする。
住民の移転がその大きな要因にある。スーパーも完成し、限られた消費者の中で、観光客への依存は拡大し、町が「ずーっと」商店街だけを支援するわけにはいかない。

町づくりは40代から50代の若者が継ぐ時期を迎えるが、長期政権の継続は多くの問題がある。
●長期政権は「おごり」「ゆるみ」「たるみ」の温床となり、パワハラ・セクハラ・モラハラへと繋がり兼ねない。

高齢化の拡大・独居老人の支援対策や、少子化の歯止め対策は急務で、震災後の人の減少は「自然減」はあるものの、若者達が住まない・少ない町の将来は無い。震災前のような祖父母と孫が楽しく暮らせる、町への変換が急務ながら、65歳を超えた首長の思考を変えるのは難しく、同世代の商工人の町づくりの「片寄った政策」を議会で問いたい。

【 未分類 | CO:0 | TB:× | 04:52 】

2017
10/16

さあいよいよ選挙だ


南三陸町の政治情勢は
「南三陸町のみなさんと共(tomo)に!→検索」
選挙事務所は写真撮影の道路向かいの「志津川歯科クリニック」「以前の商店街入口」から見える、青いユニツトと自販機、選挙看板が目印の所です。

9月28日の「立候補説明会」に出席の議員陣営
【現職】
*三浦清人*小野寺久幸*高橋謙次*及川ゆき子*菅原辰雄*山内孝樹*山内昇一
*西條栄福*佐藤宣明*後藤伸太郎*星喜美男*後藤清喜*佐藤正明*村岡賢一
(14人)
【元職】
*千葉伸孝(1人)
【新人】
*佐藤雄一*倉橋誠司*須藤清孝(3人)

有権者 1万1565人

1014.10.27 (前回)
有権者 1万2300人 ・佐藤 仁 5308人
          ・小野寺寛 4221人 


・町長選は現職「佐藤仁」と新人「阿部寛行」の一気打となった。

・議員選は予備審査には、現職10人と元職1人と新人3人が、受付を済ませ現職の二人が予備審査を受けなかった。その後一人が審査を受け、もう一人はまだだというが、一昨日に戦車の制作をしていたので、告示日に提出をする可能性が大である。結果的には立候補説明会に来た現職3人は勇退するらしい。現在は予備審査で一人欠ながら、「無競争ならと」現職の出馬もありえる。選挙はあった方が良い。そうした立候補者の本気度を探る為の、改革派の議員の戦略かも知れない。
結果的には告示の17日の午後5時まで、議員選も流動的である。

【 未分類 | CO:0 | TB:× | 16:09 】

2017
10/16

南三陸町町長議員選挙いよいよ17日明日告示

10月16日の南三陸町の今は
「南三陸町から愛と死と希望をみつめて→検索」で
震災からの歩みは
「南三陸マイタウン情報→検索」で

南三陸町の町長・議員の選挙は明日の告示を迎える。
町長選挙はボランティアの南三陸町で活動している「阿部寛行氏」の出馬で選挙となり、町づくりについて選挙戦が始まる。現職はこれまでの復旧から復興の実績、そして発展期への最終総仕上げをアピールする。新人阿部氏は町民の為の町づくりを基本に、今、南三陸町で苦しんでいる住民の声を、全国民・町民に伝える。地元の現職とボランティア(外部の人間)との戦いは結果が見えているが、町民に選択の機会を与えてくれる。その事に関しては称賛に値する。南三陸町民の町長選への参加が無いのは寂しい限りだが、私が現職議員なら出馬をしたいとも考える。しかし、現職の社交性にも交友関係の多さには勝てないし、されも結果は見える気がする。現職の多彩なその性格を町政に生かして欲しい。との気持ちも心にはあるが、これまでの合併から震災対策に関して、検証無くしては前には進まない。国政も阿部政権の過半数から、圧倒多数への選挙予想も聞かれている。国も地方も同じにしてはいけないと思う。

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「志津川町本浜町の三人の画家たち」の、以前の場所の千葉印刷営業所での展示会には、数名の来館者を迎えた。
その中には今回の展示の佐々木久義さんの娘さんが突然来てくれた。震災から大変だったと思う中で、遠方から来てくれた。私の暮らしていた本浜地区の方が、配布されたチラシを見て、娘さんに連絡をしてくれた。
懐かしい父の作品を見つめ「ありがとうございます。」と言葉をくれた。しかし、自宅の部屋いっぱいにあった作品はもうなく、寄贈として残った志津川高校の寄贈の絵を、写真を撮ってもらいましたと話していた。
帰りには営業所の片隅の「大震災慰霊塔」に手を合わせてくれた。これだけでも私としては大感謝です。これからも一人でも多くの人に、荒島と志津川湾に向かい、手を合わせてくれる人があれば良いと思っている。
今後も「三人の画家たち」の展示会を継続し、「旧志津川町本浜町よ永遠なれ!」と、町民から全国に散らばった人たちに伝えていきたい。

【 未分類 | CO:0 | TB:× | 05:51 】

2017
10/15

戦車看板はお蔵入り

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15日の今日、午前11時から午後2時まで「展示会」をします。
「旧志津川町本浜町の三人の画家たち」の企画は、震災から一年が過ぎた頃、本浜町から誕生し、突然の津波や、脳梗塞・病気で逝去された3人の作品を見て貰いたいとの願いからです。病や障害を負っても創作活動を続け、今度の震災で絵画が流失したものの、我が社にデータと残った「絵」を、志津川地区や本浜町の住民や故人の同級生の人たちに伝えたいがある。誰かが語り継がないと、こうした素晴らしい作品も忘れ去られ、志津川で暮らし生きる力を決して諦めないとの人達の風土、こうした本浜町で暮らし生きた人を紹介したい。
偶然が偶然を呼び、私の手元にある事で、このまま会社に置く事は何の意味も無く、一人でも多くの皆さんに見て貰い、知っても貰う事で、町民・子供達の想像力や生きて行く楽しみが見つけられ、チャレンジする事へ繋がればと思っている。時間のある方は是非、ご来館頂きたい。
今日の朝6時30分から沼田地区の清掃活動があり、明日は恩人の奥様の葬儀に参加する。

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8年前の私の歩みの形が一つ、お蔵入りし役目を終えた。町政に異論を唱える事で良い方向に進めばとの、私の8年前の活動の一つ「選挙看板」の役目が終えた。
千葉印刷が志津川で生きた「証」を伝え、皆さんと共に今後も生きてきた「志津川の歴史」が忘れられようとしている。自分の勘違いなのかを、公の場で語り文章に載る事で、町民の皆さんへ問いたい。があり、町政が間違った方向に進む事無く、正道に進む事を願っている。独り善がりと皆さんの判断・指摘で、私の道が決まってくる。6年8か月が過ぎた町のこの姿から判断して頂きたい。

≪李下に冠を正さず2≫
過剰な印刷物の発注は必要なのか。南三陸病院の赤字経営は今も続き、今後も毎月3千万もの町の負担は、高齢者の拡大に財政の枯渇に繋がる。病院の経営改善と新たな町の体制が求められる。経費を削減して住民の環境・介護の整備に支援に回すべきと私は思う。商店街への過剰な支援も、個人事業所の努力に委ね、経営が厳しい商店主への、資金援助・販売拡大への協力への、町の取り組みをしたらどうだろう。

総理・町長が「李下に冠を正さずむとは口で言っても、今後も続ける事が目に見えている。一強独裁政治が成せる「技」である。
国政では「希望の党」「立憲民主党」の新党の設立により、自公の保守一強が崩れると予想する。過半数の「233」を総理は言うが、総理継続でこれまでのアベノミクスの継続と、森友・加計問題の発覚を抑えるための、選挙で大敗してもその場に君臨しようとする策略が見える。
「10.12現在の選挙情報では、自民党は300議席を伺う勢いです」
南三陸町町政も新人3人の立候補は、町長と商工会・観光協会への不信感がある。与野党の構図は接近し、多くの議論が出来る環境が整いつつある。町長の議員取り込みに応じる議員がいると、現職の野党議員が居る。1人また一人と新らしい。「誰の為の議員」なのかを忘れた利己主義の行動と私は感じる。
「10.11町長選の対抗馬の記者会見があり選挙となる」
(おわり)

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2017
10/14

告示前の選挙戦から 自戒の念で


町長選の候補には頑張って貰いたい。町民の声を伝える事だけで、町民に町長選挙の選択の場を与えても、何にも被災地「南三陸町」は変わらない。理想と現実の違いは自分が肌で知っている。失う物が無いといっても、結果が物を言う。大きなうねりとなればと思うが、地域に根差している住民の思考が、大きく変わる事は無い。
しかし、「阿部寛行」候補の、NPO団体の活動がどれだけの物かが判る。「東日本大震災」にコーデネーターとしてボランティア等を5万人受入れました。」と言う実績が選挙でどれだか発揮できるかというと疑問だ。

私が選挙に関わったのは、佐藤仁候補の4期があり、その総ての対抗馬を支援してきた。震災前の「佐藤みわ」さん、合併での「及川博之」さん、この時は他に2人が立ち、大混戦での今の現職が勝利した。次に「佐藤門哉」さんで、多くの支援者で町を二分した戦いだった。選挙前には門哉候補が仁氏をリードしていたと噂を呼んだ。門哉候補は給料の40%カットを打ち出し、事務所も駅前と多くの支持を得て、この時に私も議員への立候補をした。門哉氏のパンフレット片手に町を廻った。結果は500票か1000票差で敗れた。噂では2000万円のお金が動き、建設関係者2人が容疑で捕まったが、容疑不十分で立件は出来なかった。「500人が動けば1000票が動く」「1世帯が動けば200世帯で済む」。金権選挙が悪気も無く続く、我が町の悪しき慣習があり、「渡す人間と貰う人間がいる。」寂しい限りだ。今回はというと町議・町長選挙の奥底は私には分からない。前回は歌津地区から「小野寺寛」さんが出場したが、1100票差でやぶれた。

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昨日は「南三陸マイタウン情報」を一部の地区に配布した。歌津中学校裏の団地で、素晴らしく綺麗な町並が出来ていた。震災復興住宅には「太陽光パネル」が設置されていた。志津川地区の復興住宅には無い気がする。志津川地区と歌津地区の復興スピードと商店街の格差を阿部町長候補は言う。反町長候補の票は間違いなく阿部氏に動き、その差が750票前後なら、現職の大敗だろう。「佐藤仁町政が否定」された事になる。町外から町を変えようとする「阿部寛行」候補、ガンバレ!

≪李下に冠を正さず1≫
昨日の党首討論で安倍総理から、この言葉が発せられた。これは森友・加計問題に対し、「自分の行動は疑われる事が在ってはいけない。」との意味と私はとっている。その上で自分は潔白だと言う。
国政でもこの言葉を引用し、南三陸町議会でも佐藤町長は議会の答弁で、この言葉を使い自社の「兼業禁止」の質問に答えた。首長・議員が代表を務める会社との取引は禁止され、売り上げの4割を越えてはいけない。この問題で佐藤町長は会社社長を辞め会長となった。
私も印刷会社の専務として町の印刷業を受注しているが、社長が実質の代表で「兼業禁止」には当たらないが、現在は行政の仕事に依存している。だいたい4割に近い位となっている。事業所が減少し、震災での4か月の休業で、大きな仕事先の農協と漁協と多くのお得意様を無くした。そんな中で行政の仕事は確実で、安定経営には欠かせない。しかし、「カラー化」の流れの中で、入札のカラーの仕事で受注は厳しい。現在は利益を減らしても、デザイン・仕上げを自社で、印刷は「4色機」を持つ中元の印刷会社に外注し、何とか経営を続けている。
震災後は印刷物の増加とカラー化が我が町では進んでいる。登米市・気仙沼市の印刷経費費と比べても突出している。現在は2社の見積の中で行政の仕事が、入札価格で落札されている。我が社も後継者が無く、10年の近い将来は廃業するだろう。その時には町外の印刷会社との見積競争は、町長の会社一社では厳しい争いと思う。この問題で二人の議員さんが我が社を訪れた。「色々あるけど何とか業務はやっています。」と答えた事を思い出す。
(つづく)

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2017
10/13

阿部寛行町長候補、淀んだ町に「新風・新潮」を


阿部寛行町長候補、淀んだ町に「新風・新潮」をありがとう。
異常なまでの南三陸町の復興と、人間の全国からの被災地支援の元で、町政を司る町民の気力と熱意が減少し、「俺が、私が町の為に働きたい!」と志を抱く町民が居なくなった。
町長・議員候補には、震災後に南三陸町にボランティアや、この町で働き復興に貢献したいとの、町外の人間が「今の状況はおかしい?」と、町の中枢への参画をしようとしている。「議員は何もしない。」「町長は…」と言うだけで、「自分が何とかしたい」との郷土愛を示す人材が出てこない事にがっかりで、南三陸町の「将来が危うい」と思っているのは私だけだろう。
「無競争だから」「定員に達しないなら出る」など、町議会議員の地位が軽い物となりつつある。町長の勢力の維持に、自分の友達からの両立や、町長自身が議会議員選挙に手を突っ込む、政治家なら当然と言うが、「南三陸町は被災地の真ん中である。」と私は感じる。首長が進めやすい「政(まつりごと)」は、議論が少なく、自分がやりたいように進めたい「町づくり」が、今後にまた「想定外な事態」「被災地だから」と言い訳に終始するだろう。責任を取れない首長の町は、明るい未来を創造できるかと思い、町外の人間に「良き故郷の再建」を任せていいのかとも考える。しかし、町長派はもういらない、町外からの優秀な人材に、町の未来を賭ける事も、一時的な一つの手段でもある。

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こんな選挙のど真ん中で、私は南三陸町の合併前の、旧志津川町本浜町の「三人の画家たち」と題し、再建した「千葉印刷本浜営業所」で展示会を開催する。大震災で亡くなられた「佐々木久義氏」の家にあった原画は、総てが津波で流失した。障害者でありながら、趣味の域を超えた絵画への創作力は、誰にも真似ができないと思う。文化勲章の授与にあたり、自分の作品集を制作し、記念品として祝賀会の席の記念品にした。その制作を私が手掛けたせいで、そのデータが仙台の印刷会社に残り、再版ができた。
大津波が襲来するなど誰が予想しただろうか? その予感を察知したような佐々木久義氏の「作品集制作」は偶然なのかとも思う。本浜町の大先輩の意思を継ぎたい、その作品を紹介したいが私の義務とも感じている。
10月15日の日曜日に、千葉印刷本浜営業所の出逢いの館「伝承館」で、午前11時から午後2時までの3時間開催する。本浜町の話や故人の話でもできれば良いと私は思っている。短い時間ながら是非とも来館して頂きたい。志津川本浜町の画家たちの「展示会」は思考を変え、今後も継続していきたいと思っている。


【 未分類 | CO:0 | TB:× | 06:23 】

2017
10/12

「しがらみ」と「お仲間」の南三陸町政からの脱却

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南三陸町長選挙が現実のものと物となった。
NPOの南三陸町歌津で活動している「阿部寛行」氏の記者会見があった。ハマーレ歌津の隣りの選挙事務所で午後2時から開催された。カメラが5台と記者5人から矢継ぎ早に質問が飛んだ。
スローガンは「人が代われば地域が変わる」
      「日本一の『共助』の町を一緒につくりましょう!」だった。
南三陸町の佐藤仁町政からの脱却で、新しい町づくりを!
選挙の裏でのいつもの動きを警察の選挙違反対策本部の厳しい目で監視をお願いしたい。

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2017
10/11

2.防災庁舎の議会の解体決定を無効とした

≪合併・復興の佐藤町政の検証2≫
2.防災庁舎の議会の解体決定を無効とした
2011.3.11の大震災で防災庁舎は3階屋上まで水没した。対策本部を3階の危機管理室に置き、午後2時45分の異常なまでの、震度4の3分間の大地震があり、最大で震度6強のこれまで体感した事の無い、大地震・大津波が南三陸町などの、三陸沿岸の港町を襲った。その被害は東北4県に留まらず、関東・北海道にまでの津波被害をもたらした。地震は日本全土にまたがり国土を揺らした。この異常なまでの大地震に政府も最大限の避難を指示すれば良かったと思う。今後はこの東日本大震災の教訓を、日本の防災対策に役に立つよう議論を高めて欲しい。
南三陸町の対策本部長の佐藤町長の、この大震災の感触と対策は甘かったと振り返り思う。「津波防災の町」として全国に発信していたにしては、この大地震発生から、大津波の予想は地域民なら誰でも想定できた。それが町のトップの対策の甘さはどこからきているのか。それは佐藤町長の性格と、別な意味での自分発信のチャンスと思ったのかも知れない。そこに津波対策の甘さがあった。職員43名を含む町民・来町者など600名の被災死と不明者200名を出し、約800名の死者を出す事となった。毎年5月24日の「避難訓練」の成果が何処にも発揮できなかった。昭和35年のチリ地震津波から57年間の、地震対策・避難訓練を生かす事ができなかったのは、佐藤町長が訓練をイベントと捉えていたのではないかとも思う。

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志津川地区の避難所は「上の山緑地」の小高い場所で、今回はこの場所まで津波は達した、志津川地区には16mもの津波が襲来した。この避難所に訓練では佐藤町長を先頭に自衛隊の隊列が続き、町長の姿に、何か誇らしい態度に違和感を感じていた。テレビでもこの時期をベント的に放映され、大震災の恐怖は薄れ、大津波の記憶がかすれて行った。町の観光の拡大と商店街の活性化を描く、町のトップとしての政策があり、その発信のチャンスとして毎年の訓練があった。佐藤町長の支持で「町民全体」と中学生も動員して、町の大イベントとしての訓練を感じた。ここからも佐藤町長の政治姿勢に勘違いがあった。

こんな事から「防災庁舎の解体」を殉職職員の家族は、庁舎の解体を望んだ。「怖い」「気分が悪くなる」「津波を思い出す」「見たくない」など、議会の議論の傍聴に多くの住職家族・町民とメディアが押し掛けた。こんな状況下で議会は「防災庁舎解体」を採決した。
2013年10月の選挙により新しい議員が選挙で当選した。更なる与党(町長支持)の数が拡大した。殉職者の子供が「保存」を訴え、町長・議会は保存の主張を、議会に聴取の為に参考人招致をした。二人の若者も同席して再度「解体決定」の議論を深め、議会の決定がある中で、再度の「防災庁舎」の保存か解体かで
保存が採決で決まり、解体から保存への防災庁舎が残る事となった。
その後押しには県の「20年間保存」の提案があった。保存の財源が町には無く、その補助金が確保され、町長の議会決定を覆す工作に寄るものと考える。もうひとつ「パブリックコメント」があった。住民の意見を聞くと言う、町長の議会の決定を無効にする策略があった。

若者たちの参考人招致、住民からの意見など、議会の決定から自分の考える構想へと進める工作だ。「決められない町長」「議会軽視」がここにあり、議会の「行政のチェック機能の破壊」がここに見られる。
4年前の私が議会の現職の時の採決で「解体」が決定した。殉職家族の想いが叶った場に同席した。当時の委員長は当時の議会決定を覆してはいけない、「議会政治への反逆行為」と、解体に賛成とその説明を述べた。
こうした佐藤町政を私は、「多くの殉職職員の家族と震災死の遺族の心をもてあそぶ自分本意町政政治」と、この行為に大異論を言い続けたい。議員の改選で
当選が叶うならば、「合併・復興の佐藤町政の検証」をしていきたい。



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2017
10/10

いよいよ衆議院告示


町の選挙の告示まで1週間となり、知人・友人が出場の確認に会社を訪れて確認にくる。三陸新報の記事には名前が出ているが、志津川地区には購読者がまったくなく、選挙の情勢を知る志津川地区民はいないに等しい。
一人の選挙準備は混乱の中で、説明会・予備選挙と一歩ずつ投票へと進み、選挙事務所の開設を終えた。そんな昨日、警察署からの呼び出しが来た。掲示板に設置許可のステッカーがないと警告を受けた。そう言えば8年前に許可ステッカーを貼った事を思い出した。説明会では立候補の説明で、立て看板設置の説明は無かった。昨日は警告の対応をし、今日には設置許可を貰う。

今回の選挙で多くの仲間を得て大きな流れが町に起こっている事を感じる。共に町政を議論する仲間がいる事を心強く思っている。現職の野党の皆さんとは「是々非々」で接し、与党との人達とも「歯に衣着せぬ」、そんな多くの疑問をぶつけたい。

国政での野党の先頭を走っていた「民進党」が、前原氏の「民進党から衆院選の公認は出さない」との発言から、民進党の分裂は「希望の党」「立憲民主党」「無所属」に別れ、阿部総理の解散の思惑は消えうせ、安倍政権が危うさが如実に表れそうだ。現在の数から80議席を失う、そんな最悪のシナリオも描きだされてきた。それでも過半数の維持は、「アベノミクス」の安倍政権が承認して頂いたと、自分の判断で再度政治を進めようとしている。この数字は大敗北と言ってもいいのに、自分勝手な判断がある。
南三陸町の「防災庁舎保存のパブリックコメント」の、14%の提出で7割が「保存」も、町民の意見は「保存を希望する」と、町長は勝手な解釈をし、今に至っている。
良く似ている国と南三陸町のトップの政治、そのしわ寄せと将来のツケが、生まれてくる子供達が負わなければ良いと思っている。

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2017
10/09

旧志津川町の繁華街の再生なるか


さんさん商店街を海から望む場所から見ると、現在、建物の建設が進んでいる。「交流館?」と思っていたら、震災前に志津川地区の交差点にあった「オリーブ」で、衣料品や化粧品・雑貨を販売していた店だった。
この姿に町の再建を強く感じる。志津川の嵩上げされた市街地の再建は、セブンイレブンから始まり、次にさんさん商店街がスタートし、我が社の「本浜営業所」が形となってきた。その後に、ミヤギ電気、カバラ洗車・コインランドリーが建設された。ウジエの「アップルタウン」ができ、マレセン蒲鉾店、志津川歯科クリニックがオープンし、今後も「芳賀そば店」「松原食堂」が現在建設を進めている。
志津川地区の商店街の新建設が着々と進んでいる。この後はと言うと一段落した感が強い。オリーブの隣りのさんさんは、多くの観光客が集まる場所であり、今後の商店街への状況が気になる。商店街には老舗のアベロクがあり、影響は必至だろう。今年度には国道45号も開通予定だ。しかし、「三陸道」の開通により、ストロー現象となる事は間違いなく、一次の震災景気と判断し、過剰な来客の想定を無くし、町民と観光客が常に集い賑わう「志津川市街地」に、商工・観光からの商店街の脱却をするべきと思う。「復旧~復興そして平常に!」と、あの昔ながらの生活が戻る事を私は期待している。

歌津商店街にも建設中の建物がある。昨日の上棟式があり。間違いなく「交流館」だと言う。伊里前の商店街跡地は「ハマーレ歌津」の商店街で、志津川地区のような個人商店・工場などの建設はしないと言う。
両地区の市街地の再建は妥当だったのか、その結果が今後判ってくる。高台の団地には「商店街」の形成は無く、住民生活は疎らとなり買い物に高齢者は「足」がなく、買いたいときに買い物ができない状況がこれからも続く。高齢者が生活しにくい町の姿がここにある。

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2017
10/08

「津波防災の町が泣く

「第二の大川小学校」となり兼ねなかった南三陸戸町立倉小学校がある(被災前の体育館建設現場)。一回も使用しないで津波被災した体育は、9千万円掛けて、戸倉小学校ではオープン式典が進められていた。そして、あの3.11が来た。
最近でも市街地やまだ低い所に町民が暮らしているが、「避難道の整備」が多くの観光客を迎える町としては、津波防災意識が欠けていると一部の町民は、声を大にして言う。生活環境の麻痺と孤立が、また訪れるとも限らない。
「原発事故の怖さ」を3.11で知り、7年半が過ぎても子供や孫を持つ南三陸町の母親は、その影響を口にする。「今も子供にシイタケは食べさせられない。」「原発を無くして自然エネルギーでは駄目なの?」と言う。その叫びは福島県民の被災者の涙から、我が町の町民にも不安と衝撃を与えている。
町の財源確保は必要で、商店の再生も必要なのは判るが、どれだけ町の再建復興に繋がっているのかと言うと、その証拠の説明には町民の納得はまだなような気がする。

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選挙の書類の予備審査終わったのに、未だに流動的な町長・議員選挙に異常さを感じる。町長候補の阿部氏や、議員候補も14人で立候補の可能性が二人ある。無競争で1人の欠員なら、立候補を控えていた現職が立候補をすると言う、そんな情報に議会議員の候補者の町政へのやる気が疑問だ。立候補をし選挙で意見をぶつけ合う、それが選挙と言う物なのに、我が町の異常なまでの政治行動に、町の再建を危ぶむ姿があり、町の将来を任せるには頼りない議会体質を嘆かずにはいられない。

今日はたった一人の事務所を開設し、「千葉のぶたか連絡所」の立て看板を立てた。スローガンは「佐藤町政の町づくり継続反対!」だ。これに異論のある方は、是非私に異論をぶつけて欲しいです。
町の議会選挙の「無競争」は近隣の市町でない。これを異常と言わずにはいられない。「無競争なら出馬する!」こんな考えで、町民の為に何ができるだろうか。自分の公約(マニフェスト)を示し、議会で何をしたいのかを町民に伝えるべきだ。町の選挙公報が出るので、その内容を早く見てみたい。

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2017
10/07

佐藤町政からの卒業の序曲

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南三陸町議会も国政の衆院選での新党の動きが活発のように、議員の出馬の異変が起きている。メディアの報道が気になる。私も立候補の「予備審査」に昨日行ってきた。
仲間の出馬の方と報道機関の情報では、4人が勇退の方向にあると言う。しかし、告示の日の午後5時の届けてまでは流動的だ。受付での記帳では8番目?だったが、町長選への受け付けはまだ一人もなかった。地元の「気仙沼新報」には予備審査への受付情報が載る。議員の定員は16人で、議員定数審査委員会で半年前に議会で決定した。私は現在の国政調査の人口の12500人に習い、13名が妥当だと思っている。
「無競争なら出る!」。こうした立候補の姿勢と、町政参加に対する精神の軽さがある気がする。私は4年前の落選で、叩きのめされ絶望感を感じ、多くの仲間や支援者の気持ちに応える事ができなかった。あれからモヤモヤ感が取れないまま、町政の不公平と町づくりに不信感が益々募った。こうした一部の人間による政治・町づくりからの脱却がないと、明るい未来が無いと言い続け、選挙と言う方法で、私の気持ちを町民に伝えたい。「地盤」「看板」「カバン」の選挙の基本を持たず、町議会選挙に挑戦する。

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スローガンは「佐藤町政の町づくり継続反対!」だ。不公平感と独裁政治の強い志津川地区の政治がある。歌津は「二の次」の政治姿勢が感じて取れ、合併した二つの町の格差が広がっている。歌津地区は地区民の繋がりと、漁民の気概が志津川とは違い、強すぎる情熱を持ち生業を拡大させている。志津川地区は漁協に頼る組合員が多く、仲買があっての漁業を続けている。歌津地区は個人独自の漁業で、高く買ってくれる漁港を選び、自分で仕入れ加工販売を行い、浜での直接買いも多いと聴く。また販路の開拓も漁民の動きも活発だ。

また、前回の選挙のように「つぶされる!」とも、気持ちの奥底にある。剣道を50年間も愛し「打たれる事には慣れている!」。一人の悩める町民を救いたいがあり、町の為に何かをしたいがある。それが今は「独裁・一強政治の改変」を進める事にある。今の動向だと与野党の構図が大きく崩れつつある。佐藤町政はこれまでのような「思うように!」は行かないだろう。

これまでの佐藤町政15年の「政治の検証」をすることで、今後の町づくりが町民の手に委ねられ、一部の人間に向けられた資金流用から、町民全体への環境整備と「町民の格差」が減少する事を目的に活動して行きたい。

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2017
10/06

公平公正な健康的な街づくりと志津川地区の復活

「新人たち頑張れ!」「野党(反町長派)負けるな」と声を大にして言いたい。15年間もの長期の政権維持は「政治への緩み・なれ合い」が起こる。
初当選の佐藤町長の新しい取り組みは、町への「新風」と町民に新しい町政をアピールするかに見えた。「公募による教員長の登用」はその取り組みの初手だった。しかし、南三陸町でのPTA連合会の役員として、県内の校長やPTA役員との繋がりを持った。仙台からの「片桐氏ありき!」の公募は、町内の方も公募に挑戦したが落選となった。
商工会・志津川地区の学校PTAの大きな指示を受け、佐藤町長は過去の教育長や教員関係者からの支持が薄く、自分のやりたい町の政治を行うには、この部分がネックといっても過言は無かった。佐藤教育長から、阿部・勝倉教育長と、これまでは教育関係者に町の学校教育を、2期前までは町の教校長出身者が教員長に就任し、地域の子供や親との係わりから町の状況を知る人があたり教育委員会を守ってきた。それが町の子供や地元の学校を卒業した親たちを何も知らない人を機用した。過去の良き伝統に逆らい、自分のやりたいように、町の教育に対して深く関わり、自分の支持者をPTA役員に起用に、この時点から「佐藤町政大国」を築く活動が始まった。町長就任から3人の教育長野全てが町外出身者の起用は、実に不思議な現実である。
現在は反佐藤派の精神を持つ住民は町を離れた。志津川地区は死亡者を含めても今年の5月時点で「4435人」となった。真実はもっと減少している。ボランティアなど町に住みついた人や、外国人労働者もこの数に入っているからだ。
「イエスマン」ばかりの町政、気力を無くした町民も少なくない気がする。何も言わない町民全てが、「町長のイエスマン」ではない。「もっと声を上げよう!だって自分たちの町だから。」是、非皆さんの声を私に聞かせて下さい。

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昨日まで朝4時起きで4日連続だ。
昨夜の晩御飯は、友達から頂いた「日高見」と、別の友達からの「牛タン」、交流の贈り物の長野県原村の「セロリ」、父の友達からの「トマト」だった。それと昨年の全国印刷組合福島大会の記念品の「オチョコ」で、全て貰いもので済ませた。
今日の空腹時血糖値は「116」と正常に戻った。ここ一週間の不規則生活で、190~200と高血糖だった。普通生活と節制遵守!

生きて行く事で「健康」は一番大切で、痛い、痒いが無い事は、多少お金が無くても幸せである。

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2017
10/05

約束を守らなかった新町首長


昨日は父の日赤病院での循環器定期診察で石巻へ。朝9時に家を出て40分余りで到着した。受付を済ませ診察へ向かう。私は病院の図書室で「南三陸マイタウン情報」の原稿をまとめた。この日は診察時間1時間30分で、病院に隣接する「三陸道」から南三陸町の我が家へは、12時には到着した。駐車場も病院内も混雑なのに何と早い診療時間、やはり先生と看護師の充実による、診察時間の短さだと思う。
南三陸病院の状況の「地域医療」への医師の招聘や、看護師の雇用も厳しいのは判るが、月々3000万円の赤字は、経費削減や省力化もないままで、町民生活への環境充実への予算が削られている気がする。子供達の将来への「ツケの先送り」ではないかとも思う。周辺の地域医療機関と連携し最大限に利用で、良い医療を受けられる環境を造り、根本から病院経営改革が必要だ。
現町長が15年前の「病院議会」の議会議員でもあり、組合病院を町役場に組み入れたのも佐藤町長と聞く。町職員と病院職員の選挙の支持も絶大で、「持ちつ持たれつ」のなれあい政治がここにある気がする。

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合併・復興の佐藤町長の検証
.1.両議会の新町合併時の約束「新庁舎建設」の不履行
旧南三陸町と旧歌津町の「平成の合併」は、両町の議会にとっては、当時に両町議員の重なる議論により、15年前に合併が実現した。
その議論の中で合併から2年後以内に、両町の間に「新庁舎」を建設すると言う、互いの協議が締結した。しかし、佐藤町長は町民の「新庁舎建設審議会」? なるものを設置し、再度の建設の議論を町民にまかせた。その当時の委員には津波で亡くなった社長や、両町の商店主などが参加していた。
元志津川商工会会長として、その影響力は大である。だが、両町の議会で決定した議案を無効にする、最終的な首長の判断は「新町の私物化」、そのものである。
この議会の決定が履行されていたから、現在の庁舎があった「沼田地区」で、大震災の津波から多くの職員「43名」の死と、町民の800名余りの犠牲者とはならなかった。一人でも多くの震災死を防げたのに、「想定外の大津波」での説明には、私は納得などできず、多くの町民にも怒りと疑問の声がある。自身が議会決定を無視した事への謝罪は今も無い。


≪6月の気仙沼市の出来事1≫
◇気仙沼魚市場と巻き網船が213匹の本まぐろを水揚げした。平均で107k、Kあたり平均1118円だった。
◇唐桑トンネル付近でクマの目撃情報があり、鹿折小学校で集団下校。
◇大島医院が6月1日の再開となり、気仙沼市八日町出身の森田良平医師(52)が着任した。
◇気仙沼市議会の政治倫理審査会は、飲酒運転疑惑で辞職勧告を受けた熊谷雅裕氏(65)に対し、勧告決議の履行と一般質問の自粛を勧告するよう熊谷伸一議長に報告した。
◇気仙沼郵便局では「カツオゆうパック」の第1便を1日、全国へ発送した。

「気仙沼市の認可保育施設の待機児童が、4月現在で前年の3倍となっている。
4月1日時点で27人にも上り、解消へ私立保育所にも補助金などの対策が必要となっている。待機児童は0~2歳に集中し、核家族化や就労希望の母親が多い事が理由に上げられる。」

◇気仙沼市のGWの入り込み数は11万7598人と、前年より7.8%(1万人)の減少となった。大島汽船の「遊覧船」は、大島大橋の架設により利用客が4倍に増えた。
◇気仙沼市の仮設住宅について、入居8年目の来年も要件を満たしている被災者に「特定延長」を認めることを決定した。
◇気仙沼市は復興の専門性を発揮に期待をと、2人のアドバイザーを採用する。1人は人材育成NPO法人「アク・エス・エル」の片岡理事長(42)と、「気仙沼地域戦略」理事で、リクルートライフスタイルじゃらんリサーチセンター研究員の森さん(41)の2人。
◇気仙沼向洋高校の再建事業の工事が順調に進み、新年度の供用開始に向け進み、野球場はほぼ完成に近づいている。
◇気仙沼観光コンベンション協会はリアス・アーク美術館で、教育旅行など滞在の短い団体に対応しコンベンション協会で「語り部」を行ない、常設展への閲覧をすぐにできるようにする。
◇歌津「鎮魂の森」で、天台宗の青年僧侶64人による「七回忌法要」が営まれて、60人の遺族が参加し犠牲者の冥福を祈った。
◇気仙沼市の「復興祈念公園」の基本設計がまとまった。陣山地内に750㎡に慰霊碑・モニュメントなどを整備する。概算事業費は4億3千万円。

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2017
10/04

被災した防災対策庁舎の解体し被災者の名前を刻む


宮城県の自治体は県知事選挙と衆院選のW選挙で混乱していると言う。南三陸町に於いては町長選と議員選も重なり、選挙管理委員会は自治体の中で出も。最大の混乱と言う。
佐藤町長陣営では150名の支持者を前に、10月1日に選挙開きを開催し、それが本人の発信のフェイスブックで紹介していた。既にポスターも貼られ、事務所は選挙モード一色だ。
対抗馬と予想される震災後に南三陸町に入った方は、選挙事務所も近くに設置しようと思ったが、当初は了解していたものの、佐藤陣営の選挙対策本部が近くに設置されたので、地主が断ったとの話も聴く。選挙に長けた現職の力は巨大である事を知らされる。
議会議員選書も新人が3人立ち、現職が2人勇退と言う以前の情報ながら、熟慮していた2人も立候補の方向でいて、元職として「私」も立候補をするので、前回と同じ2~3人が落選する。選挙での自分の考えを町民に示す事で、町民が考えさせられ、選択肢ができる事は町の活性化と、町づくりの変化にも繋がる。我が町の古き選挙行動の「縁故選挙で、当選するには親戚・縁者の少ない人間には厳しい。震災後に多くの人達が町を離れたが、移転した人の多くが「反町長」のみなさんだと言う事は、その名前からも理解ができる。

民進党の前前原代表の、民進党の衆議院議員の解散は、大きな政治の流れを創ると言うが、果たしてそれが国民の為なのかは、今後と選挙を見て行きたい。「希望の党」の191人の公認発表があり、今後も公認者を重ね過半数の「233人」の立候補者を出す。安倍総理の当選ラインも過半数の「233人で」、圧倒多数だった以前の「340席」の党員が100人も減少する事を予想する。目標を達成すれば「安倍政治が認められた」と安倍政権を今後も実行していくと言う。これは大敗の何物でもない。こんな政治の混乱の中でも国民は、厳しい環境の中で生活している。1億2千万人の国民の一割が「生活安定世帯」で、国民の3割が生活苦に絶え生きているとも言われる。

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≪6月の南三陸町の出来事3≫
◆南三陸町の「サンオーレそではま」が7月15日に、7年ぶりに再開する。トイレやシャワー棟を整備し、8月20日までの期間、夏のにぎわいの復活へ町は期待をよせる。毎年1万人の来場者があった観光スポットが復活する。
◆南三陸町の5月末の人口は1万3380人で、前回から6人増えた。出生9人に対して死亡は16人で、自然死はマイナス7人だった。
◆南三陸町と南三陸人権啓発活動地域ネット協議会が「人権の花運動」として、町内の小学校と幼稚園に花を贈り、子供たちと一緒に花を植えた。
◆南三陸町立伊里前小学校のプールが老朽化のため、年度内の完成を目指し新プールの整備へ。
◆南三陸町野球協会の阿部会長が、23日志津川高校に夏の大会での健闘と期待を込めたボールを贈った。
◆南三陸町の町長・町議選は、10月22日の投票となり、県知事選と同時執行となる。
◆南三陸町は東日本大震災後の状況を踏まえ、全町道を見直し1割ほどを廃止にする。

「28日佐藤町長の記者会見がアリーナ会議室で開催された。佐藤町長は、震災祈念公園・道の駅構想など、復興計画の総仕上げのほか、南三陸ブランド創りや、町職員の意識改革など、次期への決意を語った。」

◆仙台市にあるキリンビール工場で、キリン復興応援プロジェクトが開かれ、キリン仙台工場で南三陸の物産をPRするブースを7月1日から設置する。
◆2016年の出生は、南三陸町では62人で17人減少し、気仙沼市は356人で前年比で30人増加した。

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