ARCHIVE - 2016年04月

2016
04/30

連休初日は


今年の連休初日は町開きした「女川町」の商店街の見学にいった。以前は志津川から1時間30分掛かっていたと思ったが、昨日は9時前に向かい一時間で到着し、被災地の隣町の復興の形を見届けた。
先ずは女川駅だろう。観光客の玄関口ながら、この日は商店街周辺の駐車場が満杯ながら、駐車には困らないくらい、来町者を迎える環境が復興途上ながら出来ていた。女川駅の二階には「ゆぽぽ」の温泉施設が整備され、以外と小さい出迎えの施設に感じた。朝10時半の「朝風呂」に浸った。玄関には「足湯」の場所もあり、ぬるめながら若者達が楽しんでいた。売店には女川町の産品が少しながら陳列してあった。二階の温泉施設から女川商店街を海に臨んだ。商店への期待が増してきた。
駅から歩いて5分と掛からない場所が商店街だった。被災した商店が新たな形で店を開いていた。目当てのタイルの店に入り女性オーナーの復興への気持ちがこもった、小さいながらも「体験コーナー」も含めた店内は、カラフルなスペインタイルに目を奪われた。小さいマグネットのタイルを2枚記念に購入した。「900円」ながら綺麗そのものだった。店員さんは「おすすめは玄関ネイム」ですと言う。市販の物と同じくらいですョ!」と話してくれた。体験コーナーには来客がいた。勿論「ダンボルギーニ」のダンボールで造った外車も写真に収めた。
この日は「琉球国踊り太鼓仙台支部」のエイサーが、交流ステージを飾り賑わっていた。ヨサコイの大崎・石巻の団体も加わり「総踊り」では会場が一体となった。小雨交じりの中で多くの観光客が声援を送った。
交流館前では地元の海の幸「マルシェ」が立っていた。ホヤ・タコ・ツブ串が飛ぶように売れていた。その他には「姫たら」の天日干しの試食に誘われ、各安な10本500円で販売していた。乾物などもあり4店は少し少ないとも思った。タコ飯だけだったが漁民が家族で切り盛りする姿に、ついつい買い求めた。
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商店街の決定は抽選によるものでなく、来町者を考えての回遊性を持たせた造りになっていた。玄関口には右側に食事店が並ぶフードコートがあり、一店はスーパーで外国人客の姿もあった。着物のリホームの店にも外国からの支援わ受けたのか、外国からの家族連れが来店していた。右側にはフルーツの店がありその次が薬局で「処方せん」を扱っていた。高台には町の病院が残ったせいか、「外部処方」の流れか、町民の商店への呼び入れか、広いスペース利用に違和感があった。その脇に「観光案内」があったが、少し狭く観光客でいっぱいになっていた。この薬局の場所に水産・加工店舗があったら良かったのにと思った。とにかく喫茶店で温かいコーヒーを飲んで落ち着き商店街を全て探索した。
時間に制限される事のない、復興した商店街の姿を楽しんだ。まだまだいっぱい「女川町の商店街」を紹介していきたい。

復興が遅れる事のリスクを知らされた一日となった。小さい店の理容店も数軒ずつも開店していたり、居酒屋・ラーメン店・カラオケスナック・花屋さんなど、各種な以前の町の店が建ち並でいた。津波で失った町の再生の姿がここにあった。電気店や水産会社・不動産などの町再建に必要な会社も、商店街の隣接する土地に建設が進み、漁港・市場・水揚げの施設整備も終わり、更なる港湾の整備が進んでいた。

地元の宮城の隣町の再建を応援していこう!
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2016
04/29

高齢者のみなさん南三陸の来町は運転注意


昨日のお寺は雨の葬儀となった。一人で母の面倒を被災後に仮設で暮らし最後を看取ったのだろう。私の隣りの仮設で、マイタウンの新聞配達を手伝ってもらったり、会社のアルバイトもしてくれた。早く亡くなられたお父さんは今も覚えている。仮設隣とあり時々貰い物などお裾分けし、相談にも乗っていたのに、「ご苦労さん」としか言えない。お寺で献花を頂きリビングに花の輪がまた広がった。以前の区長には「たまに仮設に来ないと」と言われたが、町の為に私は他人より活動していると思っている。88歳の死は被災して新しい住居に入れることを楽しみにしていたのに、町の復興の遅さに高齢者の更なる不幸を感ぜずにはいられない。

昨夜は志津川剣道スポ少の小学生の指導で武道館に出掛けた。中体連が5月末とあり生徒の熱気が伝わってくる。今年は新団員が2人もいる。剣道から離れようとしているのに、子どもの笑顔に「継続」と言う言葉が、ムクムクと胸に湧く。5年男子と6年女子の入団となれば、子ども達にやる気が起こってくる。良い形ながら指導者の不足を嘆く。20代30代の剣道の教え子が町に帰っているのに、「誰かを助ける」との気持ちが無い事を残念に思う。多忙な生活の中で地域の人との交流がどれほど大切かを解らない。家庭と会社だけの生活は、自分を磨く事が無く将来にそのツケが必ず来る。後悔しない人生は、色んな事に挑戦し何時までも勉強だと思う。まあイイ!
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水尻橋がまた新しく架け替えられ、道路が急に変わっていた。一週間前までは何も変化なかったのに、前後の道路の風景も違う事に驚いた。以前のスタンドもまだ形は残っているが、国道45号の新設がその上にできる。4人の従業員さんは何処に行くのか心配だった。
町再建の残土が盛り土となり町中に山積みにされ、また崩されその繰り返しが何度も起こっている。不思議な被災地の光景が日々変わっている。写真は中学校下の河川堤防の基礎工事で、松原グランドの災害復旧は、あと3年掛かると言う。八幡川の橋脚が1本また一本と完成しているが、橋が架かるまではあと3年掛かると言う。基礎再建に8年間かかり、今後の残り5年を創生期間と言うが、何が創生かか判らなく、私も65歳となり高齢者の仲間入りだ。
志津川地区には3つの川があり、10mかさ上げしての橋の建設の大変さを解るが、その多くの時間の必要性は回避する工法で再建できないのか。早期生活確保の為に重点的な住居再建と、国道の主要道路の早期整備と、生活環境確保の商店街とスーパー配置を先行で進められると思う。多くの建設計画は国の計画に習って進んでいる。一町民が騒いでも計画が変わる訳でもない。「選挙で中央政権から変えよう」と、言っても国民は自分の事を守る事でいっぱいだ。そこにも「しがらみ」がある。

静かに町の国の町づくりを見つめて行きたいが…。今日は女川町の商店街を見に行きたい。大阪の「京たけのこ」のお返しに、「高正の蒲鉾」を贈る事と、スペインタイルの店に寄って、「ゆぽぽ」と日の出の見える新店舗の中央から、海に向かって写真を撮りたい。
我が町のやっている復興の経過に乗れない、みんなで一緒は何処にあるのか、以前の商店の増加など何処にも生まれようがない。


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2016
04/28

弾力性をもった予算の使途とならないのか


昨日は取り貯めていたビデオの一つを見た。「クローズアップ東北」で震災復興の在り方についてだった。
グループ事業支援金は、これまでにない被災事業所支援の形で、7000社に3200億の交付が決まっているが、現実は人口減少により事業経営は厳しく、再建から時間が経ても従来までには戻っていなく、4分の1の自己資金分の支払いに苦しんでいた。また、今後の経営特色を出すために新たな器機を入れるのには、補助の原点は「現状復帰」にあり、以前の事業から新たな取り組みには自己出費となっていた。我が町なら自治体で応援支援を大きな会社と、将来の為にと予算取得事業を探し支援している。だが、他の自治体は公平性の元で住民への支援に重きを置いていた。
3県の沿岸には「防潮堤建設事業」があり、1兆円掛けて整備をする。しかし、防潮堤の整備の基準は、生活住民を守る事と、地域が発展する為のインフラ整備があり、「震災復旧制度」に基づく防潮堤の建設がある。しかし、震災の年の12月に計画が決定したものの、人口の減少が被災地にあり、その例として「南三陸町」が上げられた。町の職員は「建設を中止して後で災害が起こっても交付金はでない。」と言う。多額の建設費は全国民税金で、社会保障の資金でもある税金、無駄な所に使う事は日本としてどうかと思う。他に「もし防潮堤の整備を止め災害で死者がでたら、自治体が責任を負う事は避けたい。」こんな理由もあると他の自治体は言う。だから建設を地域住民との話し合いの必要性を言う。
我が町にもこんな所に誰が住んでいるの? という場所に防潮堤建設がある不思議を見る。道路インフラ整備と水産会社の防衛などがあるが、千年に一度の大災害への対応としては、その裏に建設族議員の思惑を感じる。民主党は倒れたが「コンクリートから人へ」の政策は、今も間違っていない。だから政権交代が起こった事を想い出して欲しい。
朝のニュースで歌津地区の町の野球場修復工事の話題があった。予算として350万前後の予算を組んでいた。話題は被災自治体への支援職員の仲介で、兵庫県の甲子園球場と同じ土を使うと言う。鳥取砂丘の土と聞いた。「狭いグランドでの生活を強いられた子ども達に夢を与えたい」と言う町長の弁を紹介していた。朝野球での仲間が町長のブレーンには多く、趣味の範囲を脱しない町政運営と見た。住民生活は住宅再建が進む中で、買い物の場のスーパーが未だに建設されない、被災地の住民の生活の確保は全然進んでいない。今年度までには災害公営住宅も建設完了と引き渡しになるが、商店街整備が来年3月に控え、巡回バス整備場有料に、高齢者は高台災害公営住宅からの外出もままならない状況の中で、町の話題性ばかりがクローズアップされている。また、昨日は歌津地区の伊里前に「子育て支援センター」の建設落成式があった。伊里前保育所が津波で被災し、その場所の運営から中学校裏の高台の住宅街に建設された。華々しい町の復興には適したトップの性格だが、住民生活の地味な部分への行政の政策は私には小さく見えてしかたない。
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昨日は登米市で暮らす南三陸町民の所に用事で出かけた。帰りに「カッパ寿司」で少しの贅沢をした。偶然ながら歌津の畠山さんが孫の就職で会社まで送って行く事で、店内で声を掛けられた「なつかしいごだ!」と。また、本浜町の以前の地区住民も孫を連れて来ていた。少しの贅沢と言った所だろう。写真は父へのお土産の寿司です。

今日は午後1時から大雄寺の葬儀に参列する。本浜町の住民の知人の母が88歳で亡くなった。震災後は地元民が減り近所付き合いも希薄になり、参列する人が少ないのは余りにも寂しい。

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2016
04/27

また事件発生


朝にワコールの製品のパジャマが燃えやすい素材で、危険と自主回収をする事をニュースで見た。パジャマ姿で台所に入り料理をする私も、袖の緩いパジャマにガスの火が付きそうになった。ワコールの製品は数秒で上半身に火が回った。こんなニュースを見た後で、父がジャージと下ズボンに穴を空けてしまったと言う。その理由は仏壇の線香を倒しジャージに落した事に気づかずに、「熱い!」と感じ見たら線香があった。高齢の父は一人で部屋に暮らし、私は工場で仕事をする生活で、日に4~5回ぐらい顔を合わせる生活がある。一人暮らしが増え、高齢者が今後は南三陸町に多く、多様な問題の発生を危惧する。

役場に行った折に、国際認証の認定を受けた「戸倉カキ」のポスターが、波伝谷地区の漁民が一同に会し、生産カキを囲み祝う光景があった。私の牡蠣のイメージは「どんぶり一杯」と、沢山食べられる事がある。こないだ仙台で「牡蠣フライ定食」には、牡蠣が4個で1400円だった。高いがありブランドとなる事は庶民の口に入りにくくなる事に繋がらないか心配だ。昔は海に自然と生息する「自然かき」を、春先の磯で食べ過ぎてお腹をこわした事を思い出す。こんな町の姿はもうない。町民の幸せっていったい何なんだろうと、今の町の移り変わりに思う。町の魚屋さんから1パック800円の牡蠣を買い、腹いっぱい「かきフライ」を食べよう。

昨日は佐賀県から今回来た「派遣職員」が見積を持って来た。「佐賀大丈夫ですか?」と聞くと、私の方は大丈夫ですけど、隣の熊本に親類縁者もいるので心配と言う。また、夜には宮城の蔵王から交代で、若い職員が来た。今まで会った派遣の職員でも色々な性格の人間がいる。日本全国からの支援の輪を感謝したいと思う。
夜は体協の総会が役場であった。子ども達のスポ少の参加比率は、南三陸町は23~25%と言う。県内平均の15%から見れば多い。しかし、児童生徒の減少は、各種団体の維持に黄色信号となっている。「休止中」の協会やスポ少も多く、各団体が合同チームを作り大会に参加し、各種スポーツの存続させる活動が続いている。
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こんなだの月初めに県への書類提出で、気仙沼税務署に「納税証明書」を取りにいった。勿論、納税滞納があれば県の補助の対象とはならない。事務所の階段の下に、大きな大漁旗を見つけた。寄せ書きは暗く小さいので、私の目には見えなかったが、水産業への支援の感謝と、今後も水産業の継続に頑張ると書いてあるのだと思う。

昨日はこないだ副町長を退職した遠藤健治氏が、熊本の被災地「益城町」に震災再建の支援に、町から派遣された。

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2016
04/26

朝の太陽が眩しい


市松模様? オリンピックのエンブレムが決定する瞬間に立ち会えた。仕事の合間に偶然にテレビを付けると、検討委員と王選手がテレビに現れ、パネルを開いて発表した。21人の委員の一回目の選択で13人が、このデザインを選択した。当初は世間の予想とは別で、アサガオや雷神といったデザインが良いとの意見が多かった中で、今回の最終決定は意外なものだった。
野々村議員が裁判の求刑を受け、「懲役3年」?と言う。政務調査費を1千万円近く不正に流用した。年間300回も温泉に調査で行き、調査費として不正受給していた。会見での奇妙な行動や発言があり、裁判でも信じられない行動が報道された。こんな人間が市議会議員に当選する不思議に遭遇した。昨日も小学生高学年との市議の不純行動が発表され、自分のした事がどうなるかを考えられない、国民の代表が奇行を起こしている。全国の議員には「何のために立候補したか?」を立ち止まり考えて欲しいものだ。
京都府の補欠選挙は自民党が候補を立てず、民進党の前職が当選したが、北海道5区の自民の町村議員の死去による補選は、前職の娘婿の立候補と、民進党と共産党などの野党の連立で、候補を立て戦った。結果的には1万2千票の接戦となり自民が勝利した。重視する点は票の数と言う、以前の民主党と共産党の票数を合わせた票が結果に出た。夏の参院選では、野党が共闘を組み選挙に臨む。自民と民進の危機感が両方に伺える。もう一度、国民も投票の意味を考えて欲しいし、自分たちの生活を守ってくれる人を選択して欲しい。地区からとか世襲とかもうイイだろう。その人が解らなかったら投票するな!とも言いたい。今の我が町の姿には興味が薄い。

連休に一つ予定を入れてしまった。しばらくぶりで仲間と会い汗をかけそうだ。連休にはこの町を離れたい! この町の「まつりごと」には違和感さえ思うようになった。「町の復興のために今後も頑張りたい」と、祭りのトップは話す。これでどれだけの町のプラスになっているのか。全国からの支援の元のある事を忘れてはいけない。恩恵は自分達だけては町の再生には繋がらない。町の長にも是非、熊本に直接行って欲しい。「そんなに忙しくはないだろう!」。被災した熊本県民の手を握り「一緒に頑張りましょう」と言って欲しい。何も自治体に迷惑を掛ける行動は慎んで!
昨日は同級生の姉と会い「写真ありがとう」と言われ、弟はまた船に乗りましたと報告された。神奈川の自分なりの被災地支援をする人は、「皆さんに笑ってもらう活動」を呼び掛け、健康に何が必要かを説いていた。子ども達のスポーツを蔭から支援する方が、「千葉さんまたお願いします」と情報を持って来てくれた。多くの人達の行動に力を貰っている。「ひとりじゃない!」と感じる瞬間だ。
「婚活・恋活」を再開する。40歳を過ぎて独身者の多い我が町は、両親が将来を心配している。何とか手伝えないかと行動を自費で始める。被災地の情報を伝える活動も限界には来ているが、将来残す物は何もない。「ばかな活動」と言われる事をすることに何の不安もないが、時々通帳を見て考える。まあイイ!

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2016
04/25

10日後の東日本大震災


こんな光景が私たちの被災地でもあった。水道の復旧は3か月以上も掛かり、我が家は沢から水を汲んだり、内陸の隣町の親せき宅までポリタンクで水を貰いにいった事を思い出す。
この日は歌津地区に行き津波災害の姿を写真に収めた。写真は名足保育所の給水車が周辺の家庭に配る水を準備をしていた。
毎日、生きる事に一生懸命だった。

町の震災対策本部がベイサイドアリーナに設置され、メディアが取材でいっぱいだった。この中には多くの被災町民が暮らす為、入室を制限していた気がする。市街地は瓦礫に覆われ、通行の為の道路も国道や避難場所までの道路の整備が進められていた。10日ごろは多くの物資も町に入って来て、緊急車両だけが町に入れ、誰でもが町に入れない環境だった。車の数も少なく私は残った愛車(自転車)で、戸倉地区・歌津地区や登米市津山まで行って、避難場所で被災者の状況を見て回った。この住民の姿はまさに熊本地震の避難所と同じだったと思い出す。
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昨日、登米市に自宅を構えた親友が電話をくれた。「連休遊ばない」だった。9連休で故郷の仲間と会いたくなったらしい。母も8月には病院脇の災害公営の集合住宅に入ると言う。高齢者ばかりが住む町になり、我が家もその予備軍として今後を暮らす。
熊本でも「ノロウイルス」が発生している。480人の避難所で28人が感染したと言う。志津川小学校でも当時「ノロウイルス」が発生し、その他に「インフルエンザ」が抵抗力の低下した被災者を襲った。ここで震災後に被災者を診ていた医師がいた。自分の医院を被災し被災者であるのに、志津川小学校に避難しそのまま診療所を仕切り、被災者の体を見守り治療に励んでいた。いつも「医は仁術」を励行していた、主治医「笹原先生」で、テレビでも幾度となく取材され被災地の現状を全国に伝えた。
私の知人家族もここでノロウイルスに感染し、他の地区の病院に隔離されたと、こないだ聞いた。4月の発生はまだ温かい時期なので、感染の拡大と熊本はならなかったようだ。まだ朝晩寒い気候に健康だけは留意してもらいたい。しかし、テレビから流れる避難され身を寄せる車や、被災した家屋の納屋などで暮らす被災者が多く、早く落ち着ける事を願わずにはいられない。

今回の震度7の連続の地震発生は、「耐震基準」にも大きな影響を与えている。巨大な地震が2回連続し発生すると、耐震基準の家でも崩壊すると言う。現在の我が家の建設会社は、問題があり過ぎて「30年保障」も無理で、現在倒産している。建設間もなく壁とクロスにヒビが入っている。巨大地震が2回連続発生したら、一たまりも無いと思っている。最近は時々「震度4」の地震があるくらいで、震度5の地震は発生していない。それが熊本では10日間で震度4が76回と、それ以上も10回以上発生している。東日本大震災の連動地震は震度4が3分間続いた事を身体が覚えているが、熊本の震源地の10日以上も続く震度4以上の地震の恐怖は、我々の理解を絶する。「おさまるのを待つしかない」と被災者は話していた。

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2016
04/24

草花の恵みと愛でる年となりました


時が色々な事を解決し、心の落ち着きまで、頑張る事が必要ながら熊本の10日間は、先を見通す事さえできない震災の余震が続いている。当初の一日100回の余震から、昨日には30回前後まで落ち着いてきたが、3.11を思い起こすと1か月後の地震は大きな力となり、被災地に地震の恐怖を植え付けた。今回も本震が前震だったりと、2回目の震度7は前震よりも遥かに巨大な地震だった。まだまだ身体・心が休まる事はないと言う。
次の段階の避難処置として近隣の自治体が、市営・町営住宅の仮設住宅の活用に声を上げた。その数は2000戸にも及び、震災関連死防止の対策として、被災者の皆さんも無理しないでと言いたい。
3.11の震災から10日目ごろから南三陸町も近隣への生活場所確保に個々が動き始めた頃だった。震災の中身が熊本とは大分内容が違う。津波でなにも亡くなった事と、全壊ながら家の姿が残り思い出が詰まった家を、離れる事ができない現実に、今後を踏み出せない熊本住民の心を思う。時間が経過する事で、落ち着きと新たな生活へのスタートの決断があり、最善策が講じられ新たな生活へ、もう少し時間が掛かりそうだ。
政府の震災対策も「3.11」の経験を踏まえ、適切な迅速に支援を進めてくれるだろう。今回の災害は「東日本大震災」と違うと菅さんは言う。消費税は予定通り引き上げると言う。政府の実情も財政的に厳しいからだろう。予備費からの20億の臨時支出があるものの、それだけでは全然足りない。震源の益城町の人口は減り、若者たちが安全な地へ移転が加速する。3.11の再建の姿に、その現実に目を向け支援を考えないといけなく、町歯無くなってしまう。
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我が家のプランターには、ネギが悪くならないようにと土に植え、ネギぼうずが出来始めた。昨年植えた「ミツパ」が寒い冬を乗り超え、たわわに葉っぱが実った。「しろうお」がシーズンとなったら、豆腐と共に添え吸い物を造りたい。春の訪れと味を通し感じよう。
事務所の玄関には昨年の暮れに植えた「スミレ」が、鉢いっぱいに咲き乱れている。こんな所にも心の癒しとなり、日々のいきる喜びを感じ味わっている。従業員の女性の心遣いが、高齢の男二人の家に彩りを造ってくれた。ひとりでは生きられないと肌で感じる瞬間に浸っている。
年間通しても多忙な4月を何とか終えられそうだ。今から仕事に入る。心地よい朝を迎えている。九州の被災された皆さんにも心休まる日が早く訪れる事を願う。「大分県の被害も忘れないで」と、仲間がフェィスブックで訴えていた。

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2016
04/23

自分が生きてきた志津川の暮らしはもう終わりなのか


「子供の声がうるさい」と思う日本国民が35%いる調査に驚いた。「待機児童問題」での大騒ぎした日本の裏に、こんな国民も多い事を知った。子ども達は「五月蠅くて当たり前」で、保育所の建設の大きな障害となっている。
日本の高齢化は益々進む中で、高齢者の生活は一層大変になっていく。町の再建が進む我が町でも、住宅ローンを組み生活する住民が多いが、家族の突然の病に倒れる事で、家庭が成り立たない状況が多く発生する気がする。ローンに押しつぶされる事のない事を願うしかない。
祖母・両親と兄弟二人の家庭に何が起こったのか。長男が家族全員に刃を向け、祖母と母と長女が無くなり父が残った。30歳を超える長男に何があったのかはこれからの調査ながら、今の社会情勢や環境に問題があると思う。「我慢する」「努力する」ことができなく、生きる事に「弱い人間」が増えた。家庭・学校での子供の教育に多くの問題があると私は思う。
先週に南三陸町津川市街地に「西宮神社」があり、昨年に神社に寄付を貰い、提灯に名前を付けて桜の時期の大祭合わせ、夜の東山に火を灯す事をした。私も2つの名札をお願いした。その申込みをお願いしに行った一週間後に、私の志高の恩師の工藤先生が、震災でこれからと言う時に逝去された。工藤先生への感謝の気持ちの一つだったのに、今年の桜の満開と真新しい名札灯篭の灯りを見ずに「神」になった。
市街地は10mの嵩上げとなっても、東山の「西宮神社」はまだ高台と言える場所にある。今後も南三陸志津川の町を見守り続けて欲しい。そして、町の一つとして「私の軌跡」を残す事ができた。何時までも私の故郷である。
偶然ながら提灯の撤去の時に、その姿を写真に収められた。これも先生のお導きちと言える。先生いつまでもふるさと「志津川」を天から見守って下さい。

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2016
04/22

がんばろう(助け合い)熊本


昨日は朝7時前に家を出て気仙沼に行く。国道は大谷地区から渋滞し、1時間を越えようとしていたので、最知のパチンコ店から農道に回り、予定の一時間掛からず目的地に到着した。大谷地区では中学生が歩道を滑走する。国道の大型トラックの脇を少し大きめの自転車を、新中学生が対向の自転車に自転車を止め土手に落ちそうになりながら、やり過ごしていた。現在、5年が経過するのに志津川地区の学校は、通学バスでの日々が続き、体力の低下を心配する。一日も早く普通の登校となる事を願いたいが、志津川地区の学校を結ぶ「高台横断道路」はあと5年は掛かると言われている。子どもや高齢者の10年は大切ながら、津波被害の町の再建は、そんなに時間を掛けての大改造は必要かと今も私は思う。
熊本県の避難場所の1か月で3回の変更は、県民の苦悩・苦痛は「もういい!」との言葉となっていた。過去に例がないと気象庁では話し、国の対策に苦慮している話は、被災地の国民への不安となり伝わる。「いっしょに頑張りましょう」と全国からの励ましの言葉・支援の輪が、今、熊本に向かっている。私の知人のフェイスブックでは、東日本で支援に来た方々への「支援の輪」を求めていた。赤ちゃん・子ども達の生活物資の不足を伝えていた。まだまだ地震の終わりが見えない不安は私には図り知れない。
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気仙沼への途中に変化を見る。枡沢住宅の下に「仙台銀行」が完成し18日にオープンした。歌津農協に志中時代の剣道の教え子が転勤となった。地域の皆さんには厳しく育てて頂ききたい。その向かいの空き地に大阪の「串カツ」の店を発見した。歌津の新しい「美味しい店」が出来たと、歌津の若者が紹介していた。伊里前市街地にある「三嶋神社」のお祭りの「のぼり」も建っていた。伊里前川の被災した水門が撤去され、しろうお獲りの「ザワ」が今年も出き、昨日の魚屋さんの店頭には「1パック500円」と、初物の値はまだ高かった。
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一昨日は沼田地区の会議があり、地域の活発な生活環境への問い合わせがあった。街路灯の会議で地区内を明るくし、生活しやすい整備を話しあった。少しずつ地域に解け合って行きたいと思う。昨夜は志津川剣道スポ少の練習に6か月ぶりに行った。スポ少の運営を若い世代に移したものの、練習の環境は指導後継者の不足がある。2人のこれまでの団員に2人位の増加と言うが、子ども達の動向は不明だ。軽くの指導はついつい力が入ってしまう。帰って8時半の晩御飯となり、朝も早かったせいで食べてすぐに爆睡だった。
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昨日はテレビのニュースを見れなかった。アメリカの歌手「プリンス」が57歳で自宅で亡くなったと、朝のラジオで伝えていた。若い時代に洋楽にはまり、仕事と音楽の暮らしがそこにあった。10年ぐらいは同じ生活の繰り返しで、デビットボーイや当時の人間か、同世代で亡くなった。

熊本へは早急の義援金を県印刷組合を通し送った。会社でも現金封筒でも昨日応援金を贈った。遠く宮城の地から心ばかりの気持ちの恩返しだ。今後も義援金を続けたいと思っている。東日本での震災後も全国からのこんな多くの義援金が被災地に届いていたのだろう。何も知らず精一杯生きていたので、「何かしないと!」と日々活動していた。多くの支援は1か月を過ぎた頃から、被災地に多くが入ってきた。パソコンの流出があり、メールがたくさんあり「何か支援する事はないですか?」の問い合わせだった。私のすべき事はここにあった、今は当時の「発信」の力の大きさに驚いている。

今日は情報収集と発信の日としよう。

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2016
04/21

全国からの支援の輪の拡大


以外と出費が重なる時があるが、今月は色々と年度末の為もあり想定外の出費となっている。隣の板金やさんの忠告で「工場の屋根のトタンが劣化している」との事で、天候に恵まれた1週間前からペンキ屋さんが来て、一昨日に完成した。17坪の工場の屋根ながら20万以上の支払いとなる。
南三陸町から7人の被災地派遣があり、仙台市では17日に現地に入った一陣の2が返り、奥山市長に被災地の現状を報告した。この日に再度二人の震災復旧への部署の職員を、東日本大震災の経験を生かしてと専門職を派遣した。その後も84名の職員を3回に分けて派遣すると言い、その迅速で適切な人道支援の輪が、初動が大切と行われていた。
南三陸町の派遣は最知副町長をリーダーとして向かった。最知さんは「中越地震」でも町からの派遣職員として活躍し、その実態を町に伝える役目を果たす。我が町にとって適切な陣容と思う。物資も震災備蓄の水などを「震災協定」を結んだ、地元の運送業・スタンドなどの支援の元に出発し、二日間で現地に到着と言う。
宮城県印刷組合でも一社当たり1万円の義援金を贈る。知人も店内に「募金箱」を置き、これまでの広島や福岡の支援への恩返しをすると言う。私も現金封筒で「熊本県庁」に今日にも応援金を贈りたい。
今から用事で気仙沼に出掛けます。今日はこんな所で!

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2016
04/20

エコノミークラス症候群


多発する連発地震も600回までに達し、中越地震の発生を超えるまでとなった。台風への対応で瓦葺の屋根や耐震対応の古い家々も多く、活断層沿いの家は全壊があり、半壊や被害を受けた家に住めないと、車中での生活が続いている。
エコノミー症候群は、同じ姿勢を続けていると脹脛などで血管に血栓ができ、血管を通り肺や心臓に達し、血管が詰まり死に至る。これまで20人の発生があり2人が死亡と発表された。車中生活者は7日目となり1万人がいると言うが、確実な調査でないと言う。今後も続く連続地震とみられ、心的ストレスや疲労など「2次災害」の発生を懸念する。
おおさか維新の会の片山寅之助議員が、「タイミングの良い地震」と発言した。「歯に衣着せぬ」発言と政治分析をする大好きな議員ながら、言葉の真意と違う使い方をしてしまった。現在も苦しみ続ける熊本地震からまだ1週間も経ってなく、いつ終息となるかも知れない事態にこの発言は、口が滑ったでは許せない。安倍政権の政策の回避できる、政治的な理由と言う事だろうが、この言葉はない。また、上げ足の取り合いとなりそうだ。直ぐに謝罪したと言う今回の発言問題は、被災地の国民への国会議員の全てが本気で、被災者の事を考えない人間もいる。東日本も熊本と同じように、未だに地震・津波被害と国民は戦っている。
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昨日は「三陸復興道路」を走った。登米市米谷から志津川の中間に「三滝堂IC」が16日に開通したので通った。5分ぐらいは登米市が近くなった気がする。

熊本地震に全国から支援の応援金や物資が、交通網の復活でボランティアを含め支援に入っている。台湾もいち早く義援金を20億円贈った。東日本大震災では200億円を被災地に贈り、南三陸町には22億を病院建設で支援した。台湾仏教協会も一世帯ごとに見舞い金を贈った。我が家も3人生活で「5万円」を頂き有難かった。今回「日本財団」も熊本城の復旧工事に30億円を出し、今後の熊本地震の再建に80億以上の支援をする準備があるとも話す。

私は現地に行っての活動は無理で、熊本県への義援金を郵送しようと考えている。それしかできなく、お互い助け合う気持ちが一番大切と思う。今後も発生すると予測する自然災害は、被災地の復興が落ち着いてからの10年後以上後であって欲しい。ない事に越した事はないが、地球は生き物で人間は耐えるしかない。「助け合って!」

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2016
04/19

我が志を胸に


南三陸町の合併前の「志津川町」が好きだ。幼い時に描いた夢を捨てる事無く、多くの挫折の中で志を新たに掲げ前に進んでいる。
その原点が、志津川保育所・志津川小学校・志津川中学校・志津川高校での教育と、そこで出会った人達から多くの事を学んだ。人の為に何かをする喜びを知り、その生きざまを多くの仲間や出逢った人達と話し合い、これからの生き方を今も学ぶ。「一生勉強」「修正」「精査」を繰り返し、今後も南三陸町で生きたい。生きたいが私の理想の町からは、だいぶ変わってしまった。
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写真は今年も満開となった母校の桜を見に行って来た。震災時の高校の被災者支援活動がまだ続く中で、多くの人が志津川高校に集まり、その姿と桜の並木を写真に収めていた。現在は、町のあちこちに桜の苗木が植えられ、震災の風化や継承にと、ボランティアの活動が見られる。私は震災後も見続けている東山と、志高の桜と旧福祉の里の桜(旧志中跡地)を、毎年見つめている。
今年に志津川高校に震災を忘れずに、学べる事の喜びを知ってもらうように、高校の登校坂に名前を生徒の募集により、「旭桜坂」と命名し、先頃、建立を祝った。今年の卒業・入学に合わせ、生徒の記憶に残る碑に「ことば」を刻んだ。校長の母校への愛と、震災に負ける事無くこれからも志高が残り、伝統を守って欲しいとの願いを込めた。言葉は是非来町し多くの皆さんに直接触れて欲しい。
今年の母校に入学生は「75名」で、私たちの半分にも及ばず危機感を持ち母校を見つめる。南三陸町に将来を担う若者が、震災の復興再建が終える頃には帰って来る事を願ってやまない。

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2016
04/18

地震から5日目


熊本地震で命を守った70代の女性が、トイレで亡くなっているのが発見された。健康で病気も無かったと言う、避難した場所と5分ごとの地震が発生し、過労とストレスによる死と見られる。前震のあとで500回に近い余震の心的ストレスは見えない中で、身体に精神的な異常をもたらしている。また、透析患者の治療には水と電力と器機と場所・医師が必要で、現在は地震の混乱でこうした日々必要な治療と薬の確保に、避難するだけでは命を落しかねない被災者も多くいる。安全な場所への被災者移動も一つの大きな解決方法と思う。100年に一度の大災害に対し国が広い視野で、今を乗り切る事が将来の日本には欠かせない。被災地も高齢化の流れの中で、国の一大時期来ている。

介護認定社会は日本の社会保障に新たな問題が発生しつつある。介護保険料金は我が町では「3400円」から「6000円」となった。父を取って見れば年金が月に3万4千円で、介護保険料の差し引きで「2万8千円」となり、これで一人の高齢者がどうやって生きられよう。私が居て仕事をしている事で生活を何とか守れるものの、60歳を前に老々状態が目の前にある。家族は息子が居て子供へと、家系を代々続ける事がで成り立つが、今の高齢化・独居・独身など、国の大きな問題に発展しているのに、国民から財源を取る事に始終取り組んでいるだけだ。大きな制度改革無に、日本国民の生きながら得る方法はない。
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昨日は慰霊台の移転場所に行った。何も防災庁舎跡地だけが「追悼の場」でなくて良いと思う。これまでの「慰霊碑建立」の見舞金・支援金を行政は受け取っているものの、その内容を公開する事なく、「支援者は匿名で」と一部の人の要望を、聞き入れ総ての内容を議会にも伝える事は無かった。別な広い場所に「祈念公園」を一時期でも建設する事は、これまでの被災地で繰り替えされる工事の状況からも、その予算は出せる気がする。あんな狭い場所に町民・職員の尊い命の喪失にあたっての、行政の慰霊の場の設置は余りにも寂しい。

日々、仕事と何かをできる事に感謝だ。

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2016
04/17

私たちと同じ光景が広がる


熊本地震の被災地の様子に、我が町の震災後の姿を思いかえす。炊き出しに被災住民が集まった事は記憶に残るが、断水でも水を貰いに給水車に行った事は無かった。自衛隊の造ったお風呂は総合体育館の裏に整備され、隣の地区の保育所の避難所に幼児の入浴希望を募り、送迎をして喜ばれた事を思い出す。耐える事には昔から慣れていた事で、震災の窮地を生き抜く術を小さい時ら備えていた。子ども達とその若者世代の生活を守れたかつた事が、将来の町の疲弊へと繋がっている。160416_195038.jpg
今回の震災の避難住民の高齢者の悲壮感が肌で感じ取れ、子ども達の性格による沈んだり、愉快になったりする様子を心配する。子どもの生活環境を早く落ち着かせる事が大切だと思う。東日本大震災を国は経験しながら、被災地の救済を人命の確認と救出の為の、一次の救済活動で自衛隊・警察・消防隊員などを派遣し、現状確認をしている。この辺は津波による大災害と、今回の現状は大きく違っている。
おにぎり一つ・水コップ一杯が、道路の分断により細部まで行き届くまでには、1~2日掛かり避難所での安定生活までは1か月も要した。しかし、熊本の震災は今も余震が続き、今後も震度6弱の発生予測があり、壊れた家の維持や今後も先が見えない中で、心の安定は将来への政府の復興計画にある。手厚い義援金ではなく、大きな支援金を配る事と、安全な場所への土地の確保を上げたい。活断層の驚異は日本国民に大きな衝撃を与え、終の棲家の確保は場所の選定に大きな比重を置く事となるだろう。
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日曜討論では「人口減少」「地方創生」を議題にしていた。被災地の町づくりの在り方に疑問を呈していた。原形復旧が被災地の事業所にあるが、原形以上の再建が見られる。今後の町の姿を考え、労働力と事業発展と需要想定を見極めた、町への国からの支援補助があるべきながら、地元の自治体任せの推薦・公募の形があり、国の将来を考えれば、震災復興と言う事だけで、国の将来設計に添った国費の使い方を精査し厳しくすべきと思う。補助の成果が見られない時には、ある程度の自治体へのペナルティーの必要性を感じる。
地方創生は「文化庁」の中央分権が数年後に京都へ移す事となった。その他にも「消費者庁」なども四国への、仮設置の調査をすると言う。人工減少の歯止めは「魅力ある町創生」が基本とある専門家が言い、行政と町民が本気で話し合う事が大切と語る。
今日の朝に「サンドイッチマン」が歌津を紹介していた。漁民の「手ぶらで釣り」や、羊の飼育で子供たちの触れ合いの場を作り、大坂のボランティアは被災地の夜に明かりをと、串カツの店を出店し、皆が集まれる場所を提供していた。しかし、地元の若者は町外に仕事の場を求めている。「自分たちの町は自分たちで!」と言う気持ちが薄い。行政の描く町は観光客の交流人口の拡大や、ボランティアの流入拡大・定住を模索している。地元の若者たちの定住は魅力ある仕事場の誘致と、自分の将来設計を描ける環境造りが、異性との交流ひとつを考えても、若者たちが居ない「逆三角形」の人口形態がある。
大震災を受けた自治体は、行政と事業所再建に最大の政策に置き、さも、それで町民の生活環境を維持できると思っている。住民の定住に手厚い対策を取らない事で、子ども達が若者世帯と共に町外へ流出した。震災5年後に13500人を堅持し、その後の人口の上昇をと考えた。復興計画の甘さは、町の権力者と、専門家の「町民会議」からの提案で、一般の生活者の意見を取り入れない、造られた復興案に添う計画が、そもそもの失敗だった。

同じような失敗が町村合併時の、二つの議会で決定した事を守れなかった事で、多くの町民を失う事の要因ともなった。なぜ決定した「役場庁舎を二つの町の真ん中に建設する」を履行しなかったのか、それは責任者に建設する手腕の欠如と、建設審議にあたった仲間の委員に、権力の力が働いたと私は思っている。町民の多くの死者を出した事と、人口減少とは深い結びつきがある。
これからも自分なりに町の震災後の復興に、何が問題だったかを各分野の専門家から話を聞き、町民に訴えて行きたい。

【 未分類 | CO:0 | TB:× | 11:21 】

2016
04/16

夜中3時のテレビ映像


昨夜も9時半に就寝し朝は午前3時に目覚め、いつものようにテレビを付けた。その映像に昨日の事と見つめていたが、徐々に新たな余震が発生を知り、その地震が九州全域から四国へと6強から5弱と広がり、大坂でも震度3と日本の半分にその地震の拡大となっていた。
午前1時26分の熊本市に「震度6強」「M7.3」の地震は、昨日のM7は前震と発表し、地震を「熊本地震」の本震と訂正した。九州全域の大地震の発生は、まるで日本の世紀末のごとき、住民の逃げ場のない震源地を現していた。
初めのテンビを付けた映像は住宅火災の風景と、赤色灯を付けた消防車が画面に写り、阪神淡路大震災の光景が走馬灯のように思い起こさせた。幸運にも火災は大事には至らず、3軒で済んだ事は不幸中の幸いと言える。
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昨日の地震で痛んだ住宅、今回は阪神大震災と同じ内陸の直下型地震で「M7.3」の発表は衝撃的だった。住宅の全壊半壊と多くの家々がテレビに表れ、山崩れは「栗駒大震災」を思い起こされる姿を呈していた。川が分断され橋が崩落し、ため池の決壊や高速道の亀裂、孤立する集落が点在する、予想だにしない大災害へと発展した。
政府の対策本部での被災地の住民の生活確保へ、自衛隊の派遣を既に派遣している2千人から、15000人、2万人へとし、更に警察官を1千人・消防隊を1300人など、被災地へ派遣をすると話す。その他に「緊急援助隊」も送ると発表した。南三陸町でも4人の職員を派遣すると新聞は伝える。
東海大の農学部の宿舎の建物が、一階部が潰れて大学生が11人閉じ込められ、一人が心肺停止で救出されもう一人が助け出された。多くの倒壊した家々から住民の救出が、レスキューと消防団の手によりすすむが、亡くなる人は今度の地震で今現在13人となり、閉じ込められたり不明など現在その捜索が続けられている。
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「今夜も皆さん声を掛け合い生きて下さい。」とテレビ司会者が語り、総理の「わかりやすくタイムリーに被災地の住民支援を。」と言う。自然を人口に抑えようとする、力づくの抑制は無理だ。新しい町づくりを人口に力を加えた事は、自然は軽んじる政策に繋がり、また町に大きな力が加わる気がしてならない。先人たちの震災からの再建は、強硬な権力で独裁制を持たず、互いの議論の元に進められている。それが東日本大震災の再建には、日本の財力に物を言わせ、自然を敬う事無く軽視した工事が目に付く。防潮堤の建設も必要のない場所への建設や、自然の力に習う事ない構造物になり、「自然の力には、人の力で」と言った、固い物どおしのぶつかりは去らなる災害を生む結果となる気がする。
こんな大がかりな工事が、私たちの小さくなる町に必要なのか、多くの経費を将来に引き継がせる事が妥当なのかと、昨日に来客の知人と意見が一致した。町長の震災対策の政策をもう一度検証する事が大切と思う。
九州をはじめとする周辺地区の自然災害の連動に、どう対処したらよいか政府も今、判断しかねないでいる。今回の活断層の「布田川・日余久断層」は、四国へ続き有明海に繋がっている。阿蘇山の噴火や大分県湯布院への震源地の移動は、まさに活断層の力と言える。

私たちの経験した「東日本大震災」と、今回は逆の立場だと「ふと」昨夜思った。一分一分、一日一日を頑張って生き抜いたあの頃。九州も高齢者の多い地区で、皆で声を掛け合い助け合って生き抜いて欲しい。活断層の収束は50年100年とも言われ、火山灰の土地での地盤の脆さに、どう対処していくか大切だろう。
東北三県への震災復興交付金の今後は、九州の更なる「激甚災害」の指定を予想する被災地に回る。東日本の被災地の目論む通りの復興・創生交付金は来るのが、消滅都市支援金や過疎化指定補助金と、政府の財源も豊富に湧き出るはずも無く、今後の財源確保は厳しくなっていく。

【 未分類 | CO:0 | TB:× | 11:43 】

2016
04/15

日本でまた大震災発生


夜中0時半に目が覚め、薄ぼんやり時計を見ると「3時」と思い、いつもの行動でテレビを付けた。画面の光景にいったい何が起こったのかと、目が釘付けとなった。
九州の熊本市益城町で、震度7の大地震が発生した。直下型の活断層で地下10Kで「M6.5」の地震だった。その後の余震はこれまで30回発生し、一番大きいもので震度6強と、東日本の「M9.0」とは違うが、内陸直下型で「中越地震」に酷似していると言う。現場の風景は瓦屋根の家が崩れ、余震で更に崩れる姿が映し出され、近くでは火災が発生し人が焼死した。
真夜中14日午後9時26分の大地震は住民の恐怖を増幅し、続く余震のたびに悲鳴が響いた。町の役場前の広場に100名の避難民が集まり、12度の露天で地震が収まるまでの、不安な気持ちが伝わってくる。15日5時45分現在4人の死亡と、益城町の役場に8人の心肺停止の人が居るとも報道された。ある病院は地震で倒壊の恐れがあると、近くの高校に移すと言う報道も聞く。被災地では900人の食糧確保に混乱を続けている。
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東日本大震災も発生から5年が経つが、現在も復興再建までは後5年掛かる。震災の再建は5年を目安として仮設住宅があり、阪神大震災も7年でだいたいの再建を済ませている。
何時まで被災地として全国の支援があるのか、震災観光も何時まで続くのか、等、町の復興の計画は、予測の甘さを感じる。基本として5年で概ねの町づくりの再建がなるような計画で進めないと、次の国内の大きな震災が発生する可能性を考えれば、早期! 早期の一時的な再建終了を目指し、時間の要する再建計画を諦める事も必要だと思う。
これまで全国から来てくれたボランティアは、今発生した被災地に動き、被災地への観光も熊本市へと動くだろう。国からの交付金とてこれまで通り交付なるかは疑問だ。川内原発も震度4で異常は無かったが、地震大国の日本は今後も発生する地震・津波への対策をしていかないと、日本の国内経済が破綻しかねない。国民に贅沢を諦めてもらう事も、新たな町づくりの形かもしれない。

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2016
04/14

捨てる神があれば  拾ってくれる神あり


昨日は本浜地区の父の友達が92歳で亡くなった。共に詩吟をして地区でも話し合いのできる友達だったと言う。私の同級生の母でもあり、長野から駆けつけた。涙の止まらない見送りの姿が今も目に浮かぶ。葬儀には親戚以外で60名が集まった。町の商工会長のお母さんの死に、震災後これまでに人が参列してくれた告別式はないだろう。佐々木さん・石田さん・鈴木さん・吉田君・山内さん・佐々木さん・鈴木君など、しばらくぶりに会えた方がいた。こうして多くの方々に送られて逝去される人もいるが、人知れず亡くなられる方が、大震災の町「南三陸町」には沢山いる。震災で体調を崩し亡くなられた方がいて、まだ苦しむ方々が多いのも実情です。

多くの人が町から離れ、仕事が減っている中で経営を続けている。お得意先が半減しても、事業がなっている事に感謝です。4月20日の長野飯島町の「御柱祭」の柱を子供達と一緒に引いた時の縄の切れ端が写真で、御利益があると思い記念に持ち帰った。何でもないけど「捨てられない」気持ちに今ある。何時までも持ち続けようと心に決めた。
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12日の菩提寺「大雄寺」の大般若の時に、商店街側から旭が丘を廻り向かった。その時に志津川の西地区西工区の前を通った。だいたい土地造成も住み、災害公営の集合住宅の建設中だった。ここにも小さな集落ができる。以前の市街地からは離れているものの、時期に移り住む住民も慣れてくる事と思う。
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朝、不思議な夢を見た。一昨日届いた「京たけのこ」を昨日料理して食べたところ、切株の端まで柔くて食べる事ができた。土の中で育つように生産・集荷した物で、この辺の物と「たけのこ」は違っていた。夢は毎年、筍堀に行く先輩の竹林での事だった。突然バンビが飛び出て来た。後ろには夫婦の鹿が居て、木にマーキングをしていた。部外者の侵入に親鹿が向かってきた。戦いは山から川まで追いかけられ、防御してもビクともしなかった。鹿が覆い被さったところで目覚めた。地元の恵みを軽んじた報いか、町の鹿駆除の活動の怒りか、近年増えている町への鹿の出没への記憶が、こんな夢となり脳裏に現われた。
最近亡くなった家族の夢を良く見る。60歳を迎え還暦は終末期に来ているのだろうか。13年前に亡くなった叔母の法名碑を刻む事ができ、古川の石屋さんに料金を贈った。母が私のベツトに入ってきたり、叔母たちが私に合いに来てくれた。今日は父と共に母の介護施設に支払いに行く。

昨日に私の同級生の姉が「還暦の写真集が欲しい」と言う、弟の同級生が船の漁が終わり陸(おか)に居ると言う。体も本調子でなく写真を見せたいと話す。私たちの会はCDに写真集を焼きつけ配布した。配布されたCDをコピーし渡そうと思っている。同級生も喜ぶと思うがCDを見られるかが心配だ。
今日もいつもの一日を過ごす。拾われてる自分に、拾ってくれる皆さんに感謝だ。

【 未分類 | CO:0 | TB:× | 07:01 】

2016
04/13

志津川地区の災害公営完成まじか 季節の便りが届く


南三陸町の「総合ケアセンター」は、高齢者・福祉対策部署として高齢化の進む町の、高齢者の環境整備に総ての対応できる拠点として注目を集めている。包括支援センターの発行する「輝き通信」は、その活動が認められ全国表彰を受けた。生活不活発病への高齢者対策や、独居老人・介護家庭などの支援は元より、病気予防や認知症対策など、日本の社会問題の根幹部分の地方からの取り組みを続けている。今年から気仙沼市でも高齢者対策を一括して行う「包括支援センター」の設置をするとの記事を読んだ。
南三陸町の高齢化は15年が32.0%で、40年後に町の対策が最大限に発揮されても47.4%と言う。予測通り町の対策の結果が出ていない、被災地の厳しい状況となっている今、高齢化の加速を懸念せずにはいられない。
介護サービスの需要拡大は、介護保険料の増加となり、12年まで3400円の65歳以上の基準額が、15~17年は6000円になった。2か月に一回の国民年金から、一か月ごとに6000円の支給からの天引きは、高齢者世帯の生活不安を拡大している。
そんな中で「元気な高齢者が担い手に」と、昨日の河北新報にある。町の復興計画や対策の失敗が、若者が町を去り3世代家族が町外に移転など、今更ながらその対策を講じる事ができなかったのかと私は思っている。
町の介護施設で地区の高齢者が施設の清掃や、ベットメイキングなどを支援している。何か「ほのほの」とした活動ながら政治の力の無さに、自分の将来を悲観せずにはいられない。自分の事は自分で、負担の拡大も自分でする。出来ないなら在宅介護で何とかしたい。
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昨日は東大阪で印刷業をしている知人が、「京たけのこ」を贈ってくれた。高級品で今が旬の地上に目を出す前の「たけのこ」だと言う。震災後の交流はこうした地元の産品との交換となっている。南三陸からは何を贈ろうかと考える。
また、地元の方が「社長に食べてもらいたい!」と、獲りたての「メカブ」を持って来てくれた。「にんにくを絡めて食べると酒がすすみますよ」と、料理のレシピまで教えてくれた。従業員さんにも分けて下さいと話す。メカブにはたけのこをお裾分けした。

朝に筍を煮て、何の料理をしたらよいか考えながらブログを打っている。

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2016
04/12

あと何年いきれるだろう

10年・15年……で住宅ローンを済ませ、低地部への55年間暮らしていた家の上に、「生きて来た証」の構造部を建てるが、私のこれからの使命と思っている。しかし、この考えが自分を追い込む事は目に見えている。建てても今後どうなるかは判らなく、自分だけの生きて来た満足の達成だけなのかも知れない。過去のルーツを大切にしたいが、その根底にあり、それを継ぐ人は誰もいない。

今日はスポ少の結団式があり、戸倉剣道から志津川剣道に戻るまで、10年以上にもなるが代表として、剣道の伝統を守ろうと参加して来た。子ども達への指導活動は20年以上にもなった、もう蔭で支える立場でいいと思っている。
今年から志中の剣道親の会に変わってもらった。何時までも年寄りが関わっても、新しく志津川剣道は後世に繋がらない。生徒数も減少している中で、今年の新入部員の確保が大切だろう。

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生活習慣病の治療と予防に真剣にあたらないと大変な事になる。朝にベットからトイレに行くのに「立ち上がる事」で足が痛い。血行障害が厳しく体調に現れ、この2か月は脹脛のかゆみが酷く、かき過ぎてキズになってしまった。これも糖尿病の為に血の巡りが悪くなったせいだろう。

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日曜に小さな家庭菜園の雑草取りをした。しゃがんで草取りも足が直ぐにしびれ、腰が痛く10分もすると立てない。こんなおじいちゃんになった。65歳からは老人の仲間入りで「高齢者」となる。
自民党の高齢者に「3万円の補助金」が始まる。申請により受給できるが、高齢者全てが何もしなくても貰える訳でなく、申請書の提出は高齢者にとって面倒な事で、できない国民も多い事と思う。政府の政策は「飴と鞭」のように私は何時も思っている。
話しはそれたが1時間半の父との農作業は、これまでにない親子のスキンシップと、静かな冷静な会話の機会となった。今度はこの畑に何を植えようかと考えている。

今日は忙しい一日となる。百田や北島・松山・白井など、スポーツ選手の問題や活躍を、自分なりの考えを言いたい。「まったく!」と「スゴイ」「感動」が入り混じる、ここ一週間のスポーツ界だった。

【 未分類 | CO:0 | TB:× | 07:08 】

2016
04/11

志津川地区7津波避難場所「東山公園」


志津川本浜地区の住民が中心に東山に海上安全などの祈願の場所として、「西宮神社」を建立した。
周辺の地域の皆さんの憩いの場として、志津川市街地が一望できる場に、地区民が集まる場でもある。公園には遊具も設置され、桜の名所として現在は5分咲きとなり、日曜の昨日も子供を連れた親子が、公園までの坂を登って訪れていた。
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眼下の新井田川の架け替えと言う、かつてない大規模工事が南三陸町志津川で進められている。東山までの道路も「う回路」として、工事現場をぐるりと廻り、公園に行けるようになっていた。
2011.3.11から5年目を迎え、震災後に毎年ここに来て、市街地の変化をカメラに収めている。瓦礫の市街地が撤去整備され、残土の嵩上げがされただけで、市街地再建は未だに進んでいない。29.3月末には土地換地で土地は提供されるものの、まだ先のようで、土地が使えるようになっても再建する町民は、再建への思いは複雑でどうするか今も考え悩んでいる。
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桜が満開の東山の登り口は震災で削られたものの、山の桜は以前と咲き誇り何一つ変わらなく、市街地だけが人の営みが無い「無人の町」となった。
志津川地区の皆さんには、是非、毎年故郷の町の変化を見る為にも、ここを訪れて欲しいと私は思っている。私のブログを見ている人の中には、東山の桜を懐かしむ人達も多いと思っている。どう? 自然は変わってないでしょう。人工で造る町はいったい誰の為なのか、町民全体にその恩恵で潤う事はあるのだろうか。人造の「防災の町」は自然の力には立ち向う事などできはしない。

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2016
04/10

自分たちの町は行政・議会の決定でなく自分達で造ろう

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震災後に南三陸町を離れ、多くの町民が移転した地区が「登米市加賀野地区」であり、昨日に地域の公園を見て来た。竣工記念碑が「加賀野土地区画整備組合」により建てられ、学校が公園の脇にあり、住宅街が二重三重に取り巻き、登米市の街の住宅街を形成していた。整備組合で地域の在り方を考え、住民と子ども達が安全に安心に暮らせる地区を創り上げていた。清らかな水か大きな石を浮かせ維持する、写真中央の「モニュメント」があり、物理学の不思議を子供たちの学校に隣に隣接整備していた。
我が町の街づくりとは大分違う。専門家まかせの政治主導の町の再建が進んでいる。多くの協機会は会議はいくら考えても形ばかりのもので、何が新しい町づくりに組み込まれたかは判らない。6割が被災し仮設での住民生活で、町民の意見を町づくりには、意識とは環境的には無理だろう。
他の地区から学ぶ事が隣の市にある。隈研吾氏への町復興の期待があり、アミタのバイオマス事業への町の支援は、三陸材とカキ養殖の「国際認証取得」の資格を得た。こうした活動の町の活性化は労働者の確保へ繋がるかと言うと、多くの雇用を生む事は難しい。五輪が2020年にあり、隈氏は競技場の玄関部に「南三陸産材」活用したいと、先週の来町で町長と町の関連事業主との懇談が持たれ語ったと言う。
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高校の入学時で「皆さんへの期待は大きい」と、来賓者が祝辞で話した。校長は3つの「お願い」として、1.伝統を更に発展させて欲しい。2.日々精進しい欲しい。3.一致協力し地域に根差した活動を。と入学生に話した。これは新しい町づくりに皆さんの力が必要と言っているようだった。
登校坂の桜のアーチもまだ4分咲きながら、入学生への町民の期待は大きい。今日は高校の登校坂の命名の記念碑を撮影に行く。

昨日は建設25年にもなる倉庫の屋根が、劣化し錆が進んでいた事で、町の志津川塗装店への依頼をし、25年間の屋根のアカを清掃した。先代の社長は古くから我が社との繋がりがあり、2代目の息子さんに今回の工事をお願いした。こうした昔からの人との繋がりの仕事先が、震災で被災し廃業した方々が、我が社の昔ながらの人たちに多い。関係する工事や仕事を互いに助けある、町で生きぬいて来た人以外には依頼したくない。だから近隣にという購買意識が働く。「互いに助け合う」「強い正義感で生きる」など、こんな人間が町にはいなくなった。強い物が独裁的な政治は、国を低下させ破たんの道を歩む。町の各分野で長をする人材が無く、同じ人間が兼務する体制が我が町を劣化させている。
新しい人材育成への願いが町民にある事を、町づくりの先頭を歩く人間達は解っていない気がする。

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2016
04/09

復興の進め方は住民への支援を手厚く


志津川袖浜地区の荒澤神社の前の高く残土が積まれていたが、現在は取り除かれ、防潮堤の基礎部分の工事に入っているようだ。
神社の春季大祭も連休開催と言い、桜も今日あたりが満開と、当地方も温かくなってきた。
河北新報に折り込まれる、「月刊南三陸ニュース」があり、父と知人が記事の内容を見て、政策に対しおかしいと町に詳細を聞きたいと電話した。自社に配達される新聞には載らない記事なので紹介したい。

(4業者を採択)
南三陸町は補助金を利用し水産加工施設などを建てる事業者を募集、審査の結果4社を採択した。事業は水産業協同利用施設復興整備事業として全体事業費27億円程度、一社当たりの事業費9億円を上限としている。(採択業者)行場商店・伊藤・マルセン食品・マルアラ及川商店

こんな記事だった。

行場商店は漁港に工場があり、商工団地に冷凍庫も所有している。銀鮭・秋鮭などのコンピューターによる、魚の切り身製造は画期的な業者として、テレビでも取り上げられている。マルセン食品は低地部のショッピングモールの整備団体の会長の会社で、まだ工場の整備は出来ていない。伊藤は十日町にあり現在も市場の仮設工場で仕事を続けている。マルアラ及川商店は、歌津の業者で観光協会の会長の職に就いている。ただ一社志津川以外の会社で、工場整備をここでする。

私は今回の補助を、県全体の水産事業の整備発展のためと政策と思っている。父の知人が騒ぐ事は無いと話した。議会で採択されたもので、町民よりも大手の地元業者を、震災から再建させる事は、町の政策として国や県の思惑を活用しての事業だと思う。

昨日は町を人を昔から知っている方と、これからの町の在り方について話す事ができ、有意義な時間を過ごす事ができた。将来的に町は・・・。

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2016
04/08

気仙沼市の復興の姿から学習


気仙沼市の水産加工団地の写真で、かさ上げ2mで工場の再建の姿を目にする。災害公営は5m位の嵩上げで、津波対策を配した構築物により、迅速に生活の復活ができる形で市は再建を図っていた。
気仙沼市の観光拠点は「海の市」だと思うが、平日ながら昼12時近くなのに来客が居ない。水産業の町でそれに次ぐ観光ながら、復興・復興が進んでいるのに来客がないと言った感じた。
4月の1・5・7日と気仙沼市の「海の市」の二階のコミニティースペースに行き、県の補助事業の書類提出を、訂正の指導もあり、昨日何とか受け取ってもらった。報告書は「郵送でも可」と言う事で、気仙沼の会場を訪れる人は少ないと話す。
昨日はそれ以外では「最悪」の日となった。天気も大荒れで得意さんに行き国道に出ようとすると、車内が曇って窓を開け、バックミラーで後方を確認しようとしたら、水たまりの雨水が跳ね上がり、総てが窓から車の室内に入った。こんな悲劇の偶然もあるが、命に支障もなくどおって事は無い。また休憩に歯が取れた。先月に一か月通い入歯の修理が終わったと思ったのに! 悪い事も良い事も日々あるが、ひと時を一喜一憂する生活もまた楽しい。
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バトミントンの21歳と26歳の二選手の賭博事件は、多くの関係者を悲しませていた。社会常識を解らず成長し、父と共に五輪を目指し、夢が叶おうとしている時に、興味本位と賞金の獲得で目の前の、してはいけない事の判断がどこかで欠如していた。周囲が行動の異変から直ぐにやめる事ができたなら、五輪の出場は出来ただろうに、自分が一番いけないのは当然なから、周囲の常々の交流から話から回避できたはずだ。世界のトップに位置する選手は、練習漬けもありテレビの違法バカラは、暴力団資金活動として入店者にも大きな罪となる事を、二十歳も過ぎて知らなかったのだろう。「若気の至り」は余りにも厳しい結果をもたらした。
乙武さんの不倫も「おごり」でしかない。自民党の参院候補者として二重の大失態とならなくて良かった。悪い事は自然と何処かで発覚する。新しく変わった「民進党」の政調会長の女性議員、東大卒業・弁護士となり検事に、2期目の国会議員で、「日本落ちた」のメールで、安倍総理を正した場面で有名になり、民進党は彼女を大抜擢した。「プリカ」2万円を1日に5枚購入し、4か月前後で400万円のガソリン購入は、地球を数周回るとメディアが騒ぎ立てた。日本の政治家が「政治調査費」の乱用が報道で溢れる。宮城県議長も不明な使い道に宮城のオンブズマンが指摘した。一度から2度とその不明な部分が指摘されている。「収支報告書」は政治家の寄付金や、不正な支出を掴む為にも、選挙管理委員会の厳正な診査をお願いしたい。
民進党の不明瞭な政治資金の流れに、秘書のモラルや誰でも分かりやすい違法支出がある。
まだまだ日本の問題が浮き彫りに成りつつある。
「アヘノミクス」も世界の大きな流れを掴めないままに、終末期に来ている。我が町の復興計画も綻びとならなければ良いが、その姿と悪いのは誰かが解明される時が、必ず来ると私は信じている。

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2016
04/07

生活格差拡大へ


昨日は予定とおり父の定期検査で石巻日赤へ、私の眼科も父の循環器も互いの主治医の紹介状により日赤の診察をうけている。私が運転をしているものの、他の人は親戚縁者の運転と言う力を借りて病院まで来る。この日も南三陸町から診察に来ている人を見かけた。息子さんに送られて来たと話す。
高齢化が20年後には45%まで進み、運転の足も無く地元の医師の少ない公立病院での診察を余儀なくされる。現在もまだ多くの時間を診察に要している。家族がいる生活環境は互いに協力しあえるが、高齢者二人の家族や独居の老人は、病院に通うのにさえ経費が余計掛かる。人口減少と子供達が町を離れる事での、残された両親の生活は震災から復興となっても大変だ。

病院の待ち時間を使って、これまで溜めていた新聞記事を一気に読んだ。鮭の回帰率は2~3%で、それが一時期海で育て放流すると、回帰率が7%の倍になると言う。1200万匹の放流が南三陸町の目標なから、震災後は他の地区からの稚魚を分けてもらっても、500万匹前後の推移と言う。今年も4割に留まる水揚げで、放流数の4%でも、500万匹だと20万匹の鮭が故郷の海川に帰ってくる。地元の定置網漁業者は大小含め40在ると言う。漁業者は水揚げ高により10%を、県と淡水組合に納めている。業者の川への回帰の為に網上げの要望に、他の場所からの移入や回帰対策や研究をしていないと言い、その協力は得られていないと言う。定置網組合長の同級生の渡辺組合長は、今期3日間の網揚げを決定したが、拘束力はなく個々の判断によるものだった。「取る漁業から育てる漁業」へと、水産業の実態も変化し、双方の協力なくしてサケ漁の早期復活はない。
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昨夜は100円ショップ「ダイソー」の飯野川店に行った。クリアファイルやメモ帳・飴などを、15個1500円と消費税を払い、写真のいっぱい必要な物を買い求めた。
震災直後に聞いた話で、スーパー出店にはドラックストアと100均ショップを隣接すると言っていた。しかし現在、人口減少の中で「費用対効果」を考え、大手の店が採算を考え出店するかと言うと、17年夏の開店で隣接するかは分かっていない。
こんな所にも町民間の車がない家庭との、生活格差が拡大して行く。被災地の生活必需品も、一部の地区に量販店はあるものの、多くあるコンビニでは商品は絶対的に高い。

復旧から復興・創生となっても、被災地「南三陸町」の住民は家庭環境により、生活格差は拡大し解消されない。

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2016
04/06

創生期新たなスタート


一昨日はご法事だったが、世間は本当の月初め「仕事始め」と言った感じだった。職場での移動もあり役場内も新鮮な気持ちがした。農協の移動では剣道の教え子も「移動になりました」と丁寧に連絡をくれた。震災前は仕事と関係のある行政・教員・組合の、異動情報にアンテナを張り顔出しをしていた。しかし、今は流れるままに営業と言えない、仕事の依頼・見積の提出で担当と顔を合わせ、「今年度もよろしくお願いします。」と頭を下げるだけだ。4日に団体の集まりらしきものが店あった。移動の顔合わせ会だろう、商店の活性化の為にもお金を町に落して欲しいものだ。
写真は先月に長野に行った折の、ホテル「陣屋」のフロントの吊るし雛の下で女の子が、座敷童のように椅子に座っていた。「可愛い!」、こんな孫が居ても不思議ない年齢になった。家庭と子供が町づくりに必要ながら、子ども達の姿を見るのはまれな町になってしまった。

「不倫」が文化と言った人がいた。今は女性の心を裂く言葉となり、政治面での国民の政党への風当たりは強い。多くのモテモテ政治家も多く、今の流れは政治家の政治への取り組みが国民から注視されている。
不倫により、ベッキーの本心が露呈となった「ライン」があり、芸能界から消滅した。宮崎議員は自民のイメージを根底から崩し、京都府の補選に候補を両立しないとの事態になった。その分に北海道の補選への傾注の姿がテレビで報道されていた。米々の石井など、次々と不倫が報道された。世の中の男女みながしているかのような感じに映るが、その中で「真剣に結婚したい男女」も多い。
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月曜日に町のホテルには大胆で豪華な「生け花」が、玄関奥に展示されていた。「被災地に元気を!」と華道家が生けたと新聞に載っていた。被災地支援の場として、現在はホテルが発信源と我が町はなっている。

今日は父親のペースメーカーの調整で、石巻の日赤に行く。10時からで9時には出掛け、できれば午後1時まで診察し家に帰りたい。町の病院は今も10時から午後3時まで診察が掛かる。それは医師がいないからと病院も言う。今年、宮城県に医大が開設され100名の生徒が入学し、医師不足の中で改善になるかはまだ分からない。6年後ごろに病院に派遣されるのだろうが、我が町の医師不足の解消はまだまだ先のようだ。

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2016
04/05

南三陸町志津川細浦地区


写真のこの光景は震災後何一つ大きく変わっていない。津波による瓦礫は撤去され、海岸線の破壊された水揚げ場の整備は終わったが、町の小さな漁村は今後どうなるかは、町のみえる化の復興の形にはない。
ご法事は叔母の嫁ぎ先「徳性寺」の27世先住の27回忌と、寺族の33回忌で、叔母の義理の両親にあたる。私は先の住職の静けさの中にその気高さを感じていた。そして優しさに溢れた言葉を頂いた。奥様は来客者への「もてなし」の心の深い方だった。
法事には本吉15教区の方丈様と、親戚の方丈様、そして宮城県宗務所の方丈様が25名集まってのご法事だった。集まったのは寺の役員さんと、親戚兄弟と子供達で大半が御坊様たちだ。普通のご法事ではない、この数の導師と方丈様のお寺の法事は、独特な雰囲気の中で淡々と進んで行った。1時間余りの儀式は短く感じた。
写真の光景は震災後を思うと、本堂は津波で倒壊し庫裡は二階まで津波が押し寄せ、遠くの親戚・兄弟で後片付けをした事が思い起こされる。墓石は小高い坂にあったので流出を真逃れる事ができた。多くの檀家も被災し今後のお墓の維持がどうなって行くのが心配だ。
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こないだの日曜日に横山の仮設を訪れた折に、ホテル観洋の前を通ると「ボウリング」の塔があり、温泉の新たな発掘をしていた。「南三陸温泉」は塩泉で湯量は少なく温度は低いと言う。南三陸海岸に温泉地があるのは、ここだけと思い、その価値は大きく、目玉としてホテルに客を呼べるものと感じる。

多くの支援客やボランティアの数は減ったが、南三陸町のホテル観洋には今も被災地を訪れる人が多い、民宿が半分以下となり、入谷地区にビジネスホテルがあるものの、宿泊は料金が高いが「朝日が見える露天風呂」が最大の魅力としてある。昨日も海仕事の合間に、ホテルの大浴場の入浴サービス日にホテルに来ます。との話は地元にいる事でホテルの恩恵があった。
「アワビ踊り食い」が御膳にでた。供養の席でお膳の鍋は「バン!」と音を発てた。生きながらにして焼かれるアワビの最後の力だった。自然の力をこんな事でも感じるようになった。
今日は気仙沼に行く。最終書類の提出になればと思う。書類の不備がなく県の審査に通り、初めて補助金の給付となる。何も行動を起こさなければ、こうした恩恵にあずかる事は出来ない。国からの補助金は加盟する組合が代行する事も多いが、震災後は自分一人で申請書類提出をしてきた。これで補助金の申請も終わる。あとは60歳から自力で借金の返済に、一歩ずつ努力をして行きたい。

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2016
04/04

祈りと弱い人たちの味方


昨日は仮設で暮らす知人宅を訪れた。今が旬の「かまあげ」を持って行くと、「嬉しい」と暮らし慣れた町の懐かしい味を、被災地から離れ5年目を迎えた仮設で話す。家族三人支え合い80歳を過ぎた体を引きずり、災害公営への入所を待つ。「もう少し頑張って」「近くだからすぐに行ける」と、私の生活と比べれば今の生活の大変さばかりを感じる。
昨日は諏訪大社の御柱祭りの「木落し」がテレビで映し出され、御柱の先に乗った人の勇気を占うと言う。氏子4千人が地区の誇り胸に競い合う。飯島の祭りとは一味違うがどちらも伝統のある、神に奉納する歴史の習慣を地区民が守っている。

親戚筋が住宅再建の道筋を決定し、仲間の事業再生の事務所建設に協力していた。他の親戚は義母の体調異変の入院があり、帰りに今年の初物だからと野菜を持ってきてくれた。私は雪も今年は無いと「タイヤ交換」を友人に頼んだ。長野への1600Kの走行で、車検から半年が過ぎ「オイル減ってたよ」と、オイル交換とエレメントも取り替えた。8年目を迎える愛車もキズだらけで、16万キロも乗っているが後5年位は車に利用したい。

夕方テレビを見ていたら、天皇陛下の御家族が映っていた。陛下は仁武天皇の100年に一度の「式年祭」の祈りを拝見した。大震災の追悼式典での亡くなられた方々への祈りは、私たちの胸を打つ。それに引き替え儀式だけの形の物も多く見受けられる。姿と気持ちが一体となる拝礼と、国民の悲しさに寄り添う事の大切さが、国の象徴たるお姿に、日本国に生まれて良かったと再確認させられる。
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テレビに「中島みゆき」がいた。弱い人達の見方と歌手たちが言う。「失恋への頑張れ」「働く人たちへの応援歌」「自分へのエール」など、その歌の良さに浸った。彼女の活動は「歌演?」と言う。歌謡ショーでもなくミュージカルでもない。言葉を繋ぎ語る、その発する声と綴られた内容に、多くのファンが魅了され「見たい」と言う気にさせるが、地方人には観る事が難しい。「地上の星」の大ヒットと、「ファイト」「英子」など、元気をくれる歌が多いと言う。
日曜討論の自民党の副総裁と、民進党の党首の議論の中で、「言発言を取り消せ」「言ってからしかたない」とのやり取りは、今の社会保障の生活の中で苦しむ国民には、どう映ってみえるのだろう。共産党とおおさか維新の代表の冷静な発言に「真意」を見た。共産党は再度の躍進をしそうだ。「山本太郎と仲間達」と「日本のこころ」の代表の言葉にも感じる物があった。激しいやり取りも面白いが、冷静な政策議論も論議にも引き込まれる。18歳の投票権による参議院選挙は、常々政治への関心を持つ事が必要だ。選挙前の目先の発言は「眉唾もの」も多い。政治家の言葉のマジックに騙される事無く、自分たちの将来を委ねる政権を分析し投票して欲しい。私も20代は無投票派で40歳を過ぎた頃から選挙に行ってた気がする。
選挙の争点は皆違い。私は消費税と社会保障の税収の使い方だ。我が家を見ても介護を受ける家庭への手厚い国の補助を知り、政府の財源を心配する。税収の拡大無に消費税の上乗せは必要不可欠ながら、政治の無駄を省く事にも取り組んで欲しい。自分たちは老々世帯で終わるが、これからの若い世代が安心して暮らせる社会を造る政策をして欲しい。

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2016
04/03

諏訪大社御柱祭


昨夜のニュースで長野県の諏訪大社の「御柱祭」を伝えていた。2千人の氏子が御柱を引く姿に、飯島町の御柱山出しを思い出す。御射神社は諏訪大社から分社され、同様の御柱の奉納を6年に一度開催する。2日は飯島町の里曳なから、本社の諏訪大社の祭りは、それを遥かに大きくしたもののようだった。諏訪市と原村の名前が出てきた。そう言えば私の知人も「原村に行きます」との話しをしていた。昨日の諏訪大社の祭りへの参加だったのだろう。CIMG6964.jpg
飯島町の「道の駅」にも寄って来た。飯島町の農産品が主体で、花々の品数が多かった。道の駅は地元の産品を来町者に販売・紹介を目的としている。是非、南三陸町にも海山の産品で町の活性化を図って欲しい。飯島は南アルプスの残雪を背に、その立地も素晴らしい姿を呈していた。道の駅の前には御柱が設置され、飯島町の守り神と言った感じだった。
長野県諏訪市は震災前からお世話になった田中医院の、父と同級生の田中完一先生の奥様「澄子」さんから、思いで話しを良く聞いた。故郷と言い諏訪湖をバックに記念写真を毎年撮った事などを聞いた、その奥さんの故郷を初めて見た。中央道から撮影した風景ながら、諏訪市と諏訪湖はそんな良き志津川の時代の思い出で、澄子さんとの会話が記憶に何時までも残っている。

長野県に行ったら一泊二日は、その土地の良さを感じるのは短かすぎる。60歳を迎えようとしている今も、時間に追われる自分がいる。何時になったら時間から解き放たれるのか。

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2016
04/02

助成金の審査は厳しく


長野県諏訪地方の御柱祭が今日から連休まで続くとラジオが伝えている。飯島町の御柱祭の「里曳」が今日開催される。また、あの感動の町民と祭りが一体になる姿を見たい。6年に一回の祭りに地区民の熱気が伝わってくる。先頭を歩く竹澤秀幸さん頑張れ! 
昨日は4月1日で新しい年度が始まった。昨年度まで国県の補助金の年度締めにあたり、28年度に支給の最終書類審査の移動受付が、気仙沼市「海の市」のコミニティースペースであった。気仙沼ハローワークで被保険者台帳を取得し、その後で県事務所気仙沼支所の税務所で「納税完納証明書」を発行してもらい、会場に行く。県の事務所には「宮崎から来ました」と、派遣職員の方らしき人が、ちょうど事務所に来た。年度初めの光景ながら、全国の復興支援の元で、日本国民全員でこの時代の大苦境を乗り越えたい。
5年目の3.11のテレビの録画を昨夜見た。福島の原発災害は本当に悲惨その物だった。「東電の補助金なんかいらない、昔の暮らしに戻して」との言葉に、原発災害の恐ろしさを再確認させられた。
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春休みの終末金曜日なので、きっと気仙沼の観光拠点「海の市」は大勢の観光客がいると思っていた。一階の商店街に人は誰もいなかった。本当に市民と観光客は戻ってくるのだろうか。この現実に驚かされ、南三陸町のショッピングモール「道の駅」でも、商店再建で経営の安定が達成できるのだろうか。
昨日は三重県沖で「震度4」の地震が発生した。南海トラフ地震の想定される場所での震源地で、周辺の自治体に緊張が走った。総ての自然災害には「前兆」がある。気持ちを新たに大震災の備えにして欲しい。こうした前兆を軽んじた事で多くの被災地で尊い人命が失われた。石巻市の死者が約4000人だった。「愛の福袋」の支援団体の山下代表の活動報告にあった、4千人死亡と石巻の現状を録画で改めて知った。
「備えあれば憂いなし」のことわざどおり、地震が来たら「逃げる!」を、何回も続けて欲しい。命があれば希望に向かい生きられ、幸せを感じられる。震災の前兆を自分の気で感じ取って欲しい。自治体の報道・勧告だけに頼らない、「自助行動」を実践して下さい。


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2016
04/01

歌津田の浦地区


世界的な建築家「ザハ・ハリド」が心筋梗塞で亡くなった。65歳のまだ若い英知な頭脳をもった人間がこの世を去った。東京五輪の最初の設計をし、日本の招致委員会の混乱に巻き込まれ、多くの苦悩を抱えていた死かも知れない。
江戸や子猫さんが進行性の胃がんで急逝した。少し痩せてきが特別な痛みはなく多忙の中で生活していた。診察で判ったのが「レベル4」の胃ガンだった。発見後1か月余りで、彼も又66歳の若い死だった。
私は現在少し太り気味ながら、5月24日の60歳の節目の年の前にあり、時々、身体の変調を感じている。糖尿病からの事もあるが、年齢によるこれまでの体への負担が所々異変を起こしている。これを私は「天命」と呼び、それに今後はならう事とした。

町の総合計画が政府の査定で不採用となっていた。全国からの地方創生の交付金を求め、2744事業が提出され、1926事業の906億円が交付決定となっていた中での事だった。
また、町の人口が昨年10月の国勢調査では、1万2375人となり、22年ごろから5年で5054人(29%)が減少した。町では現在の人口を13700人と言うが、本当の数字をここで初めて知った。この現状の打開に死にもの狂いで行政と町民が当たらないといけない。その対策に交流人口拡大を国も自治体も声を高くして語る。
これまで志津川には多くの人達が住んでいたが、私のしる知人の多くは子供達に囲まれ、町に三世代が暮らし、「孫振る舞い」「入学」などの行事を家族・親戚と近隣の住民で祝っていたが、今は、子ども達は生活できる近隣市に移り、孫は時々故郷を訪れるだけとなった。祖父母は静に志津川で暮らし亡くなって行く。こんな生活の繰り替えされる、寂しい町になっている。
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今日の写真は歌津地区の「田の浦団地」です。海岸線の地域は全てが流失し、「いろは坂」のように急な坂を上った所に高台造成された。40軒前後の移転の7割が、引き渡しから1年足らずで住宅再建が終わっていた。この場所は住んでいた所は変わらず、今後も農地の圃場整備で残る。住んでいた記憶はその場所に立つと蘇ってくるだろう。志津川の市街地はどうだろう。10mの土の下になり、その生活の跡を感じる事はできなくなった。市街地の何処に「あの静かな漁村の風景」を思い起こさせる場所があるだろうか。是非、そんな事を考慮に入れ町の再建をして欲しかった。子ども達にここで貴方達が住んでいて、「こんな事があったんだよ」と親が語り継ぐ事も無くなった。だから、簡単に町を去る事ができた。
今日は気仙沼の県事務所に書類を出しに行く。これまでは仙台の県の委託会社に簡易郵送だったが、被災地の再建支援の為に、早期の事務処理と、その膨大に申請書の受付に、気仙沼に移動受付事務所を今日から設置する。8日までなから提出で安心したい。この資金はこれまでに自己資金から会社に出したもの、また「右から左」へと運営資金に流れる。

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