ARCHIVE - 2016年03月

2016
03/31

自責の念を想いながら


28日に4月から防災庁舎跡地には行けなくなり、最後に手を合わせた。後は2年後に「復興祈念公園」が整備されてからとなる。
朝のNHKのニュースで南三陸町の志津川病院で、大津波で患者や同僚を亡くした菅野医師が映っていた。現在は東北大学で診察をしているが、6年目の勤務だった志津川病院の事を「医師の原点」と言う。多くの人を助けられなかった事に、あれから「ずっと」自責の念にかられていると話す。いま何をいないといけないかと言う事を想い、全国で仕事の合間に公演会をしていて、被災時の医療体制をどうすべきかを伝えていた。自分の震災直後に生まれた子供は五歳になり、元気にすくすくと成長をしていると言う。その幸せの下に大震災の体験がある。

佐藤仁氏の告発に対する事を、「定例記者会見」で「私は何の指示もしていない」と言い、「亡くなった職員も行動を誇りと思っている」との趣旨の話しをしていた。町のトップとして幹部職員の対策本部への集合は、震災時の町の規約に則ったものながら、若い職員や対象で無い職員と、地域の住民の避難があり、町長としての立場で「地震は経験しない大きさ」「予想される津波の威力」などを考えれば、「ここは危険だから一番安心な高台へ逃げなさい」と指示をするのが当然の行動だろう。記者会見の話に「ボロ」が出てしまったようだ。東松島市の市長が「次の世代に町づくりを託したい」と、勇退を震災5年目に発表した。佐藤氏もしっかり殉職家族と話し合いの時間を持ち、勇退し亡くなった同僚職員の慰霊の活動をすべき時が来た。震災の自治体トップの行動として何が必要かを、これから発生する「東南海トラフ地震の津波」への、警鐘活動を全国を回りすべきではないか。これで貴方の株は全国的に誇れる「南三陸町の町長」となれる。このままでは汚点を残した町再建となる。良い時期に次世代に後を繋いでください。

安倍総理の集団的自衛権の施行が始まった。国連の軍や人民を守る為の「駆けつけ警護」で、銃の発砲ができる。「死んだり殺したり」、日本人として新たな戦争の悲しさの復活がある。平和憲法の維持こそ日本人の誇りなのに、どこかおかしくなった日本の与党政治思考となった。
外国客の誘致(インバウンド)が、外貨獲得の日本の発展は観光だ。と言わんばかりの政治主導がまかり通る。豊かになっても、もっと儲けようとの、裕福が故の行動で格差の拡大がある。震災での「人と人とが助け合う」との事を学んだのに、また、人の欲が先行する日本社会へまっしぐらだ。外国客の今年の数は1900万人となり、「観光立国」の日本の政策は、2020年は東京五輪もあり予想の倍の4千万人に、2030年には6千万人の観光客集客を目指すと言う。これまでの観光客の受け入れの政策での結果と、中国の発展があって事で、中国を中心とする韓国・台湾・インドなどの観光客拡大があるが、周辺諸国も今後どうなるかは、経済の不安定も予測され思い通りにはいかない。
安倍総理は「消費税は予定どおりに来年上げる」「衆参同時選挙は無い」と、今年度の予算国会通過の記者会見で話している。「おごり」と「たかぶり」としか私には取れない。政治には信念が必要で、国民の為に、町民の為に活動するが本分だ。

27年度も今日で終わる。今日は静に過ごしたいものだ。

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2016
03/30

私の60歳と震災5年目の節目の時に


昨日は登米市の看板店の「アサヒ広芸」の職人3人で、我が社の看板を設置した。商工団地の会社前の通りには街路灯が無く、冬は夕方4時過ぎには暗くなり、水産加工場へ向かう中国からの労働者は5時には出社する時、真っ暗の中を人と車が通行する。少しは歩く人の助けになる。人や物への反応防犯灯もあるが、これからは夕方6時から朝6時まで、看板の明かりが道路を照らす。我が社の「がんばろう〔絆〕南三陸町」の、絆・ハートのピンクが目立つ。気にいっているロゴマークです。戸倉の仮工場の営業から名刺にも印刷し、被災地「南三陸町の再建を皆で頑張ろう」との気持ちを込め制作した。震災5年目の月に間に合い設置ができた。
60歳節目の年の身辺整理に、35年前に亡くなったみつゑばあちゃんと、10年前に亡くなったいそ子おばの、法名碑の刻みの段取りを菩提寺「大雄寺」さんにお願いし、近々に完成する。父は仕事に追われ、できなかったと言う。私は3代目で先代のやり残しを片付けるのは当然ながら、震災後のギリギリの生活では大変を理解して欲しい。
昨日は仙台の会議で三陸道を往復した。途中のインターの「春日」で電話の対応をし、まっすぐに津山インターで下り、南三陸商工団地まで「1時間」は、三陸道の二車線化の賜物だろう。会社にはまだ看板設置がされていなかった。仙台へ10時に出て1時間の会議ながら、午後2時半には帰って来た。高速の力は活動の拡大へと繋がって行く。
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「南三陸ワカメ」の生産が追い込みを迎えている。ボランティア不足ながら、各々の生産者が大震災で有名になった「南三陸ワカメ」の加工に大わらわだ。全国からの注文があり、新鮮で柔らかなワカメを食卓に届けようと、生産者が頑張っている。私も大阪に200個、長野へ100個と少ないが、何県かの要望に応え発送し、知人の水産会社へ依頼し発信している。
私も今年はワカメを何人かにいただき、収穫前の低気圧被害で4割が減少した中での事だ。「味噌汁」「和え物」「メカブ」「煮物」など、食べる機会が多くなったが、料理を学習し食べている。もっと地元の人も食べて、南三陸産ワカメを発信して欲しい。岩手の佐々木さんのフェイスブックでのワカメ生産者のグループがあり、私も入ってしまった。佐々木さんは「北三陸産」のワカメ・コンブを発信している。その生産者と消費者との繋がりを密にし、生産と購買の繋がりの大切さが、「太い絆」となり将来への希望を生んでいた。生産者も品質にこだわり、消費者も末永く周囲の人たちにその良さを伝える。こんな循環で水産業の発展にもなる気がする。「食べられる事への感謝と、食べてもらえる事への感謝!」で、共に生活が成り立って行く。人と人とが結び合い、笑顔溢れる日本でいて欲しい。

気仙沼市の三陸新報社の制作した「見聞思考」を昨日貰った。気仙沼市と南三陸町の震災時と現在の復興の姿を写真で綴り、その説明も書かれてある。「語り部のガイドブックでもある」と言う。見やすいコンパクトな冊子で紹介している。定価300円ながら一目で南三陸の被災時と現在が解る。

今日は「南三陸マイタウン情報」を仕上げたい。井上わこさんの「盲導犬活動」と、「愛の福袋」の被災地での交流と、音楽の夕べがあり、蒲鉾本舗高政の高橋さんの「女川町再建活動報告」を掲載した。南三陸町の変化も気仙沼市の復興現状と見比べ知って頂きたい。新聞折り込みは第二日曜の「10日」を予定している。
諸々な活動が私の生きる力となっている。

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2016
03/29

生活弱者・仮設生活者の支援、食事・買い物で被災地支援


富山・広島・福岡・沖縄の女性の会「愛の福袋」の3回目の、仮設生活者支援に随行した。
9時前には民宿を出発し、今回で2回目の「のぞみ作業所」へ行く。20分の訪問までの時間で、東地区西工区の災害公営と自己再建の地域を視察に行く。皆さんも「何時に全ての住民の再建はなるのですか?」と、仮設生活者の生活の場確保を心配する。9時30分少し前に、沖縄の「チンスコウ」などのお菓子と共に、通所生への「愛の福袋」を届ける。作業所には生徒たちの笑顔が溢れた。訪問の7名の方々が寄り添い話しをする。制作する葉書・名刺やタオルなどの、のぞみブランドの商品を各々が買い求めていた。
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次に今月いっぱいで行けなくなる「防災庁舎」の焼香に向かう。団体は週末にバスで今も訪れ、昨日は少人数の観光客が来ていた。防災庁舎前での記念写真は当然の事となりつつあり、「南三陸町へ行ってきました!」の報告としての行動は欠かせないようだ。
この後で志津川高校仮設に向かい、高校からの被災地の今と、津波発生時の町が津波で覆われる写真と共に車上から説明をした。以前のモアイ像の被災で残った頭部が学校にあると、見に行ったが「終業式」なのかモアイまでは行けなかった。皆さんの話に「モアイ像は私の所にもありますよ。」とメンバーの一人が話し、「私の近くにも。」と、チリのモアイ像が全国にある事を知った。ここから「旧福祉の里」での高齢者と職員の死の状況を伝え、津波から命からがら助かった人の話しもした。そして、津波発生時に私がいた所(旭ヶ丘突端)から、津波の猛威が八幡川をさかのぼり、眼下の市街地(現在の商店街)の津波襲来の光景を思い起こしながら話すと、その悲惨な姿に涙ぐむ方もいた。
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南三陸町での最大の楽しみの一つに「キラキラ丼」があった。以前に訪れ食べた海鮮丼が忘れられないと、「寿司の弁慶」さんに向かう。この日は平日だったせいかお昼時なのに8人が直ぐに入れた。豪華海鮮丼を案内の御礼に私もご馳走になった。私の先輩の店でもあるが、震災後に初めて「キラキラ丼」を食べたが、さすがに寿司ネタの海鮮材料で、美味しく頂いた。さんさん商店街は今年限りで無くなり、先輩に聞くと道の駅(ショッピングモール)に移転し商売を続けると言う。私も薦めたい店の一つだ。南三陸町に来たら思い出造りの為にも、是非に南三陸町の名物をご賞味頂きたい。
買い物は月曜日で商店街の店が数店定休日となっていた。みなさんは南三陸のワカメは美味しいと、爆買いが見られた。泊まった民宿からも買い求めると言う。5月までワカメの収穫が海であるものの、終盤に近づき少しずつ固くなっていく。今は大きくなる「メカブ」の収穫が本番となっている。私は及善さんの笹かまと、雄新堂さんのクルミ入り黒パンを買い求めた。笹かまは今日の仙台の会議の、父と親交のある事務員さんに、蒸しホヤと塩蔵ワカメと共にお土産にする。
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最後に志津川中学校仮設に行く。現在72世帯があると自治会長は言う。支援の活動は所在する地区の企業やお店からの、義援の物資を袋に詰めた「愛の福袋活動」です。7人が3組に別れ福袋を届ける。自治会長は住民の居ない仮設も多いと言う。「居られない場合は、玄関に物資を置きます」と言い、その中には支援する方からの「手紙」が入っている。私の同行は今回で3回目となり、最初の福袋の手紙を今も部屋に貼っている。物資もありがたいが手紙は心に通じ嬉しいものである。この日、私も沖縄の会員さんから「手作りお菓子」と広島の「もみじ饅頭」を頂いた。

南三陸町への心温まる「愛の福袋」、ありがとうございます。町になり変わり御礼を申し上げます。帰りは午後2時になり、この日の仕事とはなりませんでした。
今日は仙台での会議と、看板屋さんが設置に来る。

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2016
03/28

志津川西地区東工区


志津川高校の裏山の「志津川西地区」の高台に初めて入った。通行止めの工事のバリケートが無く、午後に造成地に入る。旭が丘団地の左側の坂から西地区の白い足場が見え、そこを登っていくと他の地区とは違い狭いながら、住宅建設が始まっていた、基礎も含めれば総ての住宅の工事が始まっていた。西の東の奥では沢山の人が集まり、建前上棟式の為か賑やかな風景が、多くの車も駐車し屋根の板張りの最終仕上げに入っていた。終の棲家の再建は「土地さえあれば!」、こんなにも早く建設工事は進む。そこには工事を進めのた場所の選択が、行政と委託された「UR都市機構」のミスがある。この場所は選択時から土地の調査で「硬岩」があると、広い造成を変更し西地区西工区が造られる事となったと、当時の判断がある。
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西の東は半分が造成が終わり、土地引き渡しと住宅が建設されているものの、半分は岩がゴロゴロと土地整備は進まなく、今後の工事の進め方も厳しい気が、見るからに判断できる。中央区の東側の土地も大山が今もあり、西側の下部が整備引き渡される今年度末がある。高台移転の選択が住民の民意を取り入れての場所と思うが、早期の町づくりと住民の流出を防ぐには、町の工事計画の決定に、何処かに甘さがあった。志津川地区のバランスを取った都市を造ると、このような配置になるのだうが、町と住民の以前の暮らしを守る計画としては、正解かも知れないが、復旧復興の力を大部分のの再建の為の工事と時間に費やすべきだった。
また、行政のよこしまな考えで「想定を誤った!」と私は思う。町内の高齢者が住宅の再建を待たず、更なる「永眠」と「新しい町」を見ずに、亡くなって行く。津波の驚異と苦しみは今後も続く。
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気仙沼の階上中の卒業式で送辞をした生徒の言葉がある。「天が与えた試練としては重過ぎる」と、仲間の死と生活の全てを奪った天災を振り返った。「天を憎まず運命に絶え、助け合って行く。」と言葉を結んだ。天災なら防ぐのは難しいが、人が決定する事は普段の生活で培っているもので、その判断の過ちは普段の生活と生き方に宿る。津波防災への考えを真剣に取り組まなかった「ツケ」が、人命と言う大きな代償を払う結果を生んだ。町の減少を「自然減」だけと言い切る町の判断での対策もあてにはならない。

また一週間が始まる。今日は広島の来訪者の支援と、明日は仙台での理事会があり、組合の「60周年」の準備の会議に臨む。

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2016
03/27

佐藤仁町長業務上過失致死で再告発


大川小学校が震災遺構として保存する事となった。ここで亡くなった多くの子供たちの家族の「解体」の気持ちは届かなかった。命の尊さと震災の苦しみ悲しみを知る家族の思いは何処にいったのか。関係者以外の「震災の教訓に」との、当事者以外の人々の意向を重視した結果は、人道的に間違いないのかと思う。究極の家族の思いは「見たくない!」から、「この町に住みたくない」との選択へと繋がる事が心配だ。

殉職遺族の9人が再度の告発を25日に県警南三陸署に提出した。以前は6人の家族が告発するも、仙台地検は15年8月に不起訴処分とした。今回は防災庁舎での殉職家族以外の3人も加わり9人で「業務上過失致死容疑」で、南三陸町長佐藤仁氏を告発した。
防災庁舎で亡くなった方は43人で、その内の33人が死亡・不明として報じられている。その中には町長の共同経営の「旧南三陸新聞」の編集員(実質の運営者)も亡くなっている。こんな大地震の発生で、災害対策本部に報道陣は一社だけで、他の報道機関は避難している。こんな事にも津波への危機感の無さがあった。また、本部に集まるのは課長など幹部職員がマニアルにあるが、16坪にも満たない場所に24人の幹部の集合が必要だったのか? その他にも総務課・危機管理課の若い職員が、殉職した職員にはある。こんな現状を加味しても、町長の津波に対する「職員の命を守る義務欠如」があった。震災直後は県警も町長の過失や義務違反について捜査をしていたが、証拠や立証が出来ないままに捜査が立ちきれとなった。
しかし、自分の過失を認める事は町長職の失脚となり、そればかりでなく震災復興の計画でも多くの問題が浮上する。それを正当化する為にも罪を認める訳にはいかない。告訴を受理したら最高裁まで裁判を続ける事は分かりきっている。政治家の引き際が肝心である。
現在の町の復興の経緯を見て欲しい。町づくりと称した税収確保の政策と、公的施設の原形復旧と、義援金・補助金確保の町の再建方法、見る限り住民再建への支援は、こんな大震災の中で本気度が薄い。気仙沼の菅原市長と比べても、目立つ事が大好きな首長の姿を常に見て思う。
今期限りでも退任と後継者育成で、新しい町の再建への取り組みを若い世代の、次期町長に任せた方が良い。だが、今の任から退く事は「告発受理」への警察の方向が見える。国内ならず世界で有名となり、震災不幸の先頭に立つ人間の県警告発は、そのトップの大きな決断と勇気が必要だ。こないだ震災死の裁判で「自治体に責任あり」と、賠償が幾度かの裁判で裁判官のこれまでの自然災害の、予測できない事への責任を認めた。「自然災害だから。」だけでは逃げられない遺族の思いが、警察や裁判所でもう一度審議の必要性の表れが見えてきた。

写真は水尻川の護岸工事で、葬儀の参列後で撮影した。原形復旧の基本的復旧工事だが、そんなにも大工事が必要だろうか。民主党の「コンクリートから人へ」の行き過ぎた政策もあったが、自民党に代わり大分の停止された工事が復活した。建設会社の疲弊が加速した中で、再度、大震災の復旧は建設会社の復活があるが、再建の形は人の住まない場所までも、津波の人的被害とならない場所までも、生活環境整備が異常なまでに拡大し進んでいる。「人への救済」で過疎化も鈍化される気がする。
河北新報の29面に載った記事、まだまだ先は長いようだ。

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2016
03/26

あの時と今


ここ2日間は震災の日と、生活環境が変わった志津川を、写真とあの時を振り返りました。今日の写真は「さんさん商店街」の場所の、3.11当時の姿です。

県の福祉事務所の3階建ての建物が残り、その裏には志津川消防署があり、その間に漁船が建物に覆い被さっていたのを思い出す。消防署員・消防団員も沢山、津波の犠牲となり、現在の仮の消防署の駐車場に「慰霊碑」が静かに、殉職した家族が建立されたと聞く。旭が丘団地の二つの道路に津波が押し上げられた、多くの家々が坂道に押し流され折り重なっていた。署員も津波の威力で団地に避難し、その後の町民の救出活動が夜を徹しておこなわれた事を思い出す。
写真の場所には多くの商店・住宅の建物あったが、県の福祉事務所の鉄筋コンクリートの建物だけが、「ホツリ」と残るだけで、あとは更地のようになった。津波の威力の巨大さを伝える教訓に、この写真を使っていきたい。
この日の寒さの中で多くの町民が息を引き取った。防災庁舎だけが究極の場所と言い続ける事は、町の津波防災のマニアルの政策失敗を露呈する事となる。多くの町民が「震度4・3分」の体感した事の無い震災で、町の7割が津波で被災しても、その6割の人が高台に逃げている。役場職員もこの状況での避難行動は当然で、誰も非難する人は無い。非難すべきは町の防災マニアルと留まる事を指示した、対策本部長にある。
昨日の報道で再度の遺族の責任者追及の行動が報じられた。自分のミスを補うかのような、町再生に取り組む行動は、自分の避難行動の失政を誤魔化すように見える。
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私の糖尿病の「網膜剥離」を、自分の責任と強く先輩に叱責された。私の今の生活には「サングラス」は欠かせなく、落して壊れたサングラスの修理に登米市鹿賀野の「三浦眼科」に昨夕行って来た。鹿賀野に同級生も移住し、近くに住むも家に寄る気にはなれない。みうら眼科から石巻日赤の紹介があり、以前の眼科への戻っても良いとの指示があった。少しは近くなったが「瞳孔を開く」ために一人での通院は厳しい。

昨日は親戚の一人が御礼に来た。志津川高校の一日入学があり、普通科への息子の入学ながら、「72人だった」と言うが、情報ビジネスを入れた一年全員かは定かではない。今年から普通科が1クラス減少となり、2クラスで1クラス「36人」は余りにも寂しい。私の平安な時代は1クラス「53人」だった事を思い出す。親戚の息子さんは登米市に移転した同級生と共に志高に通学する。祖父母の安堵感を目にする。
このままの志津川高校生の減少は、間違いなく統合へと舵をとらざるをえない。誰の責任化と言う大震災と人災と、私は思わずにはいられない。

ガンバロウ〔絆〕南三陸町!

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2016
03/25

町民の死は私の悲しみ

旭が丘2
ゴルフ仲間だった後輩が50歳前半で亡くなった。余命が半年の医師の診断が悔しいがあたってしまった。
昨日は偶然の巡り合わせだった。菩提寺の「大雄寺」さんに、祖母と叔母の法名碑を刻む石材屋さんをお願いに行った時、「町の高齢の方が仮設で亡くなっていますね。」との話の中で、「昨日に亡くなった方は若いですよ。」と聞き、話していくと知っていた後輩だった。パソコンに長けていて重要部分に地元の会社で携わっていた。
多くの人達と会うが、今は健康診断を欠かさずやった方が良いと助言する。私は主治医に採血による総ての身体の検査をしてもらっている。体の変化は「痛い」「苦しい」などおかしいと病院に行く、あとは自己判断ながら、まだ死ねない。
旭が丘1
現在、志津川地区の旭ヶ丘団地の隣に高台西地区が整備中だ。あの津波で家々が瓦礫となり坂道を埋めた。多くの町民がここでも亡くなられた。その場所は「高台横断道路」の場所に今後変わる。その坂にあった「桃の花」は道路を隠すまでに大きく成長し、花が咲き誇っていた。5年の月日の長さをこんな事でも感じる。この春の花々を彼に捧げたい。

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2016
03/24

あの世紀末のような町が復興へ

市街地2
昨夜は後輩と長野県での交流会を振り返った。場所は登米市の「三陸つぼ八」で、平日ながら若い男女のグループやゴルフ仲間が、楽しく居酒屋の料理を味わう。我が町のこんな時は何時になるのだろうか。
役場からの仕事入札があった。25日の3時までの見積で、納品は今月末で我が社にとっては難しいが、年度内に契約を済ませたいとの考えのようだ。震災前にこんなにも町からの仕事があっただろうか。町の行政サービス再建の為に、国の復興交付金が「湧く水の様」に使われている。これも「町の見える化?」なのだろう。町民の関心はと言うとないに等しい。これが何処に流れるか、解る人には判る。
何も言えない高齢者は、静かに町の成すままの、町の変化を見つめている。私もその一人になっていく。
市街地1
21日の振り替え休日に当時を思い返す為、23.3.11の場所に立つ。5年が過ぎてのこの変化を被災地の教訓としたい。防災庁舎だけではなく、今は「高野会館跡地」がクローズアップされている。まるでメディア合戦の様に、町とホテルが競い合っている。町は「高齢者芸能祭」の開催と、ホテルは「語り部フォーラム」と、町復興の相乗効果? ともなり得る。大震災で亡くなられた町民の事など、私は何処からも感じられない。

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2016
03/23

こんなに待てないよ高齢者(私)


志津川助作の(う回路?)新道路を通り、中学校の登校坂から旧福祉の丘を望むが、昔の農地と点在していた住宅は無く、総てが土の下に埋まり「生みの苦しみ」と言うが、復興事業と言う新たな時間の災害と思うのは私だけなのか。
志津川小学校の裏山から旭ヶ丘に抜ける「高台横断道路」は、工事の影が見えてきた。志津川地区の「東」「中央」「西」の三カ所の高台を結ぶ道路の計画が、関係する地区に説明された。
南町にあった佐長酒店さんは県の合庁跡地に移転する。震災後の4年前に店主は移転場所を、決定した場所に希望するも実現はしなかったが、今年中となった商店街営業「移転」と、駐車場の必要が無くなり、地域に店の移転の報告となさった。その他にも、398号の新設にあたり「高茂」「ファミマ」も現在の場所から、河川堤防・道路の整備で移転となる。御前下の「さんさん商店街跡地」は新しく自己での商店再生が進む事となる。
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連休に利用した「長者原SA」があるが、三陸道「小森IC」の開通延期となり、米谷と入谷の間に「スマートインター」が来月にできる。「ETC搭載車」だけが通行でき、上り下りへの通過が可能となるが、4月の中旬開通は米谷以南へ向かう高速道となる。便利なような不便のような、ETCの販売促進・普及の為の整備にも見える。これで登米市には、ここから登米ICに抜けると5分は時間短縮となり、40分前後で南方仮設まで行ける。

3月17日の三陸新報に南三陸町の将来の姿を見た。志津川高校の後期選抜試験の結果で、母校の「志高」の62人の募集に対し、普通科6名受験で6名合格、情報ビジネスは11名の受験で9名の合格となった。今日は最終の追加募集試験と聞く。止む無く高校の最後の受験に挑む生徒達がいる。私の縁類も中田から受験するが、通学を家族が心配する。町の巡回バスの「定期券」だと月4千円と言う。朝は南方仮設から6時30分発で、8時15分終点「平成の森」に着き、夕方は平成の森から19時26分出発で、南方仮設20時43分と厳しい環境での家族の戦いが始まる。バイク通学は2年生からできる。受験者頑張って母校を守って!
町の新庁舎の交流スペースの「アイデア募集」がある。病院は「みなさん通り」は建設時点で名称はあった。行政庁舎こそ人口減少の町の重大問題の中で、コンパクトな節約した庁舎で十分で、維持費の拡大を軽減する方向を模索して欲しい。空家対策費に「600万円」があり、その調査内容に疑問を持つ。
行政の進む道は「地域の人材・多数育成、交流人口に連携。」の見出しは、地元住民無視との考えが見えてきた。多くの町民が居て、その中で切磋琢磨した優秀な人材が、町の部署で活躍する事で町は発展する。
そんな中で歌津の小野寺氏と戸倉の後藤氏の活動が、活発にテレビで報道されている。町づくり・語り部交流があり、地域の産品発掘などの活動だ。その中で「鉄路の復旧」が両氏の供の活動があった。来年の9月に「町長選挙」を控え、その動きの一つと勘ぐりたくなる。二人の年齢は60代後半で若い40代前後の進出が町の再建には必要だが、誰も私の目には見えなく浮かばない。
また、大きなミスをした。健忘症・再確認の不備など、記憶力低下は認知症にまっしぐらに進行とているとも感じる。

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2016
03/22

長野県飯島町前高坂宗昭町長宅訪問

高坂前町長は被災地への訪問を、一昨年前に竹澤議員と「飯島町マジック倶楽部」の皆さんで、仮設生活者に笑顔を届けに、支援物資とマジックを携え来町した。一行は南三陸町の仮設庁舎を訪問し、佐藤町長が不在のため、前遠藤健治副町長と面談し義援金を手渡し、被災地の現状の説明を町長室で受けた。
マジッククラブとの交流があり、高坂前町長の南三陸町との交流が深まった、自宅への訪問は、少しながら南三陸の「ワカメ」と「ホタテ」を届けに伺っただけなのに、高坂前町長の熱烈な歓迎を私たちは受けました。
3月20日の原木の「山出し」の、第50回後射山神社式年御柱祭の「七久保地御柱祭」にあたり、多くの来客の中に仲間入りさせていただいた。この日は海と山の防災協定への締結の「鳥羽市」の木田市長さんが、高坂前町長の繋がりで個人的に来町されたと言う。
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高坂前町長さんのはからいで、祭の祝いの「鏡開き」の場に立ち合わせて頂いた。高坂さんの挨拶では「伊勢志摩サミットの多忙な中での飯島町の御柱祭の祝いに駆け付けて頂いた。また、今回の大震災で被害を受けた南三陸町からの三人方が、地元の6年に一度の「御柱祭」に来て下さった。」と説明してくれた。
三重県鳥羽市の木田市長さんは、挨拶の中で「南三陸町にも私の市からも職員を派遣している。今月いっぱいで地元に帰って来る。南三陸町長の佐藤仁町長さんとも震災復興の情報説明を受け、今後も厳しいでしょうが復興に尽力して頂きたい。」と大祭のお祝いの言葉を送った。同席した私たち三人の手を握り、「頑張って下さい!」と優しいお言葉も頂いた。
玄関には祭りの来客への御神酒と食事を準備して、目の前の道路で御柱を引く、子ども達や一般の地区民と町民の対応におおわらわとなっていた。最後に玄関前で、高坂前町長御夫婦と木田市長御夫婦、防災協定締結にお二人の間を取り持ったご夫妻、飯島町のマジックリラブの皆様、そして私たち三人も一緒に記念写真に納まった。
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玄関入口には、今年の御柱の元口部分が配置されていた。平成28年4月2日の本引きの為、27年11月28日に約75年生「モミの木」、胸高直径142㎝高さ14mを、七久保柱が高坂町長の任期満了前日伐採と記された、御柱の元口部分が飾られてあったる。この祈念する御柱に触れられた事に、被災地支援の一環として招待して頂いた、多くの皆さんに感謝いたします。人生一生の良い想い出となりました。

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2016
03/21

飯島町マジッククラブと私達との震災を通しての交流


南三陸町へのマジックによる「笑顔の支援交流」が、伝統の歴史の「御柱祭」と、素晴らしい大祭に出逢える事となった。また、飯島町マジック倶楽部会長の宮澤会長と会員の皆さんの、心温まる「おもてなしの心」に更なる感謝を申し上げたい。

19日の朝6時に南三陸町を出発し、南方仮設に入居の先輩の3人で宮城を離れ、一路、長野県飯島町に向かった。経路は長野県駒ケ根市の隣り町に位置する飯島町、駒ケ根ICまで8時間と言う今回までの飯島の皆さんの時間帯を想定し向かう。南方仮設を7時に出発し長者原スマートインターに向かい、モーニングコーヒーで飯島町までの打ち合わせの上で出発した。東北道を通り都内に入らず、関東をぐるりと回る「首都圏中央道路」のジャンクションの久喜を目指す。私の目の不安から後輩に運転を任せ、「安達太良SA」で休憩まで私が運転士し、以後は二人に任せた。圏央道をめざし二人の運転はナビに順じて行くと、埼玉川口の東北道の終点から首都高に入っていた。東京の高速は週末で大渋滞の中に入っていた。
目の前には大都会のビル群が立ち並び、なかなか進まない渋滞で、予定時間を大幅に経過し中央道に入った、勿論、「八王子」まで圏央道を通り中央道の想定外だった。渋滞は東名・中央道と都心から山梨県まで続いていた。「談合坂SA」まで到着午後3時半、福島から10時半出発から5時間の後輩の運転であり、初めての首都高の運転の経験だったと話す。「談合坂」から飯島まで3時間半、南三陸町から休憩時間を除くと約11時間だが、12時間半の片道時間だった。こんな長い距離を3度も長野県飯島町から南三陸町への支援を続けている。ジャガイモ・ネギはクラブの宮澤会長が自分で育て、100Kを8回も送り、またジャガイモを今年贈りますと言う。感謝でしかない。

宿泊は飯島町「本陣」で綺麗な真新しいホテルだった。入浴も無しに会員が女将さんのお店に行く。5名のメンバーが出迎えてくれ、南三陸町の三人と合わせ8名の交流会となった。
長野県飯島町の地元の食材を中心に、南三陸では味わえない料理が目の前に並んだ。信州は馬刺が熊本県と同じく名産で、癖の無い馬刺をいただいた。地元で町起こしの商品として「バロッケ」なる物は美味しく、馬肉入りコロッケは食べやすくヘルシーで牛豚とは違う。その他にも、鮎や山菜の天ぷら・芋の子煮物・蕎麦の実天ぷら・煮物など小鉢が並んだ。蕎麦は今までに食べたことのない歯ごたえで、このような蕎麦は他では出来ないと言う。麺つゆも上品で甘くない仕上げの物だった。宮澤会長の奥さんが「コウタケ」の天ぷらと、自分が育てた野沢菜漬けなど漬物を持ってきてくれた。
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宮澤会長がこれまでの南三陸町への支援の経過と、防災庁舎で最後まで避難を呼びかけた未希さんの事を話し、「未希の家」に宿泊した4番目ですと語る。また、南三陸町の海外勤務の「須藤さん」との交流を説明した。続いて南三陸町のキッカケを作ってくれた、飯島町の町議会の久保島さんが私のブログを知りメールで連絡をくれた。震災直後で行政の受け入れ体制も整わない中で、私への被災調査協力が依頼され、23年夏ごろに総務常任委員会と副議長を含む6人の交流会を、歌津の「泊崎荘」で開催した。また、竹澤議員が歌津出身のお嫁さんだった事も、南三陸町との繋がりの一つと話す。
食事の後はマジックを会長が披露した。一緒に行った兼田先輩も、被災者支援や障害者施設でのマジックを行いたいと、宮澤会長から直々の指導を受けるなど、参加してくれたか仲間との、新たなマジック交流も生まれた。
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9時半に交流も終わり、ホテル本陣の温泉を堪能した。私は直ぐに疲れから長野の地で夢の中へとおちいった。南アルプスを左に見て岡谷から中央道を下り、今度は右に中央アルプスと左にまた、南アルプスの残雪の景色に魅了され、飯島町の内陸の見たことない大地に浸った。

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2016
03/21

長野県飯島町「御柱祭」


6年に一度の長野県飯島町の「七久保御柱祭」に参加した。

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山から切り出した神に捧げる「御柱」、300年の歴史の中で50回を数え、奇祭と言われ幻想的な地区民の祈りの祭りだった。

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伝統を引き継ぎ脈々と続けられ、「子から子へ」、未来へ続く飯島町の祭りだった。

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こんな歴史に触れる旅、2日で「1500K」を終えた。南アルプスの麓で。疲れで字が良く見えない。

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2016
03/19

津波対策と大震災記録


咋朝、食事をしながらNHKを見ていると前総務課長の佐藤氏が出ていた。目の前で家と妻が津波で呑まれる姿を、防災庁舎の屋上から見ていた。震災後は町の再建に力を注ぎ、妻が夢に出てこなかったと言う。現在は姉と二人の暮らしの中で、妻の友人たちが家を訪れ妻の話しをしてくれる。姉はある夜、眠りながら「おんおんと泣く」、弟の姿を見たと言う。何時までもあの震災は人の心から消える事は無かった。佐藤氏は今、当時の事を記録に残そうとパソコンに向かっていた。

前佐藤総務課長の家も川から50M、海からは400mの場所にあった。昨日開催された県印刷組合本吉・気仙沼支部移動総会が、気仙沼の大谷海岸にある「海洋館」で開催された。ホテルは海岸から30mの場所で被災し再建され、営業を続けていた。屋上も設置し5階建ての建物は、津波対策を講じ鉄筋コンクリートで、結婚式場と宿泊施設を新しく整備していた。大谷海岸の再生を願う地区民の意向の中で、その整備は防潮堤の設置場所で、国と県を巻き込み今も議論が続いている。地元の大谷海岸で潤った大谷地区、この環境への思いは他の人達には解らない事も多い。地区民の中でも「環境」を取るか、安全を選択するかで意見も分かれている。
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海の見えるブライダル施設は、新しい設計で玄関のウエディングアーチからも、大谷海岸を一望できる、素晴らしいロケーションで、食事も和洋中を取り入れていた。昨日の会議でも地物のホタテや、メカブ・フカヒレ・かじきマグロなど、南三陸の海の恵みをふんだんに使ったコース料理を堪能した。
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会議は今年県組合の「60周年記念」にあたり、この節目の年に「東日本大震災」は欠かせないと、記念誌に被災地の印刷会社の再建の特別ページを設ける。会員の一人一人からの聞き取りとビデオ・写真の中で、この5年間を振り返り、5年目の今の状況を発表した。
最後に全国的に有名となった「南三陸町」がある。本吉郡は津山町が登米市に合併となり、本吉町と唐桑町が気仙沼市に統合され、現在は南三陸町だけとなる中で、「本吉・気仙沼支部」から「南三陸・気仙沼支部」への変更を本部に提案した。5月の総会で改名が議論され決定に向かう。

この後6時には長野県飯島町に向かう。中国地方のトンネル内の車の多重事故があり、クラックの運転手が過労運転で「業務上過失致死」で昨日逮捕された。自分が運転に最大の注意を図っても、もらい事故が多く何の運転ミスも無く、多くの国民が大切な命を落としている。とにかく安全運転で楽しい「支援の恩返し交流」をしてきたい。お土産は南三陸のワカメとホタテとした。一番のお土産は笑顔での再会である。

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2016
03/18

南三陸町の厳しさ益々


昨日は6時30分から体育協会の理事会議があった。子ども達の減少でスポーツ少年団の維持が成らないと会長は話す。現在、中学校でも気仙沼・本吉の学校同士での合同チームで総体・新人戦への出場を果たし、大好きなスポーツに取り組んでいる。南三陸町の子供たちの25%がスポーツに参加している。県では15%で県南でのある町は50%に達している。その理由に子ども達の送り迎えと、仮設生活と厳しい危険な交通事情がある。
高校の後期試験が実施され、志津川高校は62人の募集に対し、15人の合格と生徒確保に「二次試験」を実施する。響高校は88人に72人が合格し、気仙沼高校は168人に168人が合格した。子育て世帯の多くが町から、教育環境の良い生活しやする所へ移転があるからだ。早期の町の環境整備を「特区」として土地と生活の場確保の整備で少しは解決できたが、行政の町再生は財政の確保の為の早期産業再建の整備を選んだ。この事で町の将来を造る担い手「子供たち」を失った。高校生の通学の不安は震災直後からあったが、町は生徒の要望に耳を貸さなかった。今回も地元の高校に通いたいとの、子ども達の願いと声に応える気はないようだ。
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東地区西工区の災害公営集合住宅が7月の入居で進んでいる。昨日は入居者の喜びの声を聴いた。東工区(写真)はペット対応の集合住宅と言う事を知った。町づくり協議会の議論の中で、話はあったもののここが「ペットと一緒」などの取り決めは最終的には無かった気がする。多くの会議の決定も行政とUR(国)の主導・決定に準じて進んでいた。

気仙沼市に誕生した合同造船所で震災後初めて造った船は、防衛省のタンカーだった。小野寺代議士が以前「防衛大臣」だった事で、受注となったのだろう。

今年の桜の開花日は宮城県で「4月6日」を予測する。昨日は今年の今が旬の「新生ワカメ」を貰って、食べられるように作った。先ずはワカメの固い部分と、葉の悪い部分を取り除き、家の大なべて茹でた。8時に会議から帰り、「茎」と「葉」に分け、からし菜とワカメ・竹輪で和えお浸しにした。新鮮南三陸ワカメは格別な味だった。しかし、獲りたてのワカメをそのままにして置くと直ぐに悪くなる。忙しい夕方だった。

今日は「印刷組合本吉・気仙沼支部会」が気仙沼大谷の「海洋館」である。気仙沼市と南三陸町の中間で開催する。帰って昨日受注した仕事を夕方まで納品し、明日は朝6時前には長野県の飯島町に向かう。

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2016
03/17

最近また地震が多くなりました


昨日は南三陸病院に用事で出掛け、帰りにロータリーの一角にある台湾との「交流碑」の隣りの桜が咲いていた。県内はまだ蕾と聴いているが種類が違うのか、結構咲いているのに驚く。「みんなの春が来た」を聴く。ユーミンの歌で「はーるよ来い! はーやく来い」と、ヒットした歌「春・・」にバックでこの言葉を歌う、イイ感じの歌だった。
7時過ぎの先頃の地震は、石巻「震度1・M3.7」だった。家が「ミシッ」と言う。毎日のように地震があるが、巨大化ならないように揺れを分散している。佐藤仁氏が小野寺代議士との懇談で、町民が「夜中に地震があっても、高台での生活は津波は大丈夫なので、また眠る事ができる。」と話していた。私も同感である! 現在、津波で沈下した地盤が隆起していると言う。「地震があったら逃げる」はいつも意識に持っていて欲しい。震災の教訓を今後発生する「東南海トラフ地震・津波」に、震災で亡くなられた人たちの死を生かして行く事が、国と被災自治体の役目でもある。
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清水浜の細浦地区寄りの入り江にも津波は達した。同級生の家も全て流されたが、この部分は何の復旧の手も入らない。そんな中で2軒の漁師さんが作業場を造り、現在、ワカメの収穫の最盛期に大忙しでワカメの加工をしていた。長野県飯島町へのお土産には、南三陸町さんの「銀洋丸」さんの「長さんのワカメ」を持って行く。
28日に広島県や周辺の県の「WFWP(国連)NGO世界女性連合広島支部」の皆さんが、南三陸町の支援に来る。今回もワカメ作業のボランティアと福祉施設の視察があり、町内の仮設を訪問し話を聞く。色々考えると大変だろうと感謝したい。航空費・宿泊費・支援物資と多くの資金が掛かる。「いつまでも甘えられない。」と言うと、「家族に会いに来るんです。」と話す。被災地の支援は継続と言うが、町へのボランティアが減少するように、あの時の何も無くなった町を見ると、過去にない大災害は「風化防止」と言う中で、国民が一丸となった被災地支援だった。国民の高齢化や生活不安が、国の政治と深く関係があるようだ。

アメリカのノーベル賞受賞の政治学者は、「消費税を上げるべきではない」と安倍総理に話した。経済の停滞は今後も続くがその理由だ。高齢化社会は国の大問題で、政府の企業の発展は税収確保で、社会保障の財源確保に繋がるが、世界不安の中でその灯りは見えてこない。また、日本人が拉致をされた。20歳に成れない若者の事件も多発している。こんな日本に将来の不安は皆が感じる事だろう。老老介護の家族での自殺・火災や、親の年金の詐取など、生活苦がもたらす事件が多く目に付く。

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2016
03/16

日々「一生懸命!」

先週の9日に石巻日赤への眼科への3か月定期検査も、3度の検査で異常が見られないと、日赤の診療を終了し、登米市のみうら眼科への診察に移し、メガネの処方をする事とした。志津川の診療歯科での歯の治療も、14日に取れた型を新しい物と入れ替え、身体の状況を確保できた。石巻日赤眼科では東北大から一緒に来た主治医も、今年度でまた大学に戻る事になったので、近くて診療時間も短い登米市の眼科への変更を決めた。二年間お世話になった先生は「何かあったら、また、病院に来て下さい。」と優しい言葉が、医は仁術の意味にある。
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昨日は戸倉小学校に行った。広島の「愛の福袋」の被災地の住民に寄り添う支援活動で、大震災で多くの苦難を乗り越えた戸倉小学校への福袋支援と、山口の小学生の交流を取り持つ活動が去年だった。団体の一人の会員がお世話役として、今回は卒業生に井上わこ「盲導犬キャンペーン」のチョコレートを贈った。その南三陸町での受け皿に、袖浜の「明神崎荘」の奥さん佐々木さんが、その役目を果たす為に私も同行する事となった。山内校長先生は志津川小での教頭当時、息子さんの事をよく覚えていて、「こないだも会いましたよ!」と言っていた。子ども達の事を何時までも見守ってくれる先生と感じた。戸倉小学校は震災後に3度も学校が替わり、今度の卒業生は全壊した戸倉小学校から、震災後新しく新築された戸倉小学校で、4つの学校を点々として来た。当時一年生だった。こんな小学校生徒は多くの被災自治体の学校でもないだろう。今週の卒業式の家族の思いや労苦を測り知る事は私にはできない。
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広島市 南三陸町明神崎荘被災地支援活動
磯崎英明様

今回、盲目の艶歌歌手である井上わこさんの「盲導犬キャンペーン」の活動があり、これまで23頭の盲導犬を失明した方々に寄贈しています。
不慮の事故で明かりを失い、東日本大震災の数日後に亡くなった井上わこさんは、「被災地を元気づけたい!」と話していた。姉の意を継ぎ妹の赤崎帯子さんが、広島市の磯崎さんの南三陸町での戸倉小学校との交流を聞き、「盲導犬キャンペーン」のチョコレートを贈りたいと、南三陸町と交流関係の明神崎荘の佐々木珠美さん(広島出身)にその思いを託し、今回のチョコレートを戸倉小学校の卒業に合わせ寄贈をするものです。

南三陸町 明神崎荘
佐々木昌則さんへ

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2016
03/15

復興演歌 大城バ、ネサ 東北隊長

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「千葉さん来て下さい」と名刺をもらった。細浦の千葉さんで親戚ではないが正義感に溢れ、開拓精神の旺盛な方です。気仙沼市本吉町でのある交通事故の当事者に、罪の軽減活動で初めて出あった。家庭の置かれている環境と、事故の不遇もありその活動に奔走した。何の関係も無い方の救済に努力する姿に打たれ、協力をした事を今も思う。10年前にもなるだろうか。
そんな千葉さんは震災で大きな住宅も全壊し、自分で重機の免許を取り自己再建の道を選択していた。まだ自宅は完成していないと言う。長い間、北洋の船長として活躍し、北洋サケ・マス漁のロシアとの漁獲制限や削減の中で、未だに調査などで船長の役目を果たしている。名刺の裏には「ロシア語」があり、そんな先輩の笑顔と厳しさに人生の来し方を感じる。陸上でも南三陸町で「自然薯栽培」をして、町の名産品にと夫婦で頑張っている。
昨日の来て下さいは、復興艶歌として大城バネサさんのファンクラブ東北隊長をしている。バネサさんはアルゼンチン生まれの日系二世と言う。そして今日、気仙沼市の本吉にあるシュンポ園など二カ所の福祉施設で復興支援のコンサートを開催すると言う。
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千葉さんの活動の主体は「一般財団法人 国際クラブ」で、外国人留学生支援事業・外国人就学生支援事業・学校教育支援、助成事業・学校図書及び書架事業・発展途上国における教育施設、インフラ整備事業・芸術文化紹介事業・国際的な音楽コンサート事業・環境保護における研究、開発事業・外国人技能実習生受入事業をおこなっている。その他に「カンボジア大国における寄付事業」を続け、国王との密接な関係を持っている。理念には「国際間の友好交流促進と人材育成を願って」を掲げ、国際貢献に尽力している。そんな団体の応援を千葉さんはしている。震災後もBS番組にも出演し被災地「南三陸町」を発信してきた。
こうした方々との出会いで自分の世界も広がる。今日は広島の「井上わこ盲導犬キャンペーン」の活動の一環で、南三陸町内の一つの学校の生徒全員に、チョコレートをプレゼントする。詳しい内容はおいおい説明したい。
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町の「介護保険料一部負担金免除の終了」により、母の施設の料金が3万円増える事となった。格安入所料と思っていたが、こういう減免処置が被災した家庭に実施されていた。しかし、大変である。更なる家庭の持ち出しは厳しい現実が待っている。
色々な事が待ち構えていても、一生懸命! 皆さんと生きて行きたい。が私の願いですが・・・

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2016
03/14

過去にない大震災、復旧復興は私が亡くなった後かも


戸倉地区に会社の再開の仮営業所を、戸倉「荒町」に決め約3年間を過ごし、二年前の4月に現在の場所に移転した。今日の写真は通いなれた荒町の、BRTの戸倉バス停前の風景です。震災後と見るからには変わりないが、折立川の被災した水門は撤去され、向かいの川沿いは河川堤防の工事が本格的に始まっていた。
仮営業所と工場での経営は大変ながらも、仕事ができる喜びと、何も無くなった大震災から将来に経営を繋げる基礎を造った。これが無かったら今の生活は無い。多くの支援者との繋がりや、自分にとっての震災からの脱出と、失明の状況が発生した時に、震災後の行動が無かったら、生きる事への諦めと繋がったかも知れない。しかし、会社の継続と両親の介護の使命感に燃えここまできた。後どれくらい生きられるだろうか? 一日を精一杯これからも生きて行きたい。
昨日は焼香の「はしご」をした。旧本浜町の方が亡くなり大雄寺に行く。無くなった地域の方が少しながら参列していた。懐かしい出会いに近況を話した。喪主の御礼の挨拶で「母の店の出す事を叶えた」との話に、言葉が詰まった。私と同じ心境で両親のやりたい事を叶えたいが、子供達の気持ちにはあった。母も70歳頃からは一線から退き、日々を自分のしたいように「のんびり」と余生を過ごし、今もこの生活を継続している。施設で寝たきりの食事が楽しみの生活を、現在も続けている。
もう一軒は震災後生活した荒町の同級生の所だった。国道を通過すると良く歩道を歩いていた彼の父親を想い出し、突然の死だったと話す。私と同じ生活の中で、親子での暮らし方を聞けた。夜7~8時には自分部屋で早めの就寝だと言う。我が家は朝まで父の部屋を覗く事は無い。同級生は午前中に父の頭が痛いとの事で、病院で検査したが何もなく、帰って気遣いながら食事も食欲が無く、夫婦は部屋を幾度か見た時に異変に気付いたと言う。肌の温もりを感じながら蘇生をして救急搬送をした。何故こんな事をと聞くのだろう思うだろうが、私は死の狭間を焼香時に聞く。亡くなられた方の「証」の最後を知る事と、自分の家庭の対策のヒントを得ている。そんな事を考えても「脳梗塞」「心筋梗塞」の病状が発生した時、我が家は静に一人で逝く事を想定する。そんな事を日々考えながら、今を暮らしている。これまでも多くの知人が一人夜中に亡くなった事例に、余りにも寂しい現実を知っている。
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昨日も防災庁舎前の映像が映る。焼香台前には列を作り多くの人が参拝をしていた。佐藤仁氏はかさ上げの高台から当日の話しをしていた。防災庁舎の屋上で津波をやり過ごし、次の日の朝に庁舎屋上から志津川小学校に帰還した。津波後の屋上の夜の寒さは大変だったと話す。しかし、多くの町民が避難の備品もなく寒い夜を過ごした。命を繋げた避難者も電気も無い中で、寒さに震え何日も避難所で過ごしていた。何度も聞く佐藤氏の言葉に「ネクタイに火を付け10人で暖をとり、命を取り留めた。」と。貴方だけではなく町民個々が自分を守る事を震災時はしていた。幾度となく「美談」のように多くの職員が殉職し、その中で生き残った事をメディアと通し話す事は、町民の被災地で頑張る今の現状よりも、武勇伝のように佐藤仁氏を伝説としているようだ。その蔭で多くの高齢者が町と自分の再建途上の中で命を落としている。新しい町を見る事なく現世を去る事は、さぞかし無念であるだろう。子ども達も再建ないままで仮設での死に、悔しさを抱いている気がする。


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2016
03/13

花は、花は 震災でも 綺麗な花を咲かせる 多くの人の力で


NHKの「明日へ!」の歌の力を感じ、朝は「花は咲く」を聞き心地良い中で目覚める事ができた。町の復興の裏側ばかり考え、嫌なここ2日間の心持だった。

昨日も防災庁舎には夜7時を回っても、照明なのかライトアップがされ、ここでは43人が亡くなり、600名の死者と200名の不明者の南三陸町、静かに鎮魂の時間であっても良い気がする。キャスターは言う「この日が終われば波が引いたように報道の注目はこの町から去る」と!
防災庁舎の賑わいは、放送社4台、観光バス3台と報道陣と慰霊者でいっぱいだった。「うそー!」だ。
ウェークアップの辛坊氏も市街地整備の高台の、津波到達の高さ「16.5m」の場所から12日は南三陸町を伝えた。佐藤仁氏の防災庁舎でのネクタイを燃やす事で、低体温症を防ぎ、この時、町の「復興をする」と誓ったと言う。山内正文氏は、被災した店を廻っていた時に、取材で訪れた彼に偶然?会った。そこからの事業の再建に取り組み、順調な復興を成し遂げ以前の売り上げに戻ったと話す。
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鮭の孵化場の再建はなったものの、鮭の回帰の多くの川は今は再建の途上にあり、整備まで約2年が掛かり、故郷の川は大きく変わる。新しい町を造る為にしょうがない。しかし、再建しても鮭回帰には時間が掛かり、町を離れた町民も多く、人口減少の加速する町に、これだけの整備が必要かと、私は日々思っている。
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3・11日に「三浦から大根が届いた。」と言う。震災後に歌津出身の方が神奈川県三浦半島で農業をしていて、震災からまだ2・3日が経った頃、小泉進一郎代議士と一緒に、歌津「平成の森」に来た事を、自治会長から聞き、今もきっと写真が事務所にある。被災地を長く思ってくれる事が嬉しい。今はもう被災地支援の物資はもう少ない。だけど、それで良い。もう普通の生活に被災者も努力する時期にきている。
私も「また何かしないと!」と新たな取り組みを、自分なりに考えている。行政ができないでいる事を。

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2016
03/12

2011.3.11を私は忘れない


この日は意地でもあの人間と同じ場所には居たくなかった。
10時からの父の介護認定に立ち合いで南三陸病院へ、メディアが病院の「みなさん通り」に陣取っていた。総合窓口で「何処へ行けば」と聞くと、役場の介護担当が来て、「11時から」と言う。2週間前の連絡では10時だったと思ったが、私の耳が悪いのだろう。直ぐに帰り11時にまた病院へ行き、外科の桜田先生に呼ばれるのを待つ、父は「早くして」と私の仕事を気遣う。すると「先生は透析に」と言う。外科の先生も掛け持ちで診療に当たっていた。待合室にキリコがあった「旅の人心にひびくおもてなし」こんな言葉があった。気仙沼の40人の医師から比べ、我が町は7名?の医師で頑張っていた。気仙沼市立病院は医師の育成などの健全経営の取り組みを表明していた。
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家に12時過ぎに帰りテレビを見ると、見たことの無い風景が飛び込んできた。「テレ朝」のスーパーチャンネルのメイン司会者が映っていた。その場所は「高野会館」の屋上からで、写真の背後には小学校がこの角度で見えた。町の敬老会で4階に避難し16mもの津波が行き去るのを夜通し待った場所で、約400名の高齢町民が助かった。何処を見ても嵩上げ土しかない市街地が広がっていた。5年前と多くは変わっていない被災地に私は見える。初めて見る光景がここにあった。

今日の新聞に2時からの町の追悼式の記事に、親戚の「ゆうこ」が被災者代表の挨拶に立ったと言う。震災後に母が心配で仙台から実家に帰り5年が経つ。30歳になっていた。現在は町の緊急雇用で職員の一人で被災者の支援で働いている。亡くなった父も「がんばれ!」と天国から応援しているだろう。若者たちが志津川に残り町の創生に関わった欲しい気持ちでいっぱいだ。会場には1200人が集まったと言うが私は会場の光景を見る事避けている。また、知人の民宿にオーストラリアの将校さんが、ホテルよりも民泊を選んでいた。一方では「未希の家」が放送され、母が今何をすれば娘の死に報いる事かを話してくれた。
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この海から一気に津波は町を呑込んでいった。現在の10mの嵩上げの下には、あの大好きだった「志津川」が眠っている。新しく整備される志津川市街地を私は故郷と絶対認めない。何故かと言うと「何も町の跡(思い出の場所)がない!」からだ。私の心の中には、あの大震災で故郷は亡くなったと思っている。「敵と戦う!」そんな気持ちで今を生き抜いている。
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全国の皆さんに防災庁舎の今日の姿を紹介する。「何も無い!」今月で庁舎のこの場所へは入れなくなる。自分の町なのに行く事が自由にならない町の時間が長すぎる。昨日は16時に町中に向かうと商工団地前からの渋滞だった。抜け出せるまでに「7分」掛かったが、この5年を考えればたいした時間ではない。復興の今の志津川をゆっくりと眺めるのも又イイ。

【 未分類 | CO:0 | TB:× | 07:49 】

2016
03/11

津波の脅威を伝承

2011-04-24 13.54.11
仕事柄ながら震災後は「記録を取らないと」と、携帯で写真を撮り続けた。携帯からタプレットで撮影は「4月11日」から始まり、登米市のショップから買いもとめ、撮影とブログを始めた。多くの志津川・戸倉・歌津の震災写真を撮り続け、今見ても当時の何も無くなった町を思い出す。「忘れないように!」が私の行動と考えにあった。我が家の三階建ての一階の残った天井部から自宅、本浜地区の様子を撮影した。
2011-04-29 12.50.13
4月の桜の時期に「福祉の里」に行った。震災の日にデイサービスの予定の入谷地区の高齢住民が多く亡くなり、介護施設「慈恵園」で私の義理の叔母が亡くなり、施設で働いていた同級生も殉職した。高台の「旧志津川中学校」を包むように多くの住宅があり、その大部分が木造住宅で、津波の破壊力は想像を絶していた。人間は木の葉のごとく津波に巻かれ、物にひっかかり残った方は幸運だったかも知れない。津波の引き潮で海底の奥底まで大切な人を運んでしまった。一昨日には家族の願いで、荒島周辺の海底探索が、海上保安庁の潜水隊が捜索をした。何もみつからなかったが隊員は「家族の願いを叶える事で家族の安堵感が得られたら」と話す。人的被害の無い家族の思いとの温度差をは強く違い、その総ての悲しい家族の思いを知る事ができないが、震災直後に娘と孫を目の前で津波に呑まれた、お母さんの嘆きで知った。
2011-04-29 12.53.43
現在の農協本所から志津川市街地を望んだ。何も無い世界が広がっていた。この時、防災庁舎の意識は何処にもなく、不明の家族への思いが渦巻いていた。私は両親を高台の弟の家(旭ヶ丘)に避難させ、町の様子と救助活動を手伝った。本当に雪の舞う寒い夕方が始まり、その日の小春日和の日中から、天変地異の気象へと変わった瞬間だった。
次に母校「志津川高校」の高台に行く。多くの知人が体育館に居て、大丈夫だった事を互いに喜んだ。4月の中ごろには校庭に仮設の建設が始まっていた。遠くに私の地区と志津川湾の守り神の島「荒島」までが見える。その前の光景で線路は残ったものの、総ての木造は瓦礫と化し、鉄筋コンクリートの建物の骨組みだけが残った。正にここで生死の狭間の地獄のような状況が展開されていた。私は幸運にも家族と共に生き残った。
2011-04-29 13.15.15
旭が丘地区の突端から震災の夜から朝は、市街地の震災後の姿を見ていた。これが私の愛し続けた町の変わりようだ。

【 未分類 | CO:0 | TB:× | 07:37 】

2016
03/10

私の大好きな「魚市場」が遠い存在となった


「銀色の鱗がセメンの上で踊っている」。こんな光景が私の幼少時代に旧市場あり、一人で市場に魚を見たり触れたり、釣りに行った思い出を思い出す。今後の南三陸町志津川の市場は、衛生面での対策を施し、市場は見学できる環境を整える。こんな市場復旧の姿を町から報告を受けたが、子どもが一人で市場へ行ったり、志津川湾の魚に触れる事はできなる気がする。子ども達には油断すると危険な「海」「魚」「生き物」を体験して欲しい。
写真は昨日、大森地区の場所を車で通過した時に撮影した。ここには海岸線・市場の復旧工事の関係者や、漁民が買い物や食事のできる店が、今も「プレハブ店舗」で頑張っていた。大森屋さんはタバコや食料品・弁当・雑貨などを扱い、来店者に重宝されている。もう一軒は「焼肉大森」さんで、私より大先輩ながら病気を克服し、被災した南三陸町を訪れる方々を支援し交流を深めている。その発信力は同等の町の人達の域を超えている。日々のツイッターでの周辺や支援者との交流、移り変わる「海」「被災現場」の変化を、克明に全国に発信している。フェースブックでは、その発信に交流者のコメントに日々答えていた。是非訪問して欲しい。「遠藤清吾」さんで検索して友達になって町の現状を知って欲しい。今日も私の「いつ店すいてますか」の問いに、「午後1時過ぎれば大丈夫」と返事が返ってきた。
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今日は音楽大好きの自分には嬉しい報道があった。「ウタダ」「イエモン」の復活だった。30代の頃カラオケで「オートマジック」「ジャム」・・・などを、仲間達に新曲を紹介した。忙しい苦しい仕事の合間の息抜きができた。今はどうだろう、若者たちの交流の場が南三陸町には無く、何処で若者が日々の暮らしのストレスや発散をしているのだろうか。こんな場所も若者達が被災し復興途上の南三陸町には欲しいが、そんな場所を提供する人も場所も無い。高齢者だけの町になる要因をこんな所からも感じる。

昨日はあるデータを見つけた。大震災で多くの町民が亡くなった場所を、「志津川新井田」と「戸倉在郷」があり、震災前と24年の世帯人口のデータを見た。新井田地区は199世帯が150世帯と、546人が367人に減少した。「ここまでは津波は来ないだろう」との住民の予想により、約49世帯179人が減少した。1世帯の家族数を当てはめると「3.6人」が集落から消えた。在郷上地区は15世帯で87人が減少し、「6人」となるが三世代家族が多く、一早く世帯が移転したか、亡くなられた方も多かったと推測する。「まさか! ここまでは?」が、多くの湾の入り江に点在する集落の形があり、この地形も津波の威力が増幅ことに繋がった。

昨夜は「還暦同級会」のDVD写真の試写会をポータルセンターで開催した。その映像にみんなで大笑いの一夜だった。


【 未分類 | CO:0 | TB:× | 07:42 】

2016
03/09

こんな真実の町の賑わいは何時になるやら

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被災地のある高齢の方が吉永小百合さんに「これからどういう考えで生きていけばいいのですか?」、こんな質問をした。その答えは「今日の日々を精一杯生きればいい!」と、こんな話にこれからどうすればと考えていた自分の心が、一気に癒され楽になりました。借金の事・両親の事・仕事の事・自分の身体の事なと、身の周りの問題に時々悩む事あった。先輩が「一生懸命」との何気ない言葉があり、その意味と繋がっていた。

震災の「3・11」が近づいてくると、被災地で未だに苦しんでいる人たちの事がメディアで報じられる。家族の死から・母の思い出・子供の記憶がフラッシュバックのように、震災の3・11を迎える度に蘇る。母への優しさを思い、何も出来なかった自分に何ができるかと悩み、小高い丘に自宅を建てる事を決意し、母の部屋を仮設から新しい自宅への建設を決意した。700万の土地代と言うが、再建の経費は誰もが出せる価格では無かった。新築は平屋の構想ながら1500万円は掛かるだろう。40代となり一人の生活だった。
福島の自殺が他の被災地より群を抜き多いと言う。住む土地をなくし、家族がバラバラとなり、多くのストレスや不安から家族の絆が薄れていた。こんな理由も自殺の一つに上げられた。
今日は石巻日赤に眼科の定期検診に行く。現在は「花粉症」や「ドライアイ」などがあり、目がしょぼしょぼで今の状況が、今の自分の目の症状なのかがよく解らない。現在60歳以上となると半数が「白内障」と言われている。私も被災後に「飛蚊症」が出て、目の視野が狭まり、光が眩しいなど、白内障と網膜剥離となりその症状が、震災時の混乱で「インスリン」と糖尿薬の治療ができず、目の悪化に繋がった。震災で少しの怪我も化膿し笹原先生やAMDの大類先生の治療で、最悪の状況から脱出できた。震災により「透析治療」も叶わず亡くなられた方も多いと聞く。自分の身体と非常時の対策は自分がするしかない。私は町の再建と、自己の再建に奔走した3年間があり、病気はその中の後ろの方に回した。その結果、糖尿病からの増殖性網膜剥離の診断で手術を4度、両目の治療で入院したのが2年~3年目の頃だった。
生きていれば人生は何とかなるもので、周囲の人の救いの手がある。自分の人生を諦めては駄目ですね。諦めは悪い方向に自分を向かわせる。新たな恋と愛に向かって頑張ろうっと!
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今日の写真は震災前の旧志津川本浜町にあった「山内魚店」の、商店街のイベントの賑わいです。「タコから」があり「鮭のすり身から揚げ」があった気がする。町内の町民が多く集まり、町外からも志津川の海の幸を求めに多くの人が集まった。今は町民よりも観光客の来町を求めているが、町民が集まらないイベントにその意味があるのか、私は疑問視する。町の進める町の復興がこの方向だからしかたない。こないだ知人が「商店街の物が高いと町外の噂らしいよ!」と言う。私もそう感じるので、お客さんや支援者へのお土産は買うのは、他の町内の店から買う。
2枚目の写真は歌津の商店街で、プロスポーツ団体から300枚ものフラックが、応援と支援で贈られた。5年目を迎える大震災に多くのメディアが「歌津地区から放送します」と伝える。歌津地区の住民の「郷土愛」を私は強く感じているが、時代の流れは子供達の成長と共に、次世代の流れの更なる継続をお願いしたい。
巨人の衰退進む、球団の渡辺代表・オーナー・顧問の三役が、更なる賭博に関わった選手の発覚で、総辞任となり、高橋新監督の更なる苦難があり、新ジャイヤンツの船出となった。

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2016
03/08

震災後の住民の混乱の中に多くの人たちが来てくれた


震災の年に長野県飯島町から、私のブログを見つけた一人の議員さんの要望から、被災地南三陸町の状況案内と、7名の議員団との交流会を歌津の「泊崎荘」で開催した。その中の竹澤議員との交流が今もあり、「南三陸町の被災者の笑顔を!」と飯島町のマジック倶楽部が2度南三陸町を訪れ、平成の森と志津川中学校仮設、戸倉中学校仮設、南方仮設の4団地で、被災者との交流を深めた。2回の宿泊は歌津の「高倉荘」と「コクボ荘」を利用し、南三陸の海の幸を堪能してもらい、南三陸志津川の商店街でお土産や、キラキラ丼を紹介した。その中の宮澤さんは余生を飯島町で暮らし、自分の作った「ネギ」「ジャガイモ」を4年間に渡り8回、物資支援を続けている。町内の8割以上の仮設に物資を届けた。南三陸町との繋がりを大事に見守ってくれた。マジック倶楽部の代表でもある宮澤さんの話術で、会場に集まった方々の笑いの顔が今も目に浮かぶ。「感謝・ありがとう!」です。
そして今回、長野県飯島町の「七久保地区」の御柱祭りの、7年に一度の大祭にあたり、竹澤さんよりご招待を受け、今月の19・20日と私の友だちの2人と飯島町へ行く事となった。車で8時間は掛かると言い、私の目の不安を二人がカバーしてくれる。地元で頑張る友達に感謝です。

我が家を建設した名古屋の社長が急逝した。震災の翌年に町民に紹介されたと我が社に来た。「南三陸町の為に何かをしたい!」と言う。私も被災し仮の営業所で仕事を始めたばかり、しかし、町外から多くの支援者の受け皿として、多くの人達を支援した。その他にも国内外のメディアに南三陸町の震災状況を伝える為や、町を支援するボランティアや、再建に協力したいと言う方にはお手伝いとして、要望に応えて来た。
その一人が名古屋の建設会社社長で、石巻の住宅再建も手掛け、我が家と岩沼の2軒を受注した。震災後に被災地に仕事があり新たな会社の発展の為なのだろうが、被災地の状況は建設に長く従事していても、予想以上の問題が山積していた。建設に関係する地元の事業所確保は、被災で仕事を受ける業者が居なかった。資材も高騰し人件費も高い中で、名古屋の価格設定を被災地に当てはめたのが最大の失敗の元だろう。何度も打ち合わせと称した「飲食」で、その体が悪いとの状況を聞いた上での、大酒の姿に私の心配が当たった。建設の終末に至った時は2年前の25年12月で、元気に仙台を往復し采配を振るっていた。今月に入り名古屋の弁護士から「破産手続き」の、債務者の事情堪忍が届いた。そして、今の状況はどうなのかと弁護士に連絡すると、「社長が今年1月に亡くなった」と聞いた。私より確か2歳下で57歳のまだ若い死だった。
多くの訪問者があり、悪い「一攫千金」を狙い被災地に来る輩も少なくない。建設契約には一度の失敗も震災後に経験し、多くの書類は確実な建設をするためと気を配った。しかし、書類の建設期間遅延保障や建設後の保証は、ただの「紙切れ」となった。
初めて一生の大金を掛けての住宅建設は、被災地ならず建設業界の不振で、多くの問題が発生していた。建設中の建物は建設会社の物で自分の物ではない。「金を支払わないとカギは渡せません!」と言われた。日曜の住宅問題では家の途中で建設会社が自己の理由で建設を放棄した。そのままの姿で何も出来ない施主は嘆く。住宅ローンだけが残り、借金と母の介護と妻と二人の子供は行く場を失い、今後の夢の生活が悪夢の状況となり、家族が露頭に迷う事となっていた。住宅建設にはこんな状況から自分を守る保険制度がある。基本的には10万円の保険金と言い、だが保険を掛けるのは建設会社で、施主はこんな事は知らないで建設が始まっているのが現状だと、関係者は言っていた。

まだまだ私の周りにいろんな事件が発生している。何もしないのが一番安心ながら、逆に何もしない事に「生きる意味」が見いだせない。仲間の意見を聞きながら問題に巻き込まれないように努力したい。「お金を動かす前に誰かに相談する事」を薦めたい

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2016
03/07

宮城県内の町村の高齢過疎化進む


昨日は小雨の霧の中で町内の変化の姿の撮影に出かけた。
初めに志津川の低地部のコンビニ前から、新しく志津川保育所に通じる道路を見に行く。これまでは八幡様の下から神社や保育所に通じる道路は、震災の志津川市街地の復興整備が五日町の端々に移り、市街地には複雑なう回路が広がった。
次に助作の裏地に嵩上げとなった土盛りの上に、中学校に通じる片側2mの道路が整備されていた。これまでの米谷インターから御前下地区と抜け、市街地を通りアリーナまでの道路の毎日の混雑が、八幡神社下まで中学校下から抜けられ、少しの混雑の解消になりそうだ。新井田地区の国道45号もぐるりと曲がる国道が、中央団地の下を通る新う回路が今整備されつつあるように見える。しかし、新井田から八幡神社下までの一本道路は、う回路を作るのは難しく、朝晩の通勤の混雑解消はまだ程遠い。
次に志津川中学校のう回路を見にゆく。通学路としての役目ながら町内の人達の多くはこの道を通り、仮設商店街の飲食店や御前下の量販店へがあり、その先の登米市への買い物に多くの住民がこの道から向かうだろう。助作上水道の形はまだ残っていたものの、BRTの気仙沼線の線路後の道路利用施設は、今後「松原公園」の災害復旧の嵩上げ整備の為に、撤去されていた。道路のたびたびの舗装工事も何度も場所移動となり、JR東日本のBRTのバス高速輸送も無駄な経費の掛け過ぎがあり、戸倉までの駅整備に多くの経費を掛けた方が、志津川までの鉄路の復活さえ可能だった気がする。
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次に防災庁舎の状況を見に行く。3.11が今週の金曜日とあり、多くの慰霊の方が今週末から訪れ、防災庁舎に団体で向かい追悼の気持ちを表していた。遠くからカメラにその光景を収めている若者がいた。私も周辺の変化を28.3.7の日の姿として、将来に残した。
最後に志津川東団地に住宅再建の姿を撮りにいった。まずは東工区からで災害公営集合住宅の状況と、戸建は年度内の完成に向け工事の加速を見た。今度は向かいの西工区に行くと、フェンスで覆われ見る事ができなかった所は、先行の土地譲渡となり既に住宅再建ラッシュとなっていた。地元建設会社は2社確認できたものの、ハウスメーカーも多種多様で、まるで「ハウスギャラリー」のように、大手の中に聞いた事の無い会社も多く見受けられた。施主を見ると知っている方々も多くあり、新たな場所で生活の準備が進んでいた。セキスイ・ダイワなど高額なメーカーの大きな建物に、その建設資金の大変さを思った。三世代家族や水産業に従事している方が多く、町づくりの中心になる人達の再建に、将来の可能性の部分に触れた。
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南三陸町の被災者再建の力の姿に、高齢者との融合で「被災地の再建と安定」で、暮らしやすい町を全国にアピールして行く。仮設からの被災住民の再建での移転は、震災から10年後と予想が関連機関から出された。仮設の暮らしのままで亡くなる町民も少なくなく、震災から二次避難・仮設生活と、国と行政の震災復興の在り方と、その長期化に計画の失敗を思う。
毎年のこの日「3・11」を、私を含めどういう気持ちで受け入れたら良いか、分からなくなってきている。

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2016
03/06

南三陸町を去る方と一夜


3月の今は寒い中での「海の開口」がある。天然若布を45年前はよく海岸に取に行った。ツブ・ふのり・まつも・ひじきなど、海岸線には一般の人達が海藻やアサリを取りに賑わい、海を親しむ状況が昔はあった。現在は漁協の規制が厳しく、海岸線に一般人が入り海藻や貝を取る事ができなくなっている。「親水性」とよく震災復興の在り方の会議で言われるが、被災現状の保存の見学や、海の状況の模型・飼育している海水生物と触れ合う事と、本当の子供たちの親水性とは違う。海には危険がいっぱいある。切り立った海岸線・潮の満ち引きによる変化・危険な海水生物など、体験し厳しさの中に自然の素晴らしさがある事を、子ども達には知って貰いたいが私の願いだ。南三陸リアスの海は、危険が至る所にある。それを知った上で始めて海の素晴らしさが分かる。
写真は1月の旧役場前の八幡川で、一昨日前の昼間は「干潮」で川底が露わとなり、堆積物の多さに驚き、川の縁まで2mはないだろう。今後「8.7m」の河川堤防が建設され、「祈念公園む整備されるが、防災庁舎の遺構は現在のままの位置で、雨水の対策として、ポンプを稼働しては対策を講じて行く。
歌津地区に気仙沼までの途中に、周辺の変化を見つめている。先月の歌津商店街の移転の時には、水門や開閉の施設があったが、半月も経たない内に解体が終わっていた。本格的な歌津の市街地整備が加速しているように思える。
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祈念公園の海辺に「海のビジッターセンター」が建設され、観光客が南三陸町の海の状況と、海水生物に触れたり、南三陸の生物を紹介する。女川町のこれからの新しい町づくりは、ボランティアの定住やUターンの住民の確保と、観光交流の拡大があり、町から離れた住民の帰還に関しては、若いこれからの世代は訴えてない気がする。やむを得ず町を離れた人達に手を差し伸べる事も必要と思う。しかし、町を離れた人たちはもう帰ってこないとの諦めなのだろうか。
アメリカの年齢人口グラフがテレビで映し出された。日本は子供から20歳代までが減少し、高齢者の拡大と働き盛りの、頭でっかちのグラフだった。アメリカは底辺が広くバランスの良い形の維持があり、今後も成長する可能性を示していた。国外の移民の侵入の問題はあるが、国外からの若い流入者は子供達を生み将来のアメリカの、安定人口の体を成していた。

日本では毎日のように児童虐待や、子殺しや子供達の交通事故などで、多くの子供達が自分を主張できないままで、親の勝手で命を落としている事件を目にする。近い将来の日本の衰退を思わずにはいられない。
志津川高校の卒業祝いに駆け付けてくれた「キロロ」のお二人は、沖縄出身で結婚をして現在は3人の子供の親となっていた。沖縄の環境は子どもが多くても住みやすい所・家族関係が、その最大の理由だろう。本土の「待機児童問題」は生みたくても生んでからの生活か成り立たないと言う。国も将来よりも自分たちの生活を守る事に力を注ぐ。国の予算と体制は政府が握っている。我が子の環境を整備する事が、国の一大問題でありながら、それに本気で取り組まないのは、保育所や保育士の確保整備をしても、将来的には存続・維持が難しいとの理由も上げる。今やるべき事を実施し、問題が発生したら改善・変更をするが、会社・家庭の対処の仕方だと思うが、国は規模が予算約100兆であっても、それを上手く切り盛りが出来ていない気がする。
オリンピックの「聖火台」の設置が建設計画に無かった。隈研吾氏と大成建設の計画案ながら、余りにも初歩的ミスで、いくら沢山の有名構造物を造っていても、その公募入札に政府の思惑が深く関係しているように思う。
不思議な事は気になってしょうがない。

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2016
03/05

自分で仕事を作り 仕事をして税金で支払われる 最大の安定受注だ


今年の元旦に本浜漁港に行った時の写真ですね。こんな構造物は見たことが無いと思っていたが、その内容が解った。新井田川に架かる大森と本浜を結ぶ「曙橋」で、8.7mの防潮堤の上に造られている為に、巨大な覆いで包まれていた。これまでにない津波災害の再生整備事業で、市街地整備も一歩ずつ進み、29年の3月と志津川市街地の土地整備も、震災から丁度6年目となる頃に、土地が換地され土地地権者に譲渡となる。私も後継者もいなく市街地低地部の60坪の再建を、「やるか、やらないか?」どうしようと考え始めている。事業資金も自宅ローンと設備資金の支払いもあり、三重苦は避けたいが限られた人生、何かを残したいが趣味の分野とも重なり、経営は運営の利益に繋がるかと言うと厳しい。
昨日、中小企業の販促事業の補助金の書類が商工会よりきた。以前、この補助金申請の手伝いをした事があり、50万が上限で三分の二が補助される。販促となると「チラシ」「看板」などが考えられるが、「自社でのチラシの作成は駄目だ」と言う、自分の考えでの販促の一部だったが、無理だった。町は「見える化」を実施している。町民に紙ベースで町の復興を告知すると言う。勿論カラー印刷によるもので、自社でのデザイン制作、印刷は外注で関連会社へでは、入札には勝つ事など到底無理である。こんな会社事情で自社の利益分を削り、入札に挑戦しているが、若い新しい感覚の技術者がいないと、将来への会社継続は出来ない。これが我が社の最大の問題ながら、全国の同業者が同様の事情に苦しんでいる。
申請書類はホームページで書類を引き出すが、多くの書類が一気に出た。その数は80枚にもプリンターから出てきた。必要なのは3枚ぐらいなのに、私の60歳のパソコン技術では結構ハードルが高い。
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南三陸町にも「100均一ストア」が欲しい。登米市佐沼に行けば3店舗あり、100円でだいたいの生活用品が揃えられる。南三陸町への出店は人口の関係の購買力が少ないために、出店は厳しく何よりも既存の商店への弊害ともなる。しかし、住民生活の大変さからも新時代の商店の出店は、子ども達の為にも叶えて欲しい。町を離れた子供たちの学校生活環境の良さに比べても、不便な街の生活は学力低下とも繋がり兼ねない。小中高と生徒の減少に歯止めが掛からない現状がある。志津川市街地の被災者の住宅再建が、28年度から本格的に始まり、町外の仮設で暮らしている人や、広い地域に散らばっている「みなし仮設」の方が、どのくらい南三陸町に戻って来るかが、町の将来に係っている。5年6年も被災から経ち、子供たちは他の地区での生活に慣れ、再建は生活環境に不安な故郷よりも、子ども達の生活の環境の良い今の所と言う家庭も少なくは無い。子ども達の知能の低下や対人関係の社交性の衰退も、平時でも大変な学校事情があり、被災地での生活は子供達が安心して暮らすには厳しい。友達がいて仲間意識を持ち「一緒に生きたい!」と言い、新しい南三陸町の町づくりに取り組んで欲しい。
東工区の東の「福祉枠の土地」の15区画が昨年夏に整地され、土地譲渡となり「8軒」が現在までに完成し生活が始まっている。
行政の被災者への住宅地の土地整備さえ早ければ、他の土地に行く人も減ったと思っている。土地の売値を格安譲渡に、住宅建設の補助をもっと充実させれば、町からこんなにも町民は出なかったし、町の将来を担う子供達も維持でき、労働者が居れば商店・事業所など企業誘致も可能になった。しかし、もう遅い! 観光と交流人口を増やすしか、町の存続の道はない。一部の人達が喜ぶ町の姿に変わってしまった。

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2016
03/04

2011.3.11から


仕事のできる事は幸福と被災地の商店主は言う。再建してのお客が居ない事を夢見る。人口減少は被災三県にとって将来への大問題で、「震災復興特需」での潤いも後5年となる。今度は復興交付金の活用で新しい町の経済が、被災地の生業が成り立つかが、復興計画の「失敗か」「無駄か」「効果が見られない」など、その結果が関わった人たちの責任が問われる。
志津川町に来る方は訪れる度に、道路が変わっていると言う。町に住む私でも「この道は何処へ」と昨日は、誘導員に聞いた。旧保険センター前が嵩上げされた場所に道路移り小学校へと続き、旧助作の河川道路は「河川堤防」の整備にあたり、山裾を通り中学校に出られる。水尻川の橋も隣に建設され後5mで繋がりそうだ。神の山緑地への道路も高台のコンビニ近くから、残った五日町の地区へと道路が出来ていた。
取りあえず嵩上げ、道路がないと次々にう回路を整備し舗装の繰り返し、国からの予算が付くとは言え無駄な事ばかりだ。それは大手の建設会社の仕事であり、雇用されている従業員も多くその維持に繋がっている。国も議員も官僚も企業と「持ちつ持たれつ」の中である。国民も政府と良好な公平な関係なら、「幸福な国」と言えるのだろうが、何処かでピンハネする輩がいる。国民の怒りがいろんな形で社会問題となっているのは、これまで続く「輪廻」とでもある。南三陸町志津川の千葉家も「千葉印刷」も終末まで後少しとなった。
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米国による「トモダチ作戦」があり、議員として歌津地区の被災現場を見に行った時に知った。歌津泊半島に米国の空母「ドナルドレーガン」や20隻の船艇と2万人の海兵隊が、海からの支援活動で動き孤立した地区に物資を届けた。泊地区の集会所に行くと米国製の下着や食料があり、地区民への配布の管理を住民がしていた。5年を迎え「記念式典」が開催されたと言う。米国との関係は「安保」だけではなく、いざと言う時に助け合う仲でもあった。世界の隣国との「緊張緩和」には、大国の世界支援は欠かせない。戦争放棄の日本憲法も元で、世界貢献に何が日本はできるのか、もっと議論が必要のようだ。私は負けず嫌いと、自分のしたい事は貫き、正義を重んじたい。こんな考えで60年間を生きて来た。これからの世代に日本を任せたいが、若者の生活不安は多くの異常な事件発生へと繋がっていた。
こないだの志津川高校の卒業には、「戸倉剣道スポーツ少年団」の教え子が一人いた。指導者の未熟と生徒も少ない学校が、南三陸町内の剣道の激戦区で、初めて優勝を成し遂げた。震災前の年ながら、彼らは諸々の環境の中で偉業を果たした。彼らの頑張りが戸倉地区の小学校の剣道に新たな歴史を造ったと私は忘れない。私の教え子が新しい南三陸の一員とて、素晴らしい町が再建される事を祈っている。
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我が家のリビングには、「ハナモモ」と「シュンナハナミズキ」が、可愛い「ピンク」と「黄色」の花を咲かせている。花を愛でる心にゆとりが出来てきた。町内の皆さんもギスギスした時から一日も早く解き放たれて欲しい。

【 未分類 | CO:0 | TB:× | 07:32 】

2016
03/03

気仙沼線を諦めないで 女川駅の取り組みに学べ

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「震災をチャンスに!」 仙台直通の40年の夢叶う!
蒲鉾本舗高政 高橋正樹さん
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後輩の為に気仙沼線の復活を!
気仙沼の高校に通う高校生は、震災前は1時間で通学できていたものが、現在のBRTだと1時間30分を要している。朝の課外授業に間に合うように行くために、本吉駅まで送ってもらっている。「母子家庭の私は母に無理を言っている今の状況を作っている」と涙ながらに話す。夜遅くまで仕事をし、介護して家事をしている。こんな母には感謝してもしきれない。(仙台までは鉄路だと1時間30分~2時間で、車を持っていない家庭もある)。高校生の勉強の為にも鉄路は必要で、今後の仙台への通学する生徒に可能性を作って貰いたいと話した。
(南三陸町 高校生)

高校生の通学時間の苦痛!
BRTでの通学は、登米市の柳津からで、歌津地区に来る頃にはバスは満杯となり、気仙沼市内の高校に通っている生徒は、通学が苦痛でたまらないと言う。立っての通学は停車するたびに人が乗って来て、前に詰められ、いちいちバスから降りる事をあると言う。こないだの雪の日は3時間以上も掛かった。親として「不安と心配でいっぱいだ。」お年寄りも大変と思うし、電車の時はこんな事は無かったと言う。
(歌津 高校生の母)

ご老人や妊婦さんはBRTでは大変!
母子家庭の三人家族の私は、戸倉~志津川迄の通学をしている。祖母は病院に行くと疲れると言い、急ブレーキなどで具合が悪くなる。(病院に行ったのに具合が悪いと言う)。BRTだと体調を崩し勉強も出来ないとも話す。妊婦さんや高齢者・子供達の大変さを考えると絶対に鉄路は必要だ。安定した通勤には電車しかない。
(戸倉 高校生)




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2016
03/02

母校! 志津川高校


「私も42年前に志津川高校を卒業しました!」、卒業生のお母さんも「30年前」の卒業と、父母からの先生方への謝辞で話し、高校生時代に先生からの「叱咤激励」を胸にここまで歩んで来たと言う。高校時代の先生の厳しさの上に今の私があり、これからも子供達を見守ってとお願いした。震災時に高校の恩師の先生方が避難所や被災地に、支援と笑顔を届けに来てくれた。その時の喜びと勇気づけられたと思い返す。そんな自分を振り返り、子供たちもそんな人たちに恵まれ、卒業後も人の支えや温かさがある、子ども達もそんな人間になって欲しいと語り掛けているようだ。
校長の式辞には、4年前の大震災から、世界で一番災害に強い町「防災都市」を目指す。しかし、地方の若者離れが深刻なものとなっている。町では支援をして行くと言う。取り組みは他の高校ではないと話した。
町はこれから、自然と融合した生業の町をつくる。何があっても生きようとする強靭な力が備わっている。「人間愛」を優先する。皆さんの愛する南三陸町、登校坂の記念碑に「生きて共にいき学ぶ事の大切を知る。」と語った。
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サプライズが卒業式終了後にあった。NHKの「明日へのコンサート」の収録が高校の卒業式だった。卒業生の一人が「キロロの歌を聞きたい」と、メールを送った事が実現となった。
キロロは「前を向いて過ごしてきて、新しい未来を築く日が来た。」と卒業生に話し、デビューヒット曲の「ベストフレンド」を歌い、次に「みんな貴方を愛してる」の新しい曲を、会場全員で歌った。「周りを愛して自分を愛して」の言葉を、お守りにして下さいと歌の後でメッセージを送った。最後に「未来へ」の最初の歌詞に「母がくれた沢山の優しさ」「ほーおら足元を見てごらんこれが貴方の進む道・・・」の歌詞の歌に、目頭を押さえる卒業生の姿があった。

私の母校「志津川高校は最高です。」、生徒数の減少が続き4クラスが3クラスとなり、今後も学校存続は厳しいと思うが、南三陸町の燈火を消す事ないよう、卒業生で何とか町づくりと並行して高校の存続を訴えたい。


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