ARCHIVE - 2015年12月

2015
12/31

年末年始も休みなし?


志津川の市街地の3つの高台移転場所の東地区東工区の、福祉枠と言われる15区画の一つが完成し入居となったと、メディア(新聞)が伝えていた。震災から4年10か月も掛かり、一次避難場所から二次避難、仮設そして「終の棲家」への生活再建までの長い道のりだっただろう。しかし、災害公営集合住宅・戸建と未だに完成を見ていない。来年度には総ての災害公営は完成となり、直ぐに待ちかねたように「どっ!」と被災住民が入居する。入居や土地希望をしていた人たちも、長期の建設計画期間にしびれを来たし、待ちきれないと町を去り、その減った住居を埋める為に行政は必至だ。また、造成・建設費の増額と帰還が減った事で、入居価格の土地取得・借地の金額が上がる事を私は心配している。

今年を振り返ると、良く考えると今年は目の安静で正月らしい正月はしなかった事に気づいた。健康と体調の管理に父の事と共に自分の体調維持を考え生活している。父には無理な事や転んだら大変と、口を酸っぱくなる程話している。私は三食を決まった時間に食す事と、朝のトイレには無理せず時間を掛けて排便に努め、一日の牛乳の摂取を欠かさない。入浴はぬるめの温度で半身浴に心掛け、冬は脱衣所・そこまでの場所は暖かくして浴槽に入る事に努めている。何故かと言うと、こないだ熱い浴槽から急な寒い脱衣所で、身体に違和感を感じ、そこから寒い自室で異常な発汗と、急激な体調異常に苦しんだ。「糖尿病」と医師に指摘された「血圧が高い」との体の状況から、心筋梗塞と脳梗塞の危険があるから気を付けて下さいといわれた。こんな事から自己管理に努力している。「両親を見送るまでは死ねない!」と自分に言い聞かせ暮らしている。仲間達も気を付けて生活して欲しい。還暦の60歳を迎えるのだから、25人の早くして逝去した同級生の分まで、長く生きましょう!

各室内にカレンダーも張り、新年を迎えるばかりとなった。蒲鉾と正月魚の「ナメタ」を煮て、餅とアンコは東京の叔母が贈ってくれた。リビングには佐沼の氏家のおばちゃんからフクジュソウの鉢を貰い、正月らしい雰囲気を造れた。私には餅もアンコも身体に毒ながら、少しは食べたい。三食のご飯とみそ汁とおかず一品で十分ながら、1500円のオードブルとビール350を6本は、私の為の新年のお祝いとした。
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今年は年賀状も書き全て投函した。こんな年は震災前からもなく、年末まで仕事で苦しむこれまでの生活とはおさらばした。なんとかゆったりした年末年始を贈れている。大自然に囲まれた「南三陸町志津川」で最後まで生き暮らせる事に感謝したい。「2015年よさようなら!」だ。
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2015
12/30

毎年の恒例にならって


年末の28日に志津川大森の星さんが電話をしれた。「さつきが咲きました、みんなで集まり卵酒でお花見に元気を貰いました。」こんな話題をくれた。

志津川魚市場から大森の高台に通じる入口の高台に星さんの家はあった。自宅から下は津波で全ての家が流され、一部損壊や電気・水などのライフラインが崩壊した。約10m以上が地区の入り江までに津波は到達した。家にあった100鉢ものつつじが流され、今回そのうち30鉢が残った。その1鉢の一つが今年の暖冬と言われる温かさで花芽がほころびたと言う。楽しい事や嬉しい事があると、大森の近所の人達が集まる場所でもあった。
大森地区の老人会の仲間が寄り合い、津波以前は一人暮らしの地区のご老人に季節の行事として、大正琴のイベントやお弁当を振る舞うなど、活発な活動は震災前に仲間で開催していた。今回の津波により仲間の一人が亡くなり、震災から2年後の3回忌にあたり、みんなで市場に集まり花を海へ流し、線香を手向けその供養もおこなった。
地域の活動は震災後も続いていた。地区の12人が寄って12月28日は恒例の餅つきをすると言う。星さんの自宅に向かうと小高い家の方から「コツン・コツン」と音が聞こえてきた。聞き覚えのある音で35段ほどの石段を上ると、臼と杵を使った餅つきをしていた。現在は「餅つきは大変」と時代は餅つき機へと変わり、寂しさが増していた。「今日は八臼つくんです。」と言う。子ども達も参加し小さな供え餅を作っていると、ふざけて餅で遊ぶ子におばあさんの「怒る声と手が飛ぶ」、こんな地区の営みが昔はあったが今は薄れている。
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初めは「きなこ餅」で、臼で搗きたての餅に「黄粉」を塗し、砂糖を掛けたもので、子供達はモジモジと「食べていいよ」のおばあちゃんの声を待つ。「ふざけてないで」とストーブ前での子供を危険と叱る。私もお相伴で今年初めての杵搗き餅をご馳走になった。「あんこ餅もあるがら食べていがいよ。」と星さんが声を掛けて来た。こんなにも地区民が集まり正月前の行事が、震災後も繰り返している事に安心な気持ちが芽生えた。

私の家族の理想は、子供が祖父母から日常の中で色々な事を学ぶ家庭があり、そんな中で私も育ち、「して悪い事」を学んだし、昔から家に伝わる習慣・行事ごとを自然に身に着けていた。今は核家族が世間で増加し、被災地ではあたりまえのように、以前の三世代家族が祖父母と息子たちと孫の二つに分かれる。こんな状態が恒常化している。

だいたい今年の用事を済ませた。年末年始は静かなお正月に千葉家はなる。

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2015
12/29

南三陸町千葉総合印刷・・検索


遂に昨日、震災からの南三陸町の出来事を綴った、「南三陸マイタウン情報」がホームページの完成を見た。

大震災2011.3.11の大津波から、7月の会社再建を果たし、2011.9.30に第一号を発行し、2015.12.6の第四十五号までの発信を続けて来た。そして昨日の編集依頼先からの完了の報告を受けた。掲載は44号までながらPDFのテデータから、1号から44号までプリンターで出力して見られる。「第一号」の記事には震災の復旧のあれこれが載っている。懐かしく読み返すが一生懸命に生きて来たからか、余り覚えていなく見入ってしまった。ゆっくり暇になったら自分の活動を振り返りたい。

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これは自分の印刷業者としての役目と、地元紙「城洋新聞」の意思を継ぎたいと言う、細やかな継続の活動でもある。足元にもよらない情報紙ながら、「楽しみに見てます」「これで町の情報を知りました」など、時々聴こえる町民の声に後押しされながら続けている。
その他の理由にはもう一つある。震災の国の支援金の「二分の一事業」を受け、「被災地で何ができるか」との活動に貢献が条件にあり、情報の発信を上げた。約500万円の補助金ながら45号まで発行経費は、補助額を既に越えしてしまった。会社の為と言うが、ホームページが利益に繋がった事は無い。今回は6万位で前回は7万を支払い作成した。
グループ事業で3千円・1億円の補助を貰っていても、活動をしていないと言う声も聞かれる。「ばか真面目」を今後も通して行きたいと思っている。

是非、ホームページにお出掛け下さい。

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2015
12/28

最後まで努力する

今日も朝3時に「日テレニュース」で起きる。17歳の高校生が祖父母を殺した。64・67歳の二人を殺害した理由に、「友人関係に悩む」「誰でも良いから殺したい」など、生活環境による道徳教育の欠如がある。この祖父母も私と5歳位の差があるが同年代で、「子供がいないから大丈夫」、こんな日本国民の意識が蔓延したら、日本はどうなっていくのだろう。

朝から録画のビデオで、「グルナイ」のごちバトルで江角が最階位で6年の番組を去る事となった。その後で「オハ4」の中田有紀が13年間の番組を卒業した。子どもがお腹に授かり、出産を前に番組を下りる事となった。朝のあの笑顔で私も13年間も癒され、日本のニュースに興味を持つ事となり、多くの政治の事件により町の行政の在り方にも関心を持った。二人の番組からの交番は、テレビっこの私としては寂しく、周囲の仲間の思いの姿に「もらい泣き」する程、愛着がある二人だった。
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南三陸の海を表現した「仙台うみの杜水族館」に行った今年、目の前の海に多くの魚が暮らす自然の凄さに浸った。今年はサンマ・カツオが不漁で、メディアは中国・台湾の魚への食の変化があり、日本沿岸に来る前に両国の乱獲にその影響があると伝えていた。しかし、長年海と付き合ってきた方は、大津波の為と言い切っていた。自分の海がどうなっているか知る上でも、仙台の水族館には町の子供達には行って欲しい。
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昨日は今年初の雪が7時頃から降り始めた。先週にタイヤ交換を済ませ安心していた。最後の親戚廻りも済ませた、年内の仕事の99%を片付けた。やらねばならない事が残っているが、昨年の今を思うとこの頃は「東北大学病院」に入院していた。色々な事があるけど日々の生活に努力する事で「何とかなる!」。
そんな中で政治の原点の「町庁舎基礎」「防災庁舎」を見て来た。アリーナの「祈念公園」の奈良大の宮城教授の説明会で、第一庁舎の基礎跡も津波の継承として十分な物だと言っていた話を確かめて来た。しかし、第一庁舎の基礎跡は玄関の左の出納室だけとなっていた。町は防災庁舎の遺構としての保存も、祈念公園設計者が考える事とは違い、高野会館だけがその形を留めているだけだ。その場しのぎの町の対応に、これまでの現体制のやり方が、今も政策と同じで何も変わらない町の政治体質を感じる。
「もういい」と投げ出したいが、これで町を去ったら負けになってしまう。もう少し頑張って政治を見ていきたい。
昨日、町民の方が「さつき咲いたので仲間と玉子酒で花見しました」と連絡が入った。こんなほのほのとした地域の交流が今も、被災地「南三陸町」に続いていた。ボランティアさんも来ない静かな地区にだ。

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2015
12/27

観光の差別化


設中で、近日中には完成となる。何故にまだ何も出来金沢への「北陸新幹線開通」は大きな経済効果を生んでいた。日本海側への人の流入は交通手段への、日本アルプスなどの山越え・豪雪により、観光客の行き来を阻んでいた。新幹線効果により時間の短縮が実現となり流入が週末には2倍となり、商店などの受け入れ態勢が整わない中で、その対応に大わらわと商店街店主は語る。
冬の金沢はのどぐろ・カニ・エビなど、日本人が食で好む食材を全て備えている。昨日の「正月に金沢へ」はその魅力が存分に紹介していた。写真は「つつみ門」で新幹線での到着の窓口として、お客さんの心を強く掴んでいる。私も今年は行って見たいとの気持ちが芽生えた。
北海道新幹線は遂に開通の時を迎えた。苫小牧は世界の観光客の行って見たい場所としてその名前が出る。北海道の雪とお土産の海産品やお菓子の開発に力を入れている。「インバウンド」は外国からの観光客で今年は1901万人に達し、東京オリンピックの2020年の2千万目標達成に既に近づいている。
来年1月には友好都市として台湾から第一陣の観光客が来町する。新しい病院の支援での見学と、後は町での「おもてなし」が何なのかを考える。それは「人」「交流」が町の魅力としてあるが、交通手段は観光バスしかない。
昨日の来客は腰痛で車では来れないと言い、車の運転しない来町者は高速バスの停留所の、現在のホテル前までの宿泊場所からタクシー代も大きな負担となっていた。
「電車があれば」とみなが言う。戸倉まで生き残った「鉄路」があり、女川線の再建の賑わいを見れば必要な事は一目瞭然だ。しかし、国交省・JR東日本と気仙沼線沿線の関係自治体では、南三陸町に続き陸前高田がBRTを選択した。気仙沼市は岩手県一関からの電車もあり、他の状況とは違っている。町にくる高齢者は車を年を取る事により、交通手段にはバス選択は少ない。時間短縮など日本の高齢化社会での観光客確保には鉄路は欠かせない。
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志津川市街地の低地部の中央交差点にコンビニが、まだ何もないのにコンビニが建設されるのかが、許可が出たのかは不思議である。見えない交換条件が出たのだろう。「なぜセブンだけが」との声も聴く。写真の向かいの場所にである。高台にあった城洋新聞の自宅がこんなに近くにある。こんなに嵩上げされた事が一目で判断できる。もうあの志津川町は亡くなった。

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2015
12/26

南三陸町歌津の先人たちに謝罪


今回で4回目の歌津「西光寺」へ、歌津の観光振興・女性参画活動の基礎を創った、伊里前市街地に食堂と旅館を立ち上げた「大衆」さんの大女将の、高橋せつさんの葬儀に参列してきた。歌津地区の女性で一番目に車の免許を取った事でも有名だった。孫の弔辞で「ばあちゃんに色々な事を教えてもらった」「学校に行く寒い冬は洋服をストーブで温めて着せてくれた」など、せつ祖母さんに「ひ孫を見せられた事が嬉しい」と言う。これがこれまで家系を引き継ぐための、普通の営みだったが、現在はこれが無くなる時代が展開されている。国の人口が減り、地方が疲弊する日本へと向かっている。「後継者維持」ができなかった私もその一人になっていた。先祖に申し訳ない想いでいっぱいだ。しかし、今後は町の為と先祖に報いる活動を最後まで、命ある限り続けて行こうと思っている。

伊里前川を遡った津波は西光寺から更に2K先まで達した。田束山に向かう川沿いに犠牲者はいなかっただろう。家は少ないが「津波が来たら直ぐに逃げる」、こうした習慣が先人の言い伝えであった。歌津地区民は約100名の死者がでたが、津波の襲来が無いとの家に帰った人たちが死者の大半だったと聞く。

昨日は会社の忘年会を、今年の3月に4年目の3・11時にオープンした「明神崎荘」さんで、社員と二人だけの忘年会を開催した。牡蠣鍋が食べたかったが色々なお膳の品に舌つづみを打った。一緒になった東京のお客さんとの話は「仙台の歌声喫茶通い」だった。足を伸ばし南三陸町に宿泊してくれたありがたい。「最後まで無線で避難を呼びかけた女性」の話になり、遠藤未希の話は今での伝説として日本国民の記憶に残っていた。彼女の震災での死は今後も多くの人へ、「津波の恐ろしさ」を伝えていた。「未希さんの民宿取れないんですよ」と話していた。仙台への何年も続く歌声喫茶通いのお手伝いに、「未希の家」の橋渡しのお役に立ちたいと思う。

一人でも南三陸町を訪れたいと言う方の、お手伝いも今後の私の活動の一つです。

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2015
12/25

シーパルピア


女川町の商業エリアの「町開き」が16日に開催された。鉄道の再建がありメディアがそれ伝え、若者達中心で復興の形ができ「還暦は物言うな」として、次世代を築く若者が町起こしに「再建」に立ちあがった。真実の町の事を考え、そこには「私的我欲」「しがらみ」「自分達のみ」と言った指摘は、町民から上がらない。こんな町づくりは我が町には難しいようだ。

昨日も「鉄道の再建」の諦めの町長の姿が、今年の出来事としてテンビに映り、震災遺構の県への丸投げ、一部業種の早期の再建に町が積極的に介入する。女川の「第三セクター」による再建事業があり、関わる人達の復活意識の拡大が見られる。我が町では廃業・再建断念した事業所は200軒を数える。伝統・名産品の再建にもっと町の支援があれば、「頑張ってみよう」と言う人が増え、人口もここまでは落ち込まない。何とか人口の維持はできるだろうとの「甘い想定」があった気がする。
昨日の報道にも隈氏の町との係わりで、南三陸産材の東京オリンピックの参入を期待する記事があった。全国の林業家もやはり同じ事を望んでいる。国会議員の地元材の普及にオリンピック組織委員会への働きかけがあるだろう。大成建設グループと隈研吾氏の共同建築は、経費と建設期間との戦いがあり、そう容易い参入は厳しい気がする。

女川の商業エリアは7mの嵩上げで再開した。その風景は志津川市街地の「港町の景観」と言う、隈氏の計画に何処か似ていると、その姿を見て思った。ショッピングモールの商店街はその計画での建物ながら、他の商店は規制も無く、一般の事業する方は使い勝手の良い設計を、再建予算を考え構想している。

そう言えば昨日「熊」が志津川の荒町にでた。何かの予感なのだろうか? 町の復興はこれ以上の町の疲弊に繋がらない事を願うばかりだ。

また長年お世話になった歌津の名士の奥様が亡くなった。歌津商工会婦人部会長であった。ご主人は町の議会議長をしていた。決してさげすむ事無く私に難しい会話をしてくれた。こんな町議会議員が町には居なくなった気がする。
母が気にいられ「千葉さん」と常に指名があった。行くと店でラーメンを二人でその度に食べた。その時の奥さんの優しい言葉に触れた。先人が町の基礎を造ったが、もうその商店街はなく、歌津は後回しと商業エリアの町開きにも貧弱な物とにりそうだ。「小さいけどキラリと光る町」と言葉だけは立派だ、
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ベットの母に父が寄り添うように、町ももっと総ての町民に寄り添って欲しく、将来の子供達に「ツケを回さない」、そんな町づくりに取り組んで欲しいものだ。

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2015
12/24

土地さえあれば


昨日は歌津中学校裏の伊里前地区の住民の移転地を見に行った。以前に歌津総合庁舎となりにあった神社宮司さんの家が、ここに移転し再建され、新しい地区を守って行くのだろう。ここも工事トラックが往来する中で住宅の建築が次々に進められていた。「土地さえあったら!」と住民の叫びを聞く。

気仙沼市本吉から津谷の「いさみや」さんにお菓子の贈答品を買いに行った。私が25歳の頃から仕事の主体を志津川町に移す35歳位まで、お世話になった本吉町の店で、お菓子やクリスマス時にはケーキを買い求めた。現在も当時のお嫁さんが店に立ち接客をしていた。「お嫁さんもらったんです」「金沢の人でボランティアで息子が知り合ったです」と、嬉しそうに話し隣りのお嫁さんを紹介してくれた。奥さんに何代目と聞くと「私たちが2代目」と教えてくれた。代々引き継ぐ店の大変さがこのお嫁さんと息子さんに託される。地方の衰退の中で維持していく事の労苦があるが、「いさみやの大島まんじゅう」は、初代の店主とお母さんが築き上げた。その嫁の御祖母さんも95歳で施設に入っていると言う。銘菓は滅びる事ないと思うが、後継者の維持と経営の健全化が老舗を守る事に繋がる。現在は本吉にもバイパスが開通し、ストロー現象となりながら、多くの商品を開発し頑張っていた。こないだも登米市の叔母に「大島まんじゅう」を持って行ったら、「美味しいごだ!」と喜んでくれた。銘菓の継承を次の看板娘の「金沢の女(ひと)」にお願いしたい。志津川の兼田屋さんの「よもぎまんじゅう」をまた食べたい。
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南三陸産材の活用の補助金を、これから住宅建設をする方に薦めたい。私の仲間も補助の恩恵に授かり、現在、叔父や知人が進める住宅建設にも県産材補助が使われた。地元の「丸平木材店」での申請支援により、簡単に活用できる事を知った。私は県外の業者だったし、補助金の活用は多忙が故に利用を怠った。「もったいなかった!」、これから本格化する南三陸町の住宅再建の8割はハウスメーカーで、残る2割が地元の建設会社と新聞で知った。住宅は家を建てるだけでなく、ローン設定・外構・保険など、住宅の建築費の他にも色々な経費が掛かる事を知って欲しい。補助金の活用はローン・水道・浄化槽・太陽光発電だけではない事を! しかし、取り組む事と申請の大変さがあるが、努力なしに補助金の取得は難しい。大手メーカーも手続きをしてくれる。しない建設業者もいる「めんどくさい!」が復興特需の意識の中にあり、被災者救済の早期建設の中で「今の内に儲けよう」との考えが強いようだ。

クリスマス前の天皇誕生日に、「女川の商業エリアの町開き」が昨日テレビで報道されていた。嵩上げが「7m」としての町の再建が、他の被災地との差を付け、この発信により来町者の拡大を目論む。隈研吾氏の志津川商店街の再生の構想風景に似ていた。
現在、低地部の再生はショッピングモールが来年の3月3日と代表が話し、他の部分は29年3月とUR都市機構が説明をした。しかし今、志津川商店街の中央交差点に「コンビニ」らしき形状の建物が建設されている。
何を一番最初にやるべき事か、我が町の復興計画に疑問「?」ばかりを感じる。

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2015
12/23

後悔したくない16代目


「おいおい!」、朝、何げなくNHKに切り替えると「俊幸」が出ていた。被災地での若者(28歳)の酪農家の再建を伝えていた。
「やらずに後悔するなら、やって後悔するほうがいい!」と胸を張り話す。震災後には再建の方法はありませんか? と資金の捻出に奔走していた。当時は酪農家への再建の補助事業は無く、苦しみもがいていた。今年になり牛舎建築の方法が見つかったのか、牛舎の再建が始まった。その後、完成の祝いに彼の仮設に行き父親と会い、「頑張ったね!」と会話をした。建設でも資材や施設の増築の為に、試行錯誤の限られた資金での完成まで取り組んだ。全国からの支援者が彼のフェースブツクには載っていた。再建の本当の支援が何なのかはまだ聞いていないが、親にも頼らず良くここまでやって来たと思う。「謝金返済が大変!」と正直に今を話す、素直な努力家は彼と共に歩んだ「戸倉剣道」で知っている。教え子の地元での再建は自分の力で喜びでもある。
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彼は酪農の他に牛の爪を切る「削蹄」も学び、震災前から酪農の他の収益にも取り組んでいた。「寝る暇ないですよ」と言い、子牛が生まれて新たな命の誕生に感慨を深めていた。8月には震災前の売り上げを越えたと言う。何が起こるか判らない農業事情の中で、焦らず時間を掛けて返済を進める事が大切で、「君ならできるヨ!」、何かあったら支援はするつもりだが、家族がいるし、新たな家族を作り上げ更に前へ進んで欲しい、後悔しない為にもネ!
高台の方に自宅再建も終え生活も始まったと話す。平成27年は君にとって記憶に残る年となった。16代目の俊幸も28歳となり、あれから16年の月日が経っていた。17代目に繋ぐまでが君の役目、君なら絶対できるよ!
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国立競技場が1490億円で建築家の隈研吾氏と大成建設のグループ「A案」に決まった。樹と緑の調和した競技場をコンセプトに、木材と鉄骨を使った3階建て以上の構造物として後世に誇れる物となると言う。隈氏の南三陸町の再建の都市の再生がある。「昔ながらの漁村」をイメージした市街地再生にあたった。しかし、昨日来た先輩は、隈氏の構想に問題があり隈氏が計画から離れたと言う。それが本当だとしたら、この繋がりによる効果がどうなるのか心配だ。木材はブランド化した「南三陸産材」が国立競技場に使われ、「2度目のオリンピックの一角を担う」、震災を受けての南三陸町の再建に華を添える事となる。かすかな期待に私の胸は躍っている。ザハ氏の問題提示もあり、まだまだ何かが起こりそうだ。
昨日、震災遺構「南三陸町防災対策庁舎」の県への引き渡し式が跡地であった。町長から県職員に「引き渡し書」が渡され、職員は「大切に保存しお返しします」と話した。15年後に町はどう変わっているだろう。その時は私は終わった人間・町民となっている。

年末の準備のタイヤ交換とゴミ投げに行き、集金や借金返済にも進め早く今年を締めたい。県への補助申請も今年分は終え、来年に回す事とした。気を付けて年末を越し、新たな気持ちで新年を迎えたい。

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2015
12/22

志津川湾は「海のゆりかご」


行動(アクション)なしには変化も効果も無い。震災後の人の良さから欲を持つ人間が私に集まっても来た。多くの真実の支援に紛れ込み、結果的に金銭的な詐欺や契約違反など、これからも住宅建設が加速するが、大手ハウスメーカーに混じって、悪徳建設会社があの手この手と、手を変え品を変え人の良い優しい「南三陸町民」や多くの被災地に参入してくる。一人で決めないで! お金の支払いと建設の経過を見据え、間違いない建設会社と設計と内容の判る人に入って貰う事が、安心できる住宅建設へと繋がる。
人間に潜む「悪意」は決して消えない。多くの自分に降りかかる制裁と刑罰なしには変わる事は無く、同じ世間への影響を与え続けていた。私の関わった方も寂しい悲しい人間だった。次の事業でも自治体に迷惑を掛けていた。土地の名士に近づきその繋がりを利用し参入し、継続事業も時間と経費の嵩んで、伝統歴史の継承の発信を断念させていた。たった半年の仕事も出来なく金を掴み消え去って行く。広域のこうした犯罪に日本の警察は対処出来ないようだ。
ああ! 現在、空き巣・泥棒の類が南三陸町に出没しているらしい。我が社の家は金は無く、大金貯蔵の「たんす」も無い。借金だけがなかなか減らないで残り13年は、金欠のままで暮らす事を想定している。

「愛の福袋」の活動は意外な団体だった。現在進む仕事も震災後の支援の繋がりから発生した。国連の「女性・・・の会」と両方とも世界の女性を守り、生活支援の活動をしていた。その輪が全国の女性達が参加していた。こうした志の方が居ても50歳代の人は、我が町では仕事と家庭に追われ活動は難しいのが実態のような気がする。世界にその目を向ける事は少ない。自分に何が出来るかを模索している。その中に「ユニセフ募金」に心が動いている。以前、南三陸町の空手の会があり、年末の恒例行事の会場「おすばでまつり」で、子供達と親の会が「ユニセフ募金」の垂れ幕を持ち募金活動していた事を思い出した。
今回の大震災で多くの支援が全国から来た。今度はそのお返しをする事で世界に対しても、金銭的な支援が自治体に課せられている。「復興姿を示すのが支援に報いる事」と行政は言う。中学生の世界・国内の大震災後に迅速な「募金活動」を実施し、日本赤十字を通し義援金を贈っている。町のこうした活動は聴いたことが無く、財政難の町には出来ないと言うが、多くの町の環境維持が必要なのは解るが、町職員や住民に「恩返し」の意識が拡大し、少しでも募金活動が町でできる体制の構築があっても良いと思う。
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ツイッターで発信した志津川湾の日の出写真に、岩手の漁師の方に「密植してますね」とコメントがあった。震災からの海の復興があり、震災前の「密植の改善」の元に、漁民の養殖範囲を再設定したと聞くが、隣の県の方は見てそう感じた。志津川湾の養殖に適合したリアスの入り江は、養殖の密植による「酸欠」でカキ養殖で死滅貝が発生した。こうした事が起こって改善を図るが厳しい。磯焼けも「ウニの食害」と言われるが、生活排水やホテルの熱水排水も理由に上げられていた。
今回の大津波は「自然からの警鐘」と行け止めるべきと私は思う。この素晴らしい自然と共に生きて来た志津川町の50年前を思い出す。小魚やクラゲ・海藻が海岸全体を埋め尽くしていた。生活の為と他の人よりもの利益の追求と言う「人間の欲」が、自然を守る事の大切さを後回しにした結果だ。

これからも南三陸町は自然の「海の揺り籠」に抱かれて、町民が助け合い生きる町に生まれ変わる事を望んでいる。

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2015
12/21

頑張る私の周囲の後輩に未来を期待して


今日は朝一に「フェースブック」「ツイッター」で南三陸町の朝日の光景を発信しました。フェースブックの私の知人の発信力に感動し、多くの人達の考え・意見を知り、綺麗な宮城の光景や東北の復興活動や自然に会う事ができる。家に居ながらみんなの活動を触れる、ネット社会は私の逃げ場なのかもしれない。

昨日の「復興祈念公園説明会」は、50名の来場者ながら役場関係者が多く、数の確保の為に「さくら」らしき方々が多いとフェースブックにあった。設計を依頼された奈良女子大の宮城教授に失礼な話である。先生もこの反応に戸惑っていたと思う。
昨日の新聞に地元高校に町長が行って、高校生に復興の話しをしたと言う。「興味を持って欲しい」との高校側と、メディア向けの行動とも思えるし、「高校生に復興の担い手に」と言うが、高校生の必要なものは「外の生活を体験し」世間の見識を得て学んでからと思う。高校生には自分の進む道を、他者が強要するのではなく「自分の道を開き」、その先に古里があった方が良い。
昨日の説明会の会場には聴きなれた質問者が多かった。佐々木・後藤・勝倉など、町協の仲間がいた。町外の大学生から提案で「築山に火を灯しては」と言う。その発想の元が震災時の防災庁舎屋上で、燃える物に火を付けて寒さをしのいだ姿を、「復興の燈火」と言い、その姿を再現して欲しいかなような発想は、被災した職員家族の今も苦しむ現状を理解はしてないようだ。学生は「町長のこの話を聞いた」と言う、町長は自分の美談的な発信を至る所でしていたのか。

私が思っている通り、町民は復興事業に興味はあるものの、こうした町の復興発信の活動を何とも思っていない行政まかせだ。町はテレビ・新聞などのメディア戦略で南三陸町への観光客の来町を図っている。今度の更なる「パブリックコメント募集」は、南三陸町総合戦略(素案)と南三陸町過疎地域自立促進計画(素案)への実施と言う。提出者の少ない事を判っていての町のパフォーマンスであり、これが民意と決めつける町の体制が現在ある。
何で「何で批判ばかり」と言う方も多いだろうが、私は佐藤町長のこれまでの行動と考えでの町政策の失敗を、謝罪も反省もない姿勢が許せない。町再建にまた自己本意な政策で仲間と共に、町をダメにしていると思っている。真面目な職員も多いが可哀そうでならない。しかし、何も言わない事は「全体責任」としてある。

月曜の朝から「重い話」で申し訳ない。

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2015
12/20

南三陸町 あれこれ


曙橋は本浜町と大森を結ぶ漁業の橋として重要な道路だった。現在は、10mの防潮堤工事が進み、見上げるような巨大な構造物として、新たな津波防災の位置を占めている。低地部の嵩上げの10mで志津川町の入り江の地域を、100年に一度の津波から守る役目を担っている。「千年の一度」と言われる巨大津波には対応はできなく、連続の大津波発生を臆病な私は懸念する。
本浜の同じ場所の10m嵩上げの上に、換地による土地を取得する。何をするのかは「被災地からの発信」で復興計画の意味を私なりに分析し、話し合う集える場所とし、南三陸町の「美味い物」を「美味しいお酒」と共に、意見を同じくする仲間と話し合いたい。
昨日は歌津にから気仙沼市本吉まで出掛けた。道路の本設の高架橋工事が随所で建設され、南三陸沿岸の道路再建整備はまだ時間が掛かりそうだ。
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歌津地区の「平成の森」では、歌津総合支所の工事で平成の森の南側の造成が進んでいた。仮設は生活者がまだ4割残っていると聞いた。歌津では写真のような仮設が多く見られ、共に暮らしていた住民は「寂しい」とつぶやき、再建への結果に「良かったです」とも話す。

三陸道の仮称「志津川TC」までの小森の開通が一年も伸びると言う。理由は登米ICからの志津川までの道路の盛り土で「亀裂」が数カ所(8カ所)見つかり、再建復旧に時間が掛かると言う。当初は年内、それが来年度完成となった。被災地でも住民が「復興道路」と位置付けていたが、それが伸びる事になったのを複雑に感じている。もう一つ解った事があった。登米市米谷と南三陸町入谷の中間部に、道路脇の工事現場があり、サービスエリア? かなと思っていたら、先行で利用できる入口とラジオで聞いた。完成が遅れる事とは関係無く「スマートインター」的に役目となるのだろうか。
今日は「復興祈念公園」の説明会がアリーナで午後1時30分から開催される。志津川地区町づくり協議会では議論が2回あったものの、南三陸町全町民で考える事案であり、どんな人たちが集まるのか楽しみである。しかし、パブリックコメントなどの住民意見の行政への提出のように関心は薄い。少ないのではなく「関心がない!」が実情だろう。住民の心情を考えない、それを利用した行政のトップの「したたかさ」を垣間見る。政治家はいったい誰の為に「まつりごと(政)」を行っているのだろう。自己保身とは思わないが、事件に発生する政治家の行動は「我欲」と「保身」としか取れない。

今日は印刷組合の「新年号」に、寄稿をするために原稿を書く。創業の三代目「創立百年」を記事にしたい。「継業」と「三世代目は家が傾く」など、これまでの家業を振り返ってみたい。
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三日目の志津川湾の日の出、今日もまた雲が水平線にあったが、それでも綺麗な風景が撮れた。

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2015
12/19

アワビ開口


今日も水平線は分厚い雲に覆われていた。水平線の日の出の撮影は自然が相手、人間の思うようにはいかず、根気が必要のようだ! 
今朝は6時半から「アワビ開口」となった。6時半では雲により海底の様子は開始時間には、ガラス箱からアワビを見つけるのは厳しいようだ。外気温度は「0℃」と海水温の方が暖かい。少しの風でも身体の体温を奪っていく。漁師さんの過酷な仕事での対価を、もっと確実なものとなるように漁協にはお願いしたい。町の仲買さんにも! 9時の開口終了まで大漁を祈願する。
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昨日は「信じられない事!」が起こった。父を10時30分の予約時間の10分前に「南三陸病院」に送って行った。その後で石巻日赤の1時30分の予約に合わせ出掛けた。そして3時半には帰って来たが、家に父の姿が無く、不安になったものの午後4時30分頃に「まだ終わらない」と電話がきた。そこからイライラが募り志津川病院の電話に「父が帰ってこない?」と電話を入れた。「申し訳ありません。」と職員が謝罪する。大丈夫なのと今後の運営を心配せずにはいられなかった。
新聞では90床となった入院患者受け入れ環境の中で、職員が足りないと「15名職員募集」が今月の25日までの締切で既に始まっているものの、その確保は厳しいと新聞報道は伝えていた。「身の丈に合った体制で」と以前から言っているが、台湾赤十字組合からの病院建設に22億の寄付と、病院の震災復旧交付金を合わせ50億を超える資金を、全て使い再建する病院と役場の健康保険福祉機関の設置に、過剰過ぎるとその大きさを思う。人口減少の中で患者の見通しと、病院収益利健全経営は「想定外」では済まされない。今後も維持費と管理費が病院の収入で賄えるとは思えない。
午後5時30分に「終わった」と薬局から父の電話がきた。父は92歳ながらまだ元気だし、私が居る事も精神的に安心なのだろう。真っ暗となった病院の薬局入口で杖を付いた老婆が立っていた。こんな姿を見ても何も出来ない。行政の「住民の命を守る」との空しい言葉が蘇ってきた。
石巻日赤の所用時間は3時間で、町の病院の6時間は在り得ない。患者対応のシュミレーションと、病院新体制の健全化など、被災地の病院体制づくりは、全国からの知名度も増し「医師の確保」の行政活動は出来たのかと思う。まあ16日からの外来の診療で慣れていないはあるが、1月からと言われる「透析治療」には時間の浪費とミスは許されない。せっかくできた透析施設に町民は「待ち遠しかった!」とテレビは答えていた。町民の期待を裏切る事ないよう住民サービスの徹底を図って欲しい。昨日の病院の診察時間の超過にも、患者からの苦情は院内では見られなかったと言う。
優しい町民が多い町「南三陸町」で、この体質が行政機関の職員の努力の欠如にも繋がっている。問題を町民が指摘し改善策を努力・考慮し、住民サービスの向上となる。町の職員は未だに被災自治体から脱却していなく、「早い震災脱出」を町民は努力しているのに、自治体派遣・復興交付金・過疎化指定の交付金・再延長の合併特例債の交付金など、町の財政支援は拡大する。それに引き替え住民の再建支援はもう終わってしまった。甘い政府の被災地支援は地方自治体の弱体化へと繋がって行く気がする。
外国人の医師や看護師の招聘や、厚生労働省などの政府への支援要請をもっと強く活動で訴え、全国の医師へのへき地医療への支援を切実な状況を伝え、町長が都道府県の医師会への頭を下げて回るなど、地道ちな活動が必要と思うが、人に頭を下げる事が嫌いらしい。

何も無くなった志津川の海、漁民の「ゼロから」の震災復興の労苦から学べ。総てが自己責任で前に向かっている。

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2015
12/18

6時45分


朝6時25分にサンオーレ袖浜に「日の出」を撮影に出かけた。私の後にも同様の目的で砂浜に三脚を立て撮影の習慣を待ち準備をしていた。
「6時45分」は漁民の人に聞いた日の出時間で、海岸に行くが水平線からは雲のため日の出は望む事ができなかった。6時を過ぎた頃から夜空が白み初め、30分には海上にはちらぼらと漁船が洋上を走り、カキ筏での水揚げに励んでいた。今日は氷点下、カメラのシャッターの人差し指も冷たい。
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はまゆり大橋からの日の出の写真ながら、綺麗な輝きの太陽が袖浜漁港の漁船を照らしていた。交差点では中学生が通学バスを待つ姿を見つけた。袖浜・大森・沼田から学生が集まり、バスに乗り込む場所がここだった事を初めて知る。
7時10分には家に帰った。近くに太平洋があり、静かな漁村が広がる「南三陸町志津川」は最高の住家です。Iターン・Uターンと共に、こんな「田舎暮らしはいかがですか!」と、人口減少からの底辺から、人口増を考える事への変換時期になってきた。

登米市の「みなし仮設」で生活する方と話ができた。「戸倉団地の整備が終わればすぐに家を建てたい。」と自宅再建の夢を語ってくれた。みなし仮設は一時期「750戸」くらいあり、現在は「500戸」とも言われている。意外と登米市にも多い事を聞いた。家族の多くも登米市の職に就いていて、登米市から南三陸町への住宅再建があっても「職場を辞められない」と言う。企業の誘致もなく地元事業所の再建も見込めなく、今後は高齢化や復興事業終了と共に、職場の消滅を心配せずにはいられない。
入谷地区の企業誘致の「東北撚糸」が休業と聞いた。震災後にホテルでの開業式典があり、若い入社社員が7名くらい紹介された。彼らはどうなるのだろう。またの想定外が町に起こっていた。

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2015
12/17

社会動向に学ぶ


南三陸病院が昨日から一般外来患者の受け入れが始まった。常勤医師は4人で他は大学・個人の嘱託医師が診察をする。志津川の東浜地区(沼田)にあり、海からは1.5Kと言う立地で、玄関の駐車場からは微かに海が見える。海の町「南三陸町」は、大震災により町で暮らす町民の生活の視野も大きく変わった。
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今年初めて「さかなのみうら」から牡蠣を買った。料理は勿論自分がした。初めは「牡蠣の酢の物」で、小丼いっぱいの新鮮牡蠣を味わった。またビールが美味い! 次の日は牡蠣の「御汁」にした。具は牡蠣と豆腐・糸コン・ネキで、千葉家の母の味を再現してみた。まずは父に試食を持って行き、以外と大きな汁椀を平らげてくれた。その翌日は「牡蠣雑炊」にする。ご飯とネギのみじん切りを加え、とき卵を最後に回し入れ、蒸らして出来上がりです。我ながら良くやると思った。「男子は厨房に入るべし!」と強く言いたい。今後、男一人の家庭が増える。料理をし美味しい物を作り食する。意外とこれが楽しく時間を費やせる。今は、生協から鳥の肉団子を買い「鍋」を良くする。野菜は何を入れても良いし、残り物をぶち込む、これが簡単で美味しく、ご飯と・汁物と漬物があれば「糖尿食」が成立する。ヘモグロビン数は現在「7」で今朝の血糖値は「140」とまあまあだ。昨日は石巻日赤の眼科で先生に「血糖値は維持されてますか?」と聞かれた。目は糖尿で失明に至るので、私には欠かせない質問だろう。今日は「さとう徹内科」で診察・処方箋を貰いに行く予定だ。

米国の世界一の大国さを知った。日本の最最低賃金は時給「790円」前後に対し、「1500円」だと言う。米国のリーマンショック後に失業率は「10%」となり、「0金利政策」を政府が実施した。そして今回、金利が「0.25~0.5%」へと金利の上昇を、6年ぶりに「FRB」が決定し朝の臨時ニュースで流れた。生活水準の高さがあり日本との違いを思った瞬間だった。地方の事業所ではあり得ない賃金額がここにあった。

最高裁の女性に対する違憲の審議が下された。別姓は現時点では合憲とされたが、離婚後6か月間の再婚禁止は、長すぎると指摘し「100日」とすべきと審決がでた。
私の心配する「家庭の崩壊」の中で、また家族の自殺が発覚した。46歳の夫が「妻を亡くし耐えられない」と、20歳代の二人の娘を道ずれに「練炭自殺」をして、娘二人が死に父親は死を免れた。二人の20歳代の娘達も母の死から抜け出せなかったと言う。「何で」、子供は生まれた時は一人で、生きる術を両親が教えて成長し、新たな生活を作り上げるものなのに、ここにも両親の教育の欠落がある。「生きていれは喜びが生まれる」。こんな事を家庭勉強で教え学ぶ事は出来なかったのか、私は高校から社会人として家業ながら仕事を引き継ぎ、苦しい時代もあったが、連れ合いがいなくても楽しく生きて来たし、今後もきっと楽しい事があると今を生きている。

今日も忙しく時間に追われる一日となる。朝、5時半から楽しく一人で働いている。

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2015
12/16

i二人三脚で多忙の日々


業種を拡大して震災復旧の支援事業拡大の裏には、やはり多くの仲間が居ました。

昨日は仙台の「勝山館」で宮城県印刷組合の支部長会議が開催され、新執行部の改選の会議と、理事会に引き続き「懇談会」に出席した。今年の県印刷工業組合の「デザインコンクール」の結果と報告があり、大阪から北海道のデザイン大学・高校の出品があり、若き印刷業へのデザイナーの卵たちが、自分の才能と英知を発揮し、自分の希望する夢に向かい努力する姿を見た。新感覚や斬新なデザインの新たな形に触れ、日本の印刷技術の世界に誇れる印刷業界と、衰退から躍進の変革が進んでいる実感を得た。私は少しの資金提供や組合のバックアップができればと、今後もできる限り活動を続けたい。組合のデザイングランプリも16年を迎えるが、こんなにも長く続く事を企画した副理事長は想定していなかった話す。まずは「何かをする事」から始まり、それが結果的に大きな物を生んでいた。先輩に「先輩」と言われショック! そんなに見た目が老けている事を実感しました。
勝山の庭の紅葉のライトアップに見とれ、フランス料理の食事マナーを守り、初めての皆さんとも酒の勢いで会話ができた。収穫は「蔵の匠」?のセリ鍋が美味いと聞いた。仙台駅のエスパルの中にあるとの事だった。是非、話の種に行って見たくなった。終わってから「仙台イルミネーション」を見に、勾当台公園と一番町に向かった。7時半でも若いカップルが町に溢れ、静かに色とりどりのイルミを見つめていた。人ごみに慣れない私の行き先は「そば屋」か「回る寿司」で、小さなスペース埋め尽くすお客の多さに、活気と元気を貰ってきた。
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また信じられない教師が愛媛県松山市にいた。40歳代の男性教師は、中一のふざけていた男子のほっぺをつねり、そのままトイレに連れて行き、カギを掛け平手で18発、「殺すぞ」と威圧した。ここまでやって置いて「信頼感がある」と言う。こうした事を「普通」と思い、処分が至らないように親に電話で謝罪し工作までする。校長も「普段から指導をしている」と、シャーシャーと語る姿に学校教育現場の衰退が進んでいると感じる。常識を知らない大人が先生と名乗り、罪を改め学習を怠る現状は氷山の一角と私は思う。

今日は「石巻日赤」の9時から診察で、8時には病院に向かう。失明の危機からの脱却は、限られた人生の視野を広げる機会を作ってくれた。左の視野は多少狭くなったが、心の目と正義の目を広げ、今後も町の負の部分の解消に努力していきたい。綺麗な物を見て、美味しい食べ物を食す事は、生きている証と私は捉えている。

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2015
12/15

27年12月14日南三陸病院オープン


昨日は午前中の朝から救急車を5台も見た。「病院ができたら病人も増えた」なんて思ったら、登米市米山の志津川病院からの入院患者の搬送だった。90床の入院ベットの確保があり、施設からの病院での入所者の受け入れも、介護施設の病院の前沢まで行かないで済む。1時間40分は志津川から掛かり、家族の死に立ち会えなかったという家族も震災後少なくは無い。母は米山へも肺炎で1か月も入院したし、石巻仙石病院にも1か月入院し、見舞いや洗濯物を取りに行った事を思い出す。震災の混乱が少し落ち着いた1年後ぐらいの事だった。
昨日は荒砥の施設に支払いに行った。母はベットでいつものように横になるだけで、声を掛けても横を向き、父が顔を自分に向けて「わがっぺ?」との問いに、静かに「んー!」と言うものの、自分の判断ではないようだ。町に病院が出来た事で様態の異変があっても、直ぐに駆けつけられる事ができる。「感謝です。」三陸沿岸で被災した6つの病院で一番最初に再建となった「南三陸病院」です。
病院施設と町の福祉課が併設され、「みなさんどおり」が中央に配置となり、町民の憩いの場所とした。昨日は背広姿のサラリーマンが丸テーブルでパソコンに向かっていた。広々としているスペースの意味があるのかとも思った。町長は病院で亡くなった患者・職員「73人」に報いる為にも、早く立派な病院の建設に取り組んだと言う。
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国立競技場の建設案の2つが示された。外国の建築家ザハ氏の設計に3000億もの、予定価格の倍の建設費で建設計画のやりなおしとなり、今回の募集ではデザインと施工者の共同での提案で、約1470億のA案B案のデザインが示された。私の驚きは「隈研吾氏」がその一人にいた事と、両方のアイデアに木材が使われていた事にある。
我が町の三陸産材のブランド化があり、この程「国際規格認証」を得てオリンピックへの参入を構想していた。志津川市街地のデザイン構想は隈研吾氏によるもので、町が進めていた再建と復興に、関わって来た人と進めた林材産業の発信があり、夢のようなオリンピックへの参加のチャンスが生まれた事となった。偶然かも知れないが、震災の象徴としての南三陸町の再建を隈氏が手掛け、UR都市機構との関わった「ゼネコン」との繋がりもあり、国立競技場のコンペに参加出来た環境が整った事もあると思う。
国民に聴くと、「日の丸のイメージの屋根が良い」や「緑と木材の斬新さが良い」の中に、「つまらない!」と言い切る男性の意見も納得する。ザハ氏の現実離れしたデザインに比べると「普通」の建築物はつまらないと誰もが感じる。以前の「国立代々木競技場」から見れば、将来に残すべき建築物はザハ氏のアイデアが、後世に残すべきものとして最適な物に感じる。建築内容を変え3千億から「2550億」に訂正したが。世界に誇れる日本の競技場の建設は、将来の観光客の集客にも繋がる気がする。ボツとなった!
何を重視すべきかは「総理の英断」による。1000兆の借金も日本の世界への信用があり、1千億の額は震災による人件費と資材の上昇によるもので、ザハ氏のデザインから見れば、今度の二つの案は発信力に欠けていると言っても過言ではなく、どこにでもある気がする。


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2015
12/14

今日から南三陸町病院 オープン

271213ブログ
先週末から現在の診療所と米山の志津川病院の引っ越しがあり、ケアセンターと南三陸病院の今日の開業となった。
病院の開業にあたり複雑な思いがある。「南三陸町なのに志津川病院はおかしい」と町長に質問するが、志津川病院の大学病院との連携もあり、まだ考えていないの答えだった気がする。また、透析病室の開設も患者の要望があり、その活動を支援し走り回り、多くの署名を頂き町に提出した事を思い出す。4人の透析患者の「将来の患者の為にも新しい病院で透析できるようにしてもらいたい」との要望書を、議会・町長に「協力議員」として、提出した事を思い出す。
当時、書類の連名の中に志津川の畠山さんは「待てない」と、仙台への移転をした。入谷の西城さんは病院の完成2年前に亡くなられた。要望書から1年経たずの事だった。戸倉の阿部さんは来年の3月完成の「戸倉団地」の住宅建設が「すぐに始まる」と言う。歌津の三浦さんは住宅建設を1年半前頃に終えている。
四名の要望提出者の思いが叶った事となるが、状況は色々と違う。「将来の患者の為に」との希望を町で受け入れられた事はありがたいが、透析の先生は見つからず、現在の病院の先生に研修を受けさせ、南方のサンリクニックの宮崎先生が支援すると、以前体制を聞いた事がある。先生の招聘は現在も厳しい状況にあり、古い先生方に頑張ってもらい、若い大学の先生が支援してくれる。また、週一の先生が専門部署の診療を行っている。父も心臓のペースメーカーの手術もこの先生の指導があればこそだ。感謝している。
透析は一か月に40万の保険の適用となる。病院の診療・処置により病院に、通院する人数分に40人前後と思うが、収入1400万円ながら診療器機と先生と病院の維持は今後も掛かる。
「病院大丈夫なの、あんなに大きいの造って、維持費はどうなるの?」と、町民の心配の声を聴く。問題はあれど「町民の命を守る」は行政の役目として当然ながら、今この財政難を懸念せずにはいられない。これまで一か月に「3千万赤字で町の補てん」で維持をしてきたが、また維持費が増加する事で病院を存続できるのかが心配だ。
町民が考える希望と、行政の財政難のミスマッチとならないように町には頑張って欲しい。どんな町の健康維持体制になるのか、町長の手腕に期待したい。

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2015
12/13

自然の力を見た


最大級のエルニーニョが赤道上に発生している。赤道の洋上の海水温度は「30℃」と言い、日本近海の海水温が「2℃」も上がり、海の変化が進んでいた。日本海の越前カニ漁もエチゼンクラゲに変わり、今度は軟体生物がその網を覆う。サンマ漁も漁体が小さく、郵便局のユウパックも最終を待たずやめた。秋サケの回帰も昨年は6割に留まり、気仙沼市小泉川の採卵も何とか「1千万匹」になったと言う。南三陸の目標の1千万匹は達成できないと、4年後の秋サケの水揚げの減産を懸念する。

オースリラリアの「エアーズロック」のような山ながら、これは伊里前の市街地に積まれた土地造成の残土です。これが市街地の嵩上げの基礎となる。
次の写真は志津川市街地から戸倉折立の入り口で、以前から幾度となく発信していたが、波浪による波が国道45号を覆い被さる。ちょうどこの場所を通った時に、「バサン」と波が車を襲った。運転手である私は経験があるので、準備心もあるので驚かずに通行出来た。観光客が時期を波浪警報を問わず、我が町を訪れる。町の役目として「交通の危険解除」は当然ながら、あの震災からこの場所は何も変わっていない。
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行政も県の河川事務所も何の対策無にここまできている。事が起こってからでは遅い。

ある仮設の自治会長さんがお風呂で「孤独死」していた。こんな話しを昨日聞く。物資の配達で一回お目にかかったが、元気そうだった事を今でも覚えている。こないだ道路に掲げられた葬儀の名前が気になってしょうがなかった。以前から気軽に声を掛け合う仲の人だった。震災となりめったに会う事が無く、疎遠となっていたが、戸倉地区の大恩人の息子さんだった。まだ65歳と言うが「自分の死期を悟っていた」と地区の方から聞いた。「安らかに眠って欲しい」「合掌」です。

被災地に自然の脅威が未だに続いている。と先輩と話した。心への影響と生活の変化による身体の異常と意見は先輩と同じだ。周囲の人達も生活の為の変化が襲い、行政はその苦労を知っているのだろうか。住民への精神的ケアを本当に行っているのだろうか。私の仲間だけではないと思う。

この3世代家族も登米市に移転していたし、また新しい3世代家族が登米市に住居を構えると決めた。

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2015
12/12

父の背中が小さく、しかし偉大


放射冷却の為、朝の寒さが身に染みる季節となった。
そんな朝、外の流し場で台所の流しのゴミ受けを洗う父がいた。「昼間やればいいのに!」に、無口で? 聞こえないのか無心に洗い続けていた。
昨日は父の兄弟の一人健在の弟が家に来た。食道の何かが気管に入ったのか、咳が止まらなくなり、3分もせき込んだ様子に、父が背中をさすって上げた。「いいがら!」と叔父は制止する。
父と叔父には互いに私の小さい頃から「確執」があった。父は次男ながら2代目として会社を守り、叔父は40年も船の機関長として働く、環境の違いと立場のせいと二人で会話する事など以前は無かった。父が75歳・叔父が55歳の頃から、そのわだかまりが解けて来た。お互いの環境を理解し、何も言わないで互いを尊重し気遣った。老い・病気も経験し、生きる事が何なのかや、これまでの「わだかまり」の意味がたわいもない事を悟ったからなのだろう。共に高齢となり静かに「ゆったり」と余生を過ごして欲しい。

最近考えさせられる事を聞いた。50歳・60歳とまた若いのに、「余命」「不治の病」「前途」など、信じられない言葉を知る事となった。競争社会の中で共に生きてきた同志の病気に唖然とした。自分の置かれた状況なら、どんな気持ちで今を、これからを生きて行くのか、その心情の持ち方を思う。

私は昨年の年末年始の「失明の危機」を、東北大学の丸山先生に救われた。この時の心境を決して忘れない。会社どうしよう、私の守るべき事はできるだろうか、など、「どうこれから生きれば」を考えた。これを思うと今の状況は「何も怖くない」がある。生きていれば良い事がある。
「小さな旅」を朝見た。筋委縮症の御主人を15年以上も看病している妻の姿に、私には驚きしかない。共に家庭を作り「夫婦の絆」の深さに圧倒された。現在、母の施設入所と父の家の世話など、今後を思うと大変ばかりを思い、どんな心情で対応すれば良いか、まだ心の持ち方を考えかねている。60年間をともに志津川で生き、40歳まで私の支えであった両親、誰が守るかは私しかない。まだまだ共に生き送れる時までは。


朝7時、残った「牡蠣」をお吸い物にしようと、向かいのコンビニで豆腐・糸コンを買ってきた。「おはようございます」と駐車場で声を掛けられた。誰か判らないが女の人で、挨拶の言葉に一人ではないと、心で思った。決して私には出来ない「技」です。

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2015
12/11

これ以上の政策のミスは許されない


昨日も「防災教育旅行」らしきバスが二台も防災庁舎前にあり、学生服の生徒の一団がいた。その前には塔婆が錆びた鉄骨に縛り付けられた姿があり、この防災庁舎の姿を「観光旅行」の子供達はどう思うだろうか。

岩手県大槌町の行政庁舎は解体を決定し、解体され石巻の大川小学校は地区民と住民の6割が解体を求め、地区外の意見の4割が「保存」を求めていた。「もう見たくない」との遺族の声が現在も続いていた。
「いつまでも被災地じゃない」があり、「被災地の復興を見たい」と町民も支援者も意見は色々だ。大津波で有名になった町には、観光バスが昨日も観光拠点のポータルセンター前で、職員が行け入れに大わらわの光景があった。年末の商品の製造に中民が間にあわないとの嬉しい悲鳴も聞く。私の行動と発信は自己の生活の疲弊加速の、妬みなのだろう。
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「赤いツリー珍しいでしょう」と店員が声を掛けてくれた。町を歩くと声を掛けてくる以前の町の様相は何処にもない。「おじゃこ飲み」は近所の交流として欠かせないが、こんな状態の町民の交流は何時になるのか? 現在は「交流」の言葉が他人事のように聞こえてくる。12月議会で「行政区の再編」が議論の場に上がっているようだ。28年度で住民の住家の整備が終わると言うが、働く場の無い南三陸町に戻って来ても、生活の糧に何があるのだろうか。若者は近隣市に働きに行き、生活の大変さばかりを痛感する。
昨日は来客が夜8時近くまで3人を待った。気仙沼から石越・豊里から1時間の職場で働き、その通勤の大変さに「私はできない」と、感謝の会話をした。

直木賞作家の野坂氏が87歳で亡くなった。「蛍の墓」は自分の戦争体験の作品と言う。金権政治の代名詞となった「田中角栄」の選挙区でも、選挙に立ち敗れたものの、参議院議員となり自分の当時の政権を批判した。最後まで自分を貫いた人間がまた一人亡くなった。脳梗塞で倒れ10数年も妻の介護での生活だった。心不全で亡くなったと言う。悔いの無い人生だっただろう。

昨夜、「老衰」についてのNHKのドキュメントを見た。母の今とダブッて見た。静かに細胞が劣ろえ眠るように死んでいった老婆、「もう頑張らなくてもいいんだよ」と医師は言う。大好きな孫に看取られ、手をしっかりと握り旅立った。
私は「母を看取る」ことが最大の今の使命と捉えているが、「どっちが先」との懸念を持っている。

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2015
12/10

多くの町への支援の姿を残そう


震災後の支援は町・地区・組合・学校・避難所など、多くの町民の為に世界・全国から、金銭・物品・精神的な支援が贈られている。しかし、表に出る事はまるで少ない。
今回の南三陸病院の建設に22億円の、台湾赤十字組合から義援金が贈られ、新病院の屋上にある「緑十字」は、その証なのだろう? こないだ広島・山口の方々の支援があり、戸倉小学校・戸倉中仮設に行った時に、仮設住宅の片隅のプレハブにこんな看板を見つけた。豊橋市ライオンズクラブで、戸倉地区の獅子踊りの道具が納まっていた。目立つ事を目的にしない支援があり、これが全国からの声を出さない応援なのだろうが、「支援の感謝」を伝えるべきと思う。志津川中学校の震災時の感謝の冊子があり、その最終ページには総ての学校への支援者の団体名・個人名が明記されていた。町への義援金は「名前を出さないで」の声に応え、議会でも好評されず、一部の行政職員と幹部しか把握していなく、完全な所在を使い道などは、町長と行政だけが知っている。「不正があってもわからない?」と、震災後に議会でも議論されたが、公表は支援者の意向とて表にでる事はなかった。感謝の気持ちを支援者に伝えたのか? などの議員の声も当然と思う。数十億もの町への直接義援金は、町民に均一に配分されたと理解するしかない。
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話しは逸れたが、志津川高校の戸倉出身の生徒が、高校の地元の伝統芸能の「高校芸能大会」で、宮城県一位となり上の大会へ進んだと新聞に掲載されていた。生徒の伝統に対する限りない活動と、伝承する指導者の賜物と、素晴らしい結果に拍手を送りたい。
昨日の新聞にも志津川高校の新たな活動があった。南三陸町の産品や自然、そして震災を将来への継承にと、「かるた作成」があり、地元の小学校に寄贈したという。これまでも「モアイ化計画」が高校の情報ビジネス科での活動があり、缶バッジ・マグネットなどの開発・販売で、町の巡回バスの購入に繋がった。
我が母校の同級生も大津波にあい、卒業アルバムも流出してしまい、来年の1月30日の還暦祝いに合わせ、「志高アルバム復刻版」を作成した。中学校のアルバムも一緒にした。表紙には震災前の志津川市街地をカラーで載せ、その裏には今の志津川市街地の嵩上げ風景を入れた。みんな喜んでくれるだろうか? 作成費の2千円で希望者に渡す。原価で商売させて下さい。

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2015
12/09

今こそ! やるべき事を実施して

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昨日も「また葬儀です」と言う方があり、「この場所は何処にあるの」と友人が電話をくれ、葬儀の場所を聞いてきた。町の高齢化に伴い亡くなる人が続いている。生まれる赤ちゃんの話も聴くが、ダントツに死者が多い。震災復興の途上で行政と町民の、平時の力と活動の低下を否めない。

「結婚したーい!」の私のブログから、以前まちの「おらほの町づくり事業」の、活動チラシを見つけた。22年の事業開始があり、30万の事業費で活動を始めた次の年の3月11日2時45分の、3分間の震度4の地震で、30分後に大津波が襲い、町が壊滅的な状態となった。事業は自己出費での年度末の事業費が給付される。震災で全ての物を失い、資金の立て替え分の負担は大きく、震災後の約6か月後に事業報告書を出し、事業内容により5万が減らされ事業費が町から交付された。結婚の仲介者も少ない中で、行政の考えも結婚の難しさは個々の理想に在り、仲介も「ミスマッチ」など、なかなか結婚成立は厳しいと言う。
戦時下の混乱期、生活の為・生きる為に多くの人が、見合いで結婚し国の為と自己を投げたし、日本の為に国民が一丸となった。自分の町が消滅すると言う一大事! 自己を捨て町の為に生きる事を考えれば、町はこれからも生き続けられる。「好きだ」「嫌いだ」よりも、家族の為に先祖の為に「血」を残す事を考えてはどうだろう。私は60歳、子供をつくる事は難しいが、町の為にこれからも、志津川で生き続けたいと思っている。
「隣りも40になる独身がいる」「この地区も独身者がゴロゴロいる」、こんな話にもう一度「結婚への活動」をして欲しい。私の知人も前向きに現在も活動を続けている。
人生80年と言われる時代、財産とか世間体よりも「喜びが2倍に・悲しみも半分に」、これが二人で暮らす事の最大の意味と思っている。来年度からまた事業を始めようと思うが、町の支援は受けずに楽しく末永く婚活支援をしようと思っている。
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三陸鉄道の再建での幹線自治体の盛り上がりは言うまでもない。気仙沼線の歴史の本を倉庫で見つけた。先人の夢と希望を載せて実現し、関わった方々の喜びの光景を知る。震災後の復興計画には「鉄路の復活」との言葉があるが、町長は「鉄路の復活は現実てきではない」と、早々あきらめ「BRT」の決定をJR東日本に伝えた。700億の再建費は人口減の三陸沿岸の鉄路整備は、JRにも負担が多く、町の鉄路復活も血の滲む努力と時間が掛かる。震災4年後での諦めは、JRの赤字路線への投資の回避と、町のBRTの整備をJRから引出す支援金が、その思惑に見え隠れする。大会社と政治家のズルさばかりを感じる。将来に夢と希望を商店主や観光で生きる人たげでなく、町民全体の為になる事を厳しいが、行政には取り組んで欲しい。

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2015
12/08

聖なるなる海の恵み


今日も夜3時30分の「日テレニュース」で目覚め、「オハ4」を見て何気なくNHKを見た。
「秋サケの不漁」の報道があり、南三陸町の海が画面に現れ、荒砥地区の高橋くんの鮭漁が光景に映し出された。網から生きの良い「秋サケ」が元気に飛び跳ね、大きなタモですくい上げている彼が勇ましかった。漁は以前の半分でこの日は20匹が水揚げされていた。先月末の「秋サケ祭り復興市」の風景には、鮭鍋が映し出され、ハッポウ箱に1本買いする詰め込みの映像があった。さんさん商店街の魚屋さんの鮭を捌く姿もあり、店主は「昨年より2割高です」と話す。お客さんも「鮭が好きだから」と買い求めていた。
南三陸町にはこないだ「鮭ふ化場」が完成し、今年の放流目標を1千万匹として「孵化」「生育」へと進められている。しかし、現在までは300万匹に留まり、内陸の大崎市から「60万匹」を購入するなどして、目標の達成に努力していた。三陸沿岸の川への鮭の遡上も減少し、多くの漁協で稚魚の確保に頭を痛めている。震災5年目を迎えても「秋サケ漁」の復活へはまだ先が見えない。今年の放流数が4年後の水揚げに影響が現れる。震災後から不漁が続いている事は、水産の復興は設備が出来ても、自然の回復はまだだと言う事になる。
地元水揚げの鮭は、雄雌の差はあるが店頭表示は「1本2千円」とあった。私が震災前にメス鮭を買った時は「1本2500円」だった。イクラが入っている雌は値が張る高給魚でもある。
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仙台うみの杜水族館に行った時に、私の一つの目的に「クラゲ」があった。海に行けばいっぱい見る事の出きた「水クラゲ?」、ゆったりと泳ぐ姿に魅了された。秋田?の水族館はクラゲの展示だけで、年間の来場者が10倍にもなり、閉園の危機を乗り越えたと言う。時には人を刺すクラゲながら、その姿に多くの人が癒され、その展示への人の英知が、何気ない生き物を観光客誘致へと繋げさせた。

昨日の報道で「巡回バス来年度から有料化」と伝えていた。まだ町内外に散らされた「仮設」で暮らす人も多い中で、高台移転の住居確保が終わらない住民の生活負担とならないか心配だ。志津川まちづくり協議会でも、「巡回バスの有料化・存続」の議論も成されたが、「乗車100円均一」や「観光客も乗れて200円」など、議論が2回あっただけで、議会で有料化が町からの議案として上がる。年間「6700万円」が掛かっていて、今後は委託事業として業者がその価格を決定すると言う。
町の震災後の被災住民支援は決して手厚くは無い。東松島市では30年間無償での土地提供があり、気仙沼市では100坪の借地料を1万円と言う。住民の流出阻止の対策として安価な居住地提供をしている。親が地元で暮らし再建の支援を子供がするにしても、大きな負担が掛かり、互いの生活を一つにと、町を離れるケースも少なくい。町への疑問がまたフツフツと再燃している。
パホーマンスの大好きな自治体になり下がった。自分の決断力と英知でこれまで町運営をしてきた、「志津川町」「歌津町」の先人達に恥じない町政に戻って欲しいと願うばかりだ。町民の皆さん近隣の市町を良く見て欲しい。話しても「そんな余裕はない!」と言われそうだ。

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2015
12/07

食卓には南三陸町の魚が一番


一日三食の普通の生活を励行している。私の以前の本浜町には自宅の向かいに「及川魚店」があった。母は毎日のように向かいに世間話とお茶をしに行く、帰りにはその日のおすすめの魚を買って、食卓を飾っていた。今なら腹に子持ちのカレイ・ナメタがある。
魚を買うのは現在、「みうらさかな」と入谷の「及川魚店」と決めている。商工団地の沼田地区にもあるが、未だに買った事はない。こないだは「真カレイ」が店頭にあった。子持ちとなり初めで少し大きく4つ切にしてもらった。少しの贅沢で「1350円」も使った。夕方から出かける事もあり直ぐに料理に入った。鍋に水・酒を入れ沸騰した所にカレイを4切れ入れ煮込む、そして醤油・砂糖でまた煮込み出来上がりだ。しょうがを入れた方が良いが、無かったのでそのままながら、新鮮なので特別な臭みはなく、上手に仕上がった。
父はその晩に食べ、次のお昼に食べ、今日も朝から「こいず食ってもいいが!」と言う。地元の煮魚や焼き魚が大好きのようだ。4切れの内に3切れを食べ、残った1切れを私が食べたが美味かった。また、獲れたての魚を買ってきて煮魚にして、父の喜ぶ顔を見たいと思っている。

この間、仙台に用事で行った時に、無性にウナギが食べたくなった。議員時に先輩から利府の「南部屋敷」の「うな重」をご馳走になり、上手かった事を今でも覚えていて、帰りに「1800円」の特上をたのんだ。しばらくぶりの贅沢をしてきた。生きている内に自分も美味しい物を食べておきたい。
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町の総合戦略会議での最大の問題の「人口減対策」があり、若者たちの移住定住の家賃補助や、子育てクーポン券配布などを実施する。「今更!」と、現町長もこの対策は効果が薄い事を知っていても、何かをしない訳にはいかない。
将来の推計に現状の14000人から、15年後には10900人となり、25年後は9400人、45年後に7200人と、以前減少予想からまた増えた。消滅都市に向かってまっしぐらだ。政府の人口減対策の交付金も限界が来る。「頑張る事業所は応援する」との、町の基本的な考えがここにきて自分に影響が及ぶ事となる。ここまで来た責任を誰が取るのか。「取るのは貴方です」、「やーめた」は済まない! 震災後の初動の、防災庁舎での多くの職員の死と、行政からの避難呼びかけが最後まで出来なかった事と、合併での新庁舎建設を実行しなかった事が大きな理由である事は間違いがない。

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2015
12/06

知らないうちに我が町が変わる


家族の事と会社の事そして自分の健康を中心に、南三陸町志津川を考え、時間があれば町を探索するが、平日の工事現場の状況を写真で撮影し発信する事は、トラックの復旧工事の往来と、う回路の再編との中で運転もだが安全な復旧中の場所は危険がいっぱいだ。
昨日震災前の「大森町営住宅」の跡地を見て来た。防潮堤は着々と工事が進むが、まだ時間が掛かりそうだ。新しい市場の建設も年度内の完成と聞いたが、年明けとなりそうで「初セリ」は新年には間に合わないだろう。大森地区の震災を逃れた場所には、新しくう回路ができ工事の進捗での道路がまた整備されていた。

志津川の水産業の再建となる「造船所」も大きく整備が進み変わっていた。産業再生は加速しているが、住民の住宅再建は観光地・水産加工場と共に進められ、この部分は確実に期限まで嵩上げ造成整備は終わるが、同時期に住宅地の整備があり、引き渡されても住宅建設に入っても、建設は順番で遅い人達は3年も掛かるだろう。最終が29年3月であり30年度に入り、震災からの復興再建までに被災後10年の月日が掛かる、そんな南三陸町民も少なくはない。「大変な町」と私には写る。
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朝から電話がきた。「マイタウン情報の件なんですけど」と言う。復興祈念公園の整備についてだった。「築山はどんな用途で整備されるのですか」と言う。先月の志津川町造り協議会の中で、「避難が遅れた人が避難する場所」と定義づけだった。「そんな避難で丈夫なんですか?」と話す。当時地震から30分での大津波から、「住民と観光客が避難できるのだろうか?」との疑問は当然だ。町民も約800人が亡くなっている現実で、津波体験をしていない観光客が、迅速な避難行動がとれるのだろうか。6mの大津波警報の「津波増幅」が16mで最高位で戸倉地区の25mにも及んだ事を、行政は把握しているのに、津波防災の町で「職住分離」の政策は、被災地支援の観光客の有事に対応できるのかと言うと難しい気がする。
震災時の避難予定他の海抜8~10mの場所でも、多くの町民が死んだ。市街地の整備には「避難道路確保」が第一で、「ショッピングモール」と「復興祈念公園」からの津波避難道の確保と整備経路は完全かと言うと厳しい。住民と観光客を完全に守る整備をしない「南三陸町」は、震災復興の町としてアピールする事は間違っている。

「また想定外」と言う事はもうできない。「人の命は戻ってこない!」、この最大の目的に、またしての町財源の確保のための、観光と町整備を主体のトップの考えに町民が「ノー!」と言う時期に来ている。今月20日午後1時30分からアリーナで、「復興祈念公園」の住民説明会がある。また、広報の同じページにまた「パブリックコメント募集」があるとの告知、防災庁舎の保存是非でも町民の14%でも住民の意見で、そのうちの6割の「保存」とする意見に、町長の決定に疑問ばかりだ。最低でも町民の40%の意見集約があり、「住民の意見」として成立しないと私は思う。こんな結果に議会での行政への反論があっても当然だか、与党が半数以上を占め「議会制民主主義」の元、政治戦略による議会体制があり、町民の代表の決定に、異論があっても疑問視しても、「町民の自己責任」である。

【 未分類 | CO:0 | TB:× | 12:19 】

2015
12/05

災害公営住宅の最終局面に


今日も朝6時半、事務所のパソコンの前に座り、一日が始まる。一昨日前の「還暦祝い準備会」で、ビール2杯と焼酎1杯なのに酔った。酒にも弱く体力の回復も遅れる年齢となった。

昨日は同級生の震災後の住宅移転に伴い、住所が判らなく直接職場に案内を持って行った。その後で5か月ぶりだろうか、歌津伊里前の被災地から高台の「歌津中裏」の場所を見に行った。被災者の住宅再建も始まり、災害公営住宅も2棟の大きな建物もあり、その他に集会所か「福祉モール?」らしき建設物が、横を走る道路沿いから見られた。とにかく、志津川地区は情報が復興ニュースで知る事ができるが、戸倉・歌津地区の状況は知る事ができなく、報告や発信ができないでいる。
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戸倉地区の狭く感じる範囲に「災害公営住宅」と「災害住宅戸建」が、土地引き渡し予定の年度末で完成し、28年4月から住宅再建ができる事を心待ちに被災者はしていた。「年賀状に住宅の事入れた方がいいべが!」が、被災者の早期住宅再建の気持ちが判る。災害公営の志津川以外は、年度内の予定だが、小森の「志津川インター」も年内が年度内と予定通りにはいかない、自然の状況の影響がある。

文化勲章や名誉町民の受賞祝賀会が今開催されている。名誉町民の決定は「議会の承認」が必要で、町長が提案し議会で議論され決定したと聞いた。私の知る限り「サンオーレ袖浜」の整備に尽力した。しかし、反発する人もいた「何で!」と、町民総てで推挙するのは難しい事で、町民の全てが大喜びする人は、我が町にはいないだろう。政治の絡む人間は必ず敵がいるからだ。町を離れ町外での実績者で、日本全体で知名度のある方は町には居ないが、居るとしたら「佐藤仁町長」しかないが、町長選挙となると接戦になるのは政治家だからだろう。

昨日も年末の為か色々な来客があった。我が社の私のホームページも年内の更新をすることで、現在、制作している。震災後の町の歩みを掲載している。時間があったら「千葉総合印刷株式会社」で検索して欲しい。お出かけ下さい!

【 未分類 | CO:0 | TB:× | 07:28 】

2015
12/04

西へ西へと大移動


登米市の三陸道のインターから西に道路整備が進む。東北道への連結と新幹線の「栗駒駅」までのアクセスの、時間の短縮へと工事が進んでいた。
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こないだ町の重鎮に「朝日製糸」の事を聞く。元の志津川小学校にあり、現在は国道398号の東岸の橋脚下から盛り土の部分に位置していた。以前の町の財閥と言われる10軒の方が関わっていた。震災前の大長・佐周・佐久・田中さんがそうだったと言う。現在は皆が町を離れ他の町で暮らしていると聞く、土地持ちでもあり力のある方々が、町の復興の中心となり再建のトップを走って貰いたかった。しかし、現実は昔の隆盛も消え、復興交付金・義援金・支援金・寄付金などによる、行政の成すがままで、町長の名声だけが報道で踊っている。悲し過ぎる現実を前に将来への期待だけが、私の復興への希望から輝きを無くしつつある。
登米市浅水小の向かいには10数軒の志津川町民が移住したと聞く。それも志津川の名士ばかりの名があった。鹿賀野地区だけでなく、登米市全域に志津川の人達が移転をし、高齢者と町でしか生きられない人たちが町に残った。「防災庁舎の在り方を議論したい」の若者たちの声は途絶え、防災庁舎を中心に「町の観光依存」へと、町の復興は集中から安定期へと進む。昨日の来客の話しです。

父親はネズミにかじられた布団にガムテープを貼り、来客もある部屋に万年床に近い状態で暮らす。叔母が「恥ずかしいから買ったらいいっちゃー」と兄に忠告をする。「寝れればいいから」と父は言う。さすがに叔母に言われ昨日に津山の呉服屋で買ってきた。さぞかしフカフカの布団で気持ち良く眠れただろう。「父は無駄な事は良いから」と言う。生活はコタツに横になり眠ってしまう、こんな一日に生活の不安定があり、テレビの代とイスを一昨日買い父の環境を、誰が見ても恥ずかしくないように努めた。
今週も仙台と水戸から父の来客がある。「疲れるなら止めれば良い」とアドバイスをする。人との繋がりは同じ建物の中に居ても親子の会話が少ない事を思えば、良い事と思うが、「疲れる」を最近は連発する。父の生活に目配りし二人の生活を楽しもうと努力している。

昨日は「還暦祝い同級会」の第二回目打ち合わせ会を、志津川仮設商店街の「松原食堂」の同級生の店で開いた。会議を早々にビールで喉を潤し、報告で着実に来年1月30日の開催の同級会に向け進んでいる。住所不明も多く被災しバラバラになった我々の仲間の集まりは、事務局の頑張りはあるが、全員への案内通知は難しいようだ。
登米市の方々に「気仙沼線再建」について聞いた。40代女性はBRTと長距離バスで十分と言い、60代の女性は「開通までの取り組みの姿を思い出すと寂しい」と話す。津山の駅の寂しい姿に本当にこれで良いの?
 これまで努力した開通した「気仙沼線」を、廃線にして町の先人に報いられない空しさは無いとと思う。

今日は金曜日、何をしようか。

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2015
12/03

また遺跡がでました!


私よりは5歳位上だろうか。震災で全ての物を流された農業家の方からの電話だった。私の親戚が数10年も守ってきた「おだまや遺跡」から遺跡がでた。
私の親戚の近くに家を建てたいとの方の要望も、遺跡指定の場所で建築許可が下りなかったと言う。そんな場所でありながら、被災地農地圃場の地域がこの周辺にあり、作業場と育苗の施設建設は農地に近い場所の高台選定で、まさかの遺跡出土となった。「壺や石器が出た」との事で、「困ったや!」との電話がきた。
「新井田遺跡」も高台整備も一番遅くなったのもこの理由がある。国・県からの遺跡調査員を迎え、総ての調査に記録には一年掛かるだろう。農地債権者の「やる気」を削ぐ遺跡の出土は、志津川中瀬町の農地再建の遅延となる。「困ったや!」この言葉しか出ない。知らんぷりが出来ない人間だからで、「なに良いから」との「輩」も多く、それが通る被災地の無法状態もある。
昨年は眼科で入院の連続だった。そして、今年も先輩から「採れたてキャベツ」が届いた。菊の露地栽培の場所の利用を図った。以前は志津川のブランド菊「黄金郷」の露地栽培をしていたが、中国からの安価な菊の輸入により、価格の暴落があり栽培をやめた。それに代わる濃産物として「キャベツ」を選んだと言う。仲間と二人で「6千株?」を栽培し、姉妹都市の「庄内町」と「ウジエスーパー」への販路を開拓し、今年で2年目を迎える。大きな利益を見込むのは難しいが、安定した農作物の生産は、農地の拡大と販路の確保で、農家の安定収入の道へと繋がる。
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合併10年の検証で「議会」があった。志津川と歌津の議員間の分裂が指摘されている。名誉町民の県会議員の受賞祝賀会に、歌津の議員が一人も出席しなかったという。「欠席」したのかは判らないが、志津川の出身の県議・町長が「分裂」を助長したとしたら、その受賞の意味は何なのかと思う。一つになれない事で町の復興を一丸となりは、町づくりの上層部の「綺麗ごとの言葉」としかとれない。
私の行政・町長批判を若い行政選出の各会の委員の言葉は、将来を見据えなく、勢いだけで進んでいるように見える。成人式での「佐藤町長バンザイ!」は、強力な政治発信と自己アピールにあり、私はその蔭の部分を知っているが故に、その政治力を良しとはしない。身を改め「謝罪の仕方を知らない」人は、あくまでも、自己保身としか私には取れない。
今日は包装紙の配達をする。我が社のような弱小企業にも「是非お願いしたい」と言うお得意さんの為にも仕事を続けて行きたい。

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2015
12/02

第二の市街地になるべき入谷地区だったのに


昨日は入谷地区を2回も通過した。一つは年賀・喪中時期となり友達の奥さんに葉書を依頼し、自宅まで取りにいった。郵便局が年賀状の印刷を受注し、地元局の職員との繋がりも希薄になっている事から、「どうせ買うなら遠くでも喜んでくれる人から」と、遠くの3地区から買い入れをしている。
12月となり今年にやる事、やり残した事を片付けた。年末調整を税理士に、HP依頼のデータまとめと発送、JAの商品をもらったカード8千円分のネット注文を済ませた。何でもパソコンの利用なしにはできない事です。今年の業者への金額の高い支払いの分を振り込み、滞納の税金の今年分を振り込んだ。以前のような年末の繁忙期は消え失せ「のんびり」と会社片付けしながら、年越しとなりそうだ。
昨日は配達の用事で、高齢者の方々が地元で頑張っていた。震災で大きく市街地の様相が変化する中で、車での用事は欠かせなく、車なしでは生活ができない事を知る。銀行などは幾度となく変わる市街地のう回路の中で、「道を間違えました」と言う。町の中心で暮らす人たちは「まだいい」が、高齢となり、商店・銀行・郵便局が密集を予定する「志津川市街地中央区」への、高齢者の移動は厳しくなりそうだ。
南方仮設にも行った。80歳が近くになった御夫婦から元気をもらう。「笑いが絶えない」私の接客に仮設生活を忘れさせてくれた。地元の千葉のり店の「味付け海苔」を持って行くと、それ以上のお土産を下さった。早期再建の為に「土地が早く欲しい」と懇願する被災者を、5年6年と待たせる町の復興計画にミスは無かったのかと、再びその怒りが増してくる。病院は高齢者率が50%への道にまっしぐらと突き進む。しかし、維持費に苦しむ事の無いように、「町民の命を守る」との逃げ口上が何時までも通じない。
年金の運用の今年の金額が示された。「7兆円」の損失となったと言う。この金額は何なのかと驚き、どれだけの年金の積み金が在るのかのデータは無いが、昨年は「15兆円」の黒字だったと言う。プロのトレダーがあたっているのだろうが、その原因に「中国の情勢悪化」があり、リーマンショック以上の大暴落になると言う。
今年の流行語に「爆買」があり、中国の観光客が日本の景気を押し上げている。今後の中国の財政破たんとはならないだろうが、何時までも「アベノミクス」の景気上昇が続く訳も無く。「急激な上昇」よりも「普通に推移する」が本当は良い気がする。
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志津川から入谷への舘下橋のモアイがあり、その下の河川脇に「造園業者」の施設があったが、昨日通ると無くなっている事にきづいた。建設された真新しいビジネスホテルも6日からオープンとなるが、再建した民宿への影響は測り知れない。住民生活への被災し大きく変わる町への生活不安を考えた町環境の整備から、行政は新しい税収確保の為の、将来的な町づくり「観光立町」への道を邁進する。住民の生活・経済への公平な、弱者を守る町づくりを行って欲しいものだ

【 未分類 | CO:0 | TB:× | 09:38 】


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