ARCHIVE - 2015年08月

2015
08/31

子供達の交流とラジオからの暴言

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昨日は気仙沼の武道館で本吉・気仙沼種目別スポ少剣道大会に、選手・父兄・関係者が300名集まり交流を深めた。
我が団も今年最後の試合と位置づけ取り組み、粘りを発揮できた。団体は唐桑チームと合同を組ませてもらい、唐桑剣道チームとの交流ができた。何処の子供達も同じで、父兄・親の会の礼儀を尽くす姿がそこにある。我が町の一部は「人を見て心を開く」そんな感じがする。私もそうだが人々の行動の噂で、こんな人間とこの団体とは肌が合わないと、遠ざけてしまっている。初対面の人達とは自然と心が通い合う。
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気仙沼・本吉のスポ少の会長となった、吉田会長は7段教士として南気仙沼剣道の指導者であり、子供のスポーツとの関係を学び資格をしり広い視野で地域のスポーツを考える。「お父さんお母さんに先生にカッコいい所を見せて下さい。気仙沼・本吉地区で団結して頑張りましょう」と挨拶で話した。
気仙沼剣道協会では今年から被災し中断した「秋魚杯剣道大会」を開催する。大震災から5年目を迎え大会の再開をする。その影には吉田会長の子供たちの育成と、震災からの復興の姿を全国の支援者に届けた発信と、気仙沼の復興への後押しになる。子どもたちの大切さを理解しての大きな活動だ。以前は約200チームが参加していた。戸倉剣道も小中参加で頑張った事を思い出す。
帰ってからは焼香に行き、車で「何したの?」の問いにあれこれ話したら、「毛嚢炎」と言われ膿胞が大きくなったと言われた。「悪さしたんだろう!」とのジョークに、しばらくぶりの会話で心から笑った。
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2015
08/30

また、町の再建を待たずに住民が亡くなった

突然の訃報が2件あった。昔から千葉家を支えてくれた人の死は、寂しく悲しい。
同級生は豊里への生活再建で町を離れ、地元で震災復興で頑張っていた方も登米市への移転をすでに終えたとの話に、悔しさがある。同級生は子供と孫がいて、3世代家族で、知人の方も5人家族で、将来の町には必要な子供たちのある家庭だ。私のような一人暮らしを控える高齢者ばかりが増える、高齢者の一人世帯は現在500世帯と言われ、町の将来のお荷物となる。
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商店が半分となり世帯も減少し、生活の余裕や商店の販促での印刷業の生業は厳しい。大きな商店との繋がりと技術の高度化を実現している会社は生き残れるが、我が社のような昔ながらの経営は、近い将来淘汰される状況にある。立て直すのも技術者の確保と設備の高度機材の投資が必要で、整備費には1500万円は掛かるし、工場施設も必要となり、私の後継の居ない状況では無理である。南三陸町に於いても人材不足に事業所は頭を痛めている。企業が進出してもこの部分が厳しいだろう。
漁業の町で水産加工品の商店の経営維持は出来るが、町外への販促と観光客無に町の発展は厳しい。農業は特別な地場産品も少なく、道の駅が出来ても農業者の収入増加は以前同様厳しいだろう。第一次産業の林業は震災復興の住宅再建があり、建設資材の需要は拡大しているものの、復興が一端終わる5年頃には、今のような木材需要は望めなく、「ブランド三陸産材」の住宅建設の需要は、県産材補助金が後押しでの一時的な物と思う。復興終了後の需要はと言うと、人口減の日本の状況と生活保護者の急増と、高齢化の中で古い空屋やリフォームなどの拡大で、多くの木材需要は今後厳しく、林業を含めた林業も淘汰の時代は間違いなく来る。新たな販路を町外から全国へ発信し、付加価値を付けた南三陸町産材の開発で生き残る事はできる。全国の林業者も同等の競争社会に取り組む中で、生活のしにくい経済・社会の低下の時代に入った日本がある。
高齢化や生活保護家庭、福祉施設の需要拡大と、福祉社会が進み、町の事業所の減少は多くの業種に現れるだろう。
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町の税収は22年が13億円だったが、震災時の23年は5億7千万円に落ち込んだ。平成27年は水産業の再建が進み、見込みとして10億3300万円と予想し、震災前の8割まで戻ったと言う。今後は事業所の販路拡大と従業員不足で先行きは不透明となっている。
気仙沼の漁師の若者受け入れと、若い協力者が数多く参加している。と言う。歌津地区でも若手漁師の農漁業連携など、今まで町に無かった漁民の取り組みが報道されている。
民宿で見た新仮設魚市場の若手漁師の笑顔の輪に、大きな可能性を感じた。今日は役場内でもポスターを見つけた。町の税収アップはここにあるのは間違いがない。志津川魚市場も今年中に完成の槌音を聞く。
銀鮭は宮城の「伊達銀」として、全国へ南三陸町産の「美味しい銀鮭」を発信している。漁民も言う「漁民が食べない魚は消費者にも受け入れられるはずがない」との言葉に、銀鮭の新たな拡大と可能性を感じる。
還暦は「何も言うな」、こんな女川町の若者達の声を思い出す。町長さん貴方はもう終わった人かも!

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2015
08/29

入谷地区は黄金の平原となっていた


気になっていた入谷の「蕎麦処」に友達とまたおじゃました。「特製天ざる」に再び感激し友人も美味しいと言う。ひころの里からもう少し林際地区に入った所にある。名前は出さないで置くが川の大石の合い間をせせらぎが流れ、情緒のある橋の袂にある。入谷地区の落ち着いた農村部が広がり、「天国の楽園」とも言える場所、最近役場の中に入谷地区の現風景がホスターで紹介されていた。
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震災後もだが向かう道路は両側に森林があり、この日も枯れた木が道路に立っていた。朽ちた上部が途中で折れ、半分が道路に真っ直ぐ立ちはだかる現場に驚いた。通行には問題がないもののビックリする。震災時は地震で道路の地割れができ、大木が道をふさいでいた事を思い出す。帰りには電力と工事関係者が、倒木の対応に当たっていた。
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埼玉の「プレミアム商品券」の販売に200名もの大行列ができていた。朝3時から並んだ主婦は「お得感いっぱいで来ました」と話す。全ての並んだ人全員に配布は難しいと言う。ある地区では66億円が一日で完売した。自己防衛の何物でもないと私は思う。
気仙沼市の「2割増しプレミアム券」は7月に販売され、一世帯3人までで一人5万円と言い、その日に完売となったと聞く。商店で使用した1億7千万円が銀行で換金された。予算3億5千万円の4割が使われた事になる。大都市はでは大型店舗で使える物と、小型商店で買える「プレミアム商品券」がある。気仙沼も2種類の物を造ったと聞く。
南三陸町は町内の商店でしか使えず、商店数は以前に約120店舗と聞いたことがある。我が社もだが持ち込んだ人は一人もいない。限られた店舗での使用の元に「地方創生交付金」が使われ、全国でも類を見ない「4割増し」でのプレミアム券は、本当に住民の活性化そして地方創生となったのだろうかと私は思う。
被災者と住民の為になったか? 被災地町再建の対策として有効だったかは疑問だ。私の周囲は「買わなかった」「登米市に暮らすので必要ない」「買えなかった」・・・など、多くの声が聞こえてくる。
手にした事の無い「復興交付金」の使い道は、大金を持った事の無い子供のごとく、被災地住民の為と事業化され使われる。市街地の整備や防潮堤・国道・三陸道は国県の予算で復旧復興整備が行われている。新しい町づくりの総てが南三陸町でやっている事では無い事を、町民は知らないでいる。

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2015
08/28

枝豆大好き


夏の終わりとなり食事を作る事もめんどうになり、冷蔵庫の手っ取り早い物を引っ張り出し食べている。食欲はというと「ない!」、2K位減ったかな。色んな心配がそんな体にしたのか?
写真はこないだの朝食で、残った枝豆と牛乳で、これでも満足の食事だった。昔の9人の大家族で初秋は浜の枝豆売りの叔母ちゃんが、日替わりで家に来る。母も祖母も寄ってくれる売り子の叔母ちゃんから5つ10袋と買いもとめ、それが朝の食卓の主食として上がった。一皿山盛りで満足して学校で活動できた。小学校時代の事だった。あの時は人々の生活の「格差」もなく、のんびりと町の暮らしが流れた時、私の落ち着く時代でその時を夢見る。
枝豆を買い求めに入谷直売所に行ったが朝の内に無くなっていた。足を伸ばし登米市「愛菜館」まで、まだいっぱい台に枝豆が残り、他ではないりっぱなトウモロコシもあった。登米市は新鮮野菜が選択し買えるし、生活するにはし易いだろうが、人との交流は志津川の様にはいかなく、気軽な御付き合いとなるのは時間が掛かりそうだ。
一人暮らし家庭が約600世帯もある南三陸町は、高齢化率も32%となり県内で9位となり、気仙沼市は36%の6位だった。
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これも今夏のある朝の食事で、貰ったミニトマト・バナナと、従業員が持って来てくれたミカンで朝食とした。
猛暑が一段落したら「雲の日」ばかりで、父もこんな天気に「気分が晴れない」と言う。あの暑さもまた夏らしく良かった。こんな食事のせいか体調は最高なのに、身体の抵抗力が減退しているようだ。毛穴からばい菌が体内で悪さをしていて、病院に掛かり一週間となり先生の話す10日間との全治どおり、順調に回復している。血糖値の少しの安定と体重減は体には良いが、体調と数値は別でそのバランスの必要性を理解した。今は野菜主体の食事で満足な自分の生活となった。

昨日は気になっている人が来た。「共に涙の会話」となった。多くの震災の悲しみの少しの落ち着きの中で、人は生きていく上で多くの悲しみを繰り返し、乗り越え喜びとなって行く。しかし、私は志津川で独居老人への道をまっしぐらかも知れない。あと5年で高齢者の仲間入りで、その時は南三陸町の高齢化率は「40%」を超えるだろう。歯止めはしないよりした方が良いだろうが、これを変えるのには行政改革の断行しかない。ユルユルの我が町の体制に、皆が相手を利用し「自分だけ」との考えが町の根幹にある気がする。


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2015
08/27

かがり火まつりは誰の為

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震災前の「かがり火まつり」は川への感謝のまつりで、町民といっしょに八幡川など志津川の多くの川への感謝の気持ちがここにある。そして町のイベントとして住民が集う場として定着し、家族連れが八幡川に集まる年一回のまつりとして定着していた。
「震災を語りつなぐ」の新聞の欄に、「格差は拡大した」と話し、趣味に支えられここまで来たが、多くの町の異変が「税金に跳ね返った」とその辛さを伝えていた。
震災前の共に助け合ったあの頃の、かがり火まつりの一コマがブログに残っていた。今月末の29日「かがり火まつり復興市」が志津川の仮設商店街で開催される。
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八幡川の汐見橋の近くにあったスタンド「伊藤屋」さんが解体されていた。
2か月ぶりの汐見町から本浜町へ向かった、その時にスタンドの瓦礫がやっと解体され、ガソリンタンクも掘り出されていた。他のスタンドは一軒が営業中で、もう一軒は未だにスタンド施設は壊れたままで、その場所を避けるように嵩上げか? 一時的な残土置き場となっている。
何で解体が進まなかったかと言うと、形がその残った事業所は個人が解体をしないといけない。ましてガソリクタンクの掘り出しには多くの資金が掛かり、それと施設解体は数千万にも及ぶ。タンクに於いては7割が補助の対象ながら、被災したスタンド事業所の再建は、自宅も全てを失った事業所には再建には資金が必要となる。

国民健康保険税は所得割であり、私の昨年までの国保税は60万円で議員報酬があり、ここまでの税金になった。今年はと言うと年間5万も行かない。経営不振の為と議員でない事で税金が下がった。私と父の収入は限られたもので、被災事業所の大変さがここにある。人も居なくなりお世話になっていた会社社長も被災・死亡し、お得意と言われる会社は3分の1になった。今後の事業発展も厳しい。
今日来社した社長さんは水産業で会社は震災前から、更なる復興をしていた。国保税の最高額は「80万円」と言う。私も震災後の税の減免からの税金は60万と、優秀な事業所・個人であったのか、と疑問があるが事実そうなのだろう。
別の来客は町の度重なる税収課税ミスに憤慨する。震災前まで遠洋漁業に従事し大震災で「陸に上がって何も判らない」と言う。何でこんなに税金が来るんだと税務課に行くと、「間違えました」と言われたと言う。役場職員しっかりして欲しい。自治体派遣の対応も納得しないと言う。町トップは派遣者に多くの感謝を言い、職員を守る事に一生懸命だ。「町民には何もしない」とも話す。もっと住民の身になり部下よりも大切に対応すべき! と声を大にして言って帰った。
初めての来客二人の話は、私の知らない部分があるが、これ以上言えない!

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2015
08/26

若かりし頃の苦しんだ良き思い出


今日は朝6時の仙台への出発で、夜中幾度となく目覚め、若い頃の仕事の夢を見た。
我が社のチラシ印刷は一人でレイアウト・製版・印刷と作業をしていた。新聞屋さんへの持ち込みは午後の4時までで、いつもギリギリの持ち込みだった事を思い出す。折込日を間違い「どうしょう」と一人苦しむ夢だった。震災前の町の景気の良い時代は、一週間ごとのチラシがアベロクさん・高光さんがあり、それにパチンコ屋さんと、普通の仕事に緊急のチラシが指定時間までの仕事があった。12月となると「初売り」などで約70枚位のチラシに追われ、睡眠時間は3時間で働いた事を覚えている。若い元気な時の体力は良く持ちこたえたと今思う。当然の事のように日々仕事に追われ、友達との飲み会も無く、まして恋愛や恋人探しなどそんな時間は無かった。

当時のチラシの志津川地区は2800枚と、歌津地区が900枚で、総てで3600枚前後のチラシ配布部数だった。現在は1500枚で、600枚は志津川・入谷400・歌津500と大きく減少し、戸倉は津山に新聞店が移り250枚と、歌津と入谷は変わりは少ないが志津川地区の激減は、人口流出が志津川地域に集中している事がここからも分かる。

今日は忙しい、仙台の病院から登米市の病院へ、そして夜は志津川のスポ少の剣道練習と一日家を離れ、91歳の父に留守をお願いだ。

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2015
08/25

子供たちの教育は家庭から 学校も事件隠しの体質は変わらず

大阪の事件と仙台の事件の同時発覚に、子供たちの生活環境は益々厳しくなっていると感じる。

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町づくりニュースの災害公営住宅の空き住居の報告に、志津川中央区の29年1月~3月の完成予定があった。この空は他の住宅より突出していて、1・2街区合わせて9戸あり募集をしていた。判り切った空で、町の災害公営の一番最後の完成で、苦渋の中で決定した「終の棲家」を震災から再び、暮らしの場の変更を余儀なくされた。
写真は現在の志津川中央区ながら、この姿から新しい集落の形成は想像もできないが、震災後1年も経たない内に整備の予想図が示され、希望を胸に選択した場所からの変更は多く、その理由は時間の掛かりすぎる事は誰も分かっているのに、その対策を講じなくここまできている。誰の責任かはもう言った所で始まらなく、今更の変更は無理で最悪は、予定どおりを完成する事を願うしかない。

大阪の2人の中学生は46歳の男性による殺害は、猟奇を逸した鬼畜の犯罪で、未だにその殺害の真相は判っていなく、本人の自白は無い。夜中の午前1時に商店街を歩く子供、それを「いけない事」「危険」と判断できない親がいる。友達の所に泊まる事や野宿する事を、何の不思議と思わない気持ちは、家庭状況もあるだろうが、今の世間で起こっている異常な事件を思えば、叱る事が当たり前の親と思う。
仙台の中学生の昨年秋の自殺は今月の発表・発覚があった。学校と担任の「転向した」との生徒への報告は、自分達が防ぎきれなかった不祥事の隠ぺいでしかない。学校からの連絡か? 市教育委員会の迅速は発表があった。11名の生徒による「いじめ」は多種多様な形で行われ、その果てに一人の生徒を死に走らせた。学校の説明では「両親の意向」と言うが、追いやった生徒のいる学校への新入学生の保護者は望まないだろう。学校と先生は我が身の保身に走った結果が、これまでの学校の信頼と栄光の伝統までも、関わった先生方は失墜させた。その責任は大きく、13歳~15歳の生徒であっても、その行った罪の償いを負わせる事が、将来大人になって「罪の重さ」と「再発を防ぐ事」に繋がると思う。大きく叱る事、叱る訳をしっかり伝え理解させる事が大切と私は考える。私が剣道に関わった児童生徒の問題の声が聞こえてこない事は、指導が間違っていない事だったと思う。中学校の指導は今から7年前頃から学校と保護者の考えで、関わりが今は無くなっている。スポ少もそろそろ卒業と思っている。
仙台の事件が大阪の事件の延長線にあると私は考える。

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2015
08/24

八幡川はどんなふうに変わる


志津川の市街地海岸通りの道路が通行止めとなり、昨日の日曜の休日に工事が休む間に見に行く。八幡川の袂に通行案内の看板があり、工事内容には防潮堤の工事が「28年3月」と工期が示されていた。本当にこの大工事が工期内にできる? と疑問に思うが、仙台河川工事事務所の所管は「国」という事で、復旧工事の「5年間」の工事遅れは、明許繰越があり「事故繰越」と2年間が正当な理由で、遅延の責任を免れるとも聞いた事がある。CIMG3740.jpg
八幡川の高度な津波対策装置の「自動監視システム開閉水門」が、津波で被災し解体へと進んでいた。町の水門としては一番大きく幅も水深もあり、時間が掛かるが専門の建設会社からすれば、日本の技術としてはたいした事はないだろう。
リアス海岸の起伏にとんだ入り江への津波の増幅は、防潮水門が無くなると一気に川を遡るだろう。そんな自然の力を行政担当は「大丈夫」と言い、国の計算の元にを理由と上げた。その想定の甘さを指摘したが、小さな町の津波対策は上からの指導でしかない。
今回の6mの津波の襲来で、26mや5kmもこれまでの予想に反した津波の威力は、1000年に一度から100年に一度と周期が短くなっている気がする。最近の地震発生の頻度や、多くの異常気象からも予測できる。「職住分離」で町経済は大丈夫? 10mの嵩上げで商店の再建は、近いうちの中規模の津波でも発生したら、南三陸町も私が生まれた「志津川町」もなくなる気がする。
臆病は自分を守ってくれた!

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2015
08/23

歌津大橋


歌津地区のここに行って市街地を見たいがあり、こないだ実現した。国道45号の気仙沼からの道路の「歌津大橋」は津波により崩壊した。震災し2週間前後の時期に志津川側からの橋の切れ目に立った。その風景は原爆でも落ちたごとく、荒れ果てた歌津繁華街が広がっていた。晴天にヘリが飛びかう中で、この姿を残すべく記録媒体としての「携帯電話」で、撮影しまくった事を思い出す。震災直後で交通規制もなく、津波で切断した大橋の付け根に立ち、10分以上もそこに居た気がする。道路には車の交通も無く、倉庫にあった自転車で歌津伊里前に行き、一次避難場所となった歌津中に行き、避難した人たちの話を聞き対策本部に、その厳しい生活を伝えた。被災後2・3日は「一杯の水」でしのぎ、その後も「おにぎり一個」の生活が続いたと言い、多くの人が体育会で横たわっていた。
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歌津大橋の反対側に立った、市街地が広がっているが、復旧復興は皆無に近く、仮設商店街が在るだけで三陸道か高台造成の残土が積まれているだけだ。志津川の市街地と歌津の復興の違いに、歌津地区民の感情の行政への不信感は、「もう言っても」との思いの諦めを感じる。歌津の復興を図る商店再建の皆さんは、行政批判の声は聞こえなく反発の意見が、地区復興の妨げになるのではとの思いが粛々の事業を待っている事に繋がっていると私は思う。
北の大橋の切れ目に立つ。「通行止め」の看板が空しく立つ。勿論、歌津地区のシンボルだった「歌津大橋」の再建はしないだろう。事業的には国県の事業で今後人口の減少の町に、その役割を「三陸道」への役割返還で進めている。歌津地区は間違いなく「ストロー現象」となるだろう。そうならないように「歌津皿貝インター」の整備がある。故郷の歌津に帰る人達も三陸道の利便性があり、別に不便な歌津を離れ、他の場所で住民の再建は当然の行動ながら、住民の移転は意外と少ない。その理由は「歌津愛」がその根底にある気がする。
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歌津地区は22年3月で人口は「5181人」で、震災で119名が死亡と不明で、現在は27年5月末の人口が「4545人」となっている。人口減少は516人で減少率は12%ながら、南三陸町の減少率は22%の減少と、「歌津で生き続けたい」との強い気持ちがこの差にある。減少率を上げているのは、志津川・戸倉地区で、住宅造成再建が同等に進んでいるのに、その違いは地区で住む意義がなく、生活の糧は他の地区でもある。がその理由のような気がする。
今日はお盆中の多忙の仕事の休日とした。現在進む国道45号の「汐見橋」の橋脚工事現場を見に行きたい。

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2015
08/22

歌津「皿貝」の現風景


友人との繋がりは偶然にしても不思議と兼ね合いを感じる。昨日の父の「戦後70年」の記事があった事を昨日伝えたが、その新聞の「不幸欄」に友人の親族の事が掲載されていた。幼少からの付き合いは学生時代のブランクはあるものの、何でも事在る毎に共に志津川で歩んでいるし、今後も彼と志津川で楽しく日々を過ごすつもりだ。多くの偶然が二人の記事となった。
昨日は歌津の南三陸皿貝インターの出来る場所を見に行った。その入口には歌津地区の被災した建設会社の、新しい工場と自宅の造成が終わり、施設の建設が進んでいた。この場所からの高速を利用した町外との仕事の開拓と利便性から、早期にこの場所を確保した。この会社は震災直後から県外からの労務者を引き入れ、復旧工事や仮設の建設を初め、被災住民の自宅復旧工事や、町の再建への貢献を果たしている。今後も更なる公共施設や住宅再建の本格化など、会社の隆盛は町の再建が終わるまで続くだろう。
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昨日は登米市の「ささはら診療総合病院」に行った。太ももの付け根にピンポ玉位の出きものを4日前に自分で見つけ、不安な日々で一人悩んでいた。前日には患部から膿が出てきていた。大きな仕事を仕上げ納品まで何とか済ませたので、午後から先生に覚悟して行った。
診察結果は毛穴からバイ菌が入り、体内で化膿したからの診断に、最悪の「癌」でない事に先生の言葉に安堵した。糖尿病の持病がちょっとした菌でも、病気になりやすいと先生は話す。甲状腺ガンも笹原先生に見つけてもらい、助けてもらった経緯がある。患部を切開し膿を出し処置してもらい、今日もまた登米市に行く事となった。待合室には私が知るだけで4人の町の患者がいた。南方仮設で生活している同じ地区の方に声を掛けられた。「生活不活発病」の町の取り組でテレビに出ていた。志津川の災害公営の一号棟に入る事が決定し、志津川に帰る事を楽しみにしていた。
笹原先生は町の患者さんも多く、先生は以前志津川公立病院にも勤務しており、震災後には避難所での町民の診察や仮設診療所での勤務など、町の病院に残って貰う事を要請できなかったのかと、大きな医師の損出を感じる。

当分は通院し治療する事となる。4時間の通院・診察は大きな時間の損出でもある。
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「完治には10日くらいかな」と先生に言われた。今日も登米の笹原先生の傷口処置を受け、「来週の月曜に来れる」と、通院するように言われた。昨日・今日と二日間で南三陸町の人に、今日の5人と会い、知らない人も入れると30人以上もいる気がする。皆さんは志津川に帰り「災害公営」や「自宅再建」と言う、嬉しい声を聴いた。しかし、大多数の人は私も含めた高齢者で、震災前の主治医を頼り登米市の笹原先生の病院に通院していた。
同級生の母親が2人もいて、「孫できたでば!」と町の将来を担う子供の誕生? と思った。だが一概には言えなく、「外孫」かも知れない。還暦60歳となると孫もいて当然だ。「おらピーちゃんだでば!」と笑顔の母親がいた。

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2015
08/21

父親には今も勝てない


父親が「戦後70年」の連載があり、地元紙「三陸新報」に掲載された。10枚の資料持っていったのに1割も載ってないと言う。記者も「90歳過ぎても記憶力イイですね」と驚いていた。前日の記事以来から夜中まで資料を探し熟知して、聞き取り記事に臨んだ。
昨日は気仙沼からも知人が「おとうさん元気だね、見ましたよ」と連絡がきたり、同級生仲間も写真の姿と記事の内容に、「若いなー」と父が聴いたら喜ぶ事を言ってくれた。
自虐的なブログは自分が親を追い越せない「歯がゆさ」かも知れない。32歳年が離れているが、自分もこの年まで頑張れるだろうか?と、自分の持病に後悔の念がある。人生を今後悔している事に、大きいのは結婚して子供を作れなかった事だ。後継もあるが現在はたよれるのは自分たけと思っている。話し合える家族がいたらどんなに人生が変わっただろう。
昨晩友人が町に戻るか、「どうしたらいいだろう」と電話をしれた。「戻って一緒にやりましょう!」と言ったものの、私がどれだけその言葉に責任をもてるかと言うと、自分の頭のハエも追えないで、何で他人の事ができるだろうと、自問自答し諦めの境地に入ってしまう。
還暦を9か月後に控えているが、国民年金の少額で老後の人生を送る事を視野に入れ、父と二人暮らそうと考える。老々介護が現実のものとなりつつある。他人事と思っていたのに、もうそこまで来ている。

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2015
08/20

子供達よ積極果敢「挑戦」を


宮城県代表の「仙台育英」が決勝戦まで進んだ。投手力と打力で相手を圧倒し、積極果敢にボールを見極め打ち込む姿は、日々の努力と厳しい練習の成果の積み重ねでしかない。全国のチームも諦めないという姿勢の元でボールに食らいつく。9回裏の攻防や逆転は培った努力の賜物だろう。全国民が今年の総ての試合に拍手を送っている。
26年前の大越投手率いる代表以来の、宮城の地に「白河越え」が達成するか、県民は今日の対戦を楽しみにし、震災の復興が進まぬ中でも嬉しい話題となった。「ガンバレ育英!」。
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昨夜の練習を「おっくうだ!」と感じた。しかし、大会を前にこの一回の練習の大切さを知っている。大きな仕事と個人的な気持ちから、夜はゆっくりしたいがあった。志中武道館の道場には中学生の防具が整然と並ぶ、遅れ気味の両親の車を待つ間、中学校時代の解体された旧中学校の部活と、卒業しこれまで20数年の指導者としての歩みを振り返った。佐々木先生・遠藤先生の先人に御礼と感謝を思い、同級生と多くの旅立った団員に「ありがとう」と言いたい。
昨夜は4年生の指導に熱が入ったのか、体調を崩した状況の把握ができず、父親が「先生!」と声を掛けてくれた。やっぱり我が子の事は良く知っていた。大会への残り4回となった練習に、こないだまでの2週間は猛暑もあり、防具は私だけで打ち込み練習に取り組み、今日の防具での練習を子供達は楽しみにしていたものと、練習方法を実施した。夏休みはもう終わりに近づき、その疲れからと体調を察する。

昨日は「戦後70年」と題する地元紙の取材に、前夜から学習し父は臨んだ。2時間余りの取材は父の「人生を語る場」として、良い機会だったと私は思っている。新聞が届くのを楽しみにしている。何を語ったかは私も知らない。

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2015
08/19

町がどう変わるのか知らない中の復興


志津川の仮設商店街に行った折、「千葉さーん、しばらくぶりだごだ、何してたの?」と声を掛けられた。両手に千葉のりの「龍の子のり」の贈答品をいっぱい持っての、お盆前の事だった。写真は唯一残った五日町の高台で、ここに住んでいて大震災大津波を逃れる事ができた。「ここが一番いいし、りっぱな住宅ができても、ここに住みたい」と言う。「ここの下はどうなるの?」と聞かれた。この場所に住み眼下がどう変わるか知らないで住んでいる。82歳位ながら元気である。「8.7m位に土が盛られ道路が山裾へ移転し、反対に川と入れ違いになるんですよ」と、教えて上げた。下にウジエさんが来るのを知っていて、「早くこないかなー」と出店を楽しみにしていた。

復興まちづくりニュースが届いた。私の知人も一番造成整備の遅い志津川中央区の希望を辞めたと言う。ニュースでの戸倉団地の10区画と清水の7区画の再入居募集に人口減少の大波に未だに町は対応に追われているようだ。人数割りから出される土地価格に区画入居減により変更は無いのか心配だ。
私も再建は終わったものの、土地があるから出来た。土地代の100坪「5.5~6.5万」の出費なら、再建の予定は建てられなかっただろう。
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お盆前に気仙沼産フカヒレと志津川産笹かまを買いに行った。フードコートでの「ミスト」の霧吹きが今年の猛暑の対策には、来町者には優しい気遣いと嬉しい。
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今年の夏、お世話にいつも成りっぱなし奥さんから、地元産の「塩うに」を頂いた。ウニの形そのままに程良い加減の塩味は絶品の味で、暑さの中の食事のおかずに最高だった。お父さんと二人分と2パックは、我が家を思う町民の支援であり、それで生きながらえている。また、知人が盆用供え花と旬の野菜を持ってきてくれた。

岩手県知事選の達増知事の再選濃厚との記事が躍る。宮城県の保守王国は前々回の「政治改革」の民主圧勝による、体制から以前のような自民党独裁で、知事も自民の自衛官から県議を経て知事になった。岩手の小澤体制の崩壊から、保守の変遷の中で共存する両党の性質の、達増知事体制が今後も続くようだ。民主から自民への移籍し立候補予定者の、「勝てない」との予測は自民王国の東北からの脱却へと進んでいるようだ。第一次の農林水産業のTPPによる海外からの輸入拡大があり、国の受け入れに反発するかのようだ。
宮城県も参議院の定数が2人減る。全国の人口割の定数の格差に対する「10増10減」の元に、法律で決定した。これは全て宮城県の人口減少に起因する。国会議員・地方議員・国家公務員・地方公務員が多いと言われながら、日本の人口が減り、アベノミクスが終わっても自分たちの保身に、国会議員が自分たちの生活確保の為に、一生懸命さを感じ、国民は二の次と被災地の国土交通省とのゼネコンの癒着状況が垣間見られる。

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2015
08/18

細浦地区の漁民の底力!


細浦団地の進捗にビックリだ。こないだ造成が終わり引き渡しから1年も経たない気がする。更地で覆われた土地は、1~3年と住宅完成を予想するも、既に8割方が完成か今年中には入居となる気がする。約20世帯?の集落が誕生しようとしている。
浜の漁師の底力を被災地から発信した。以前の浜はそのままの姿が広がり、震災後も漁業に従事し再建を果たし、家族の生活の場を確保し、将来の子ども達の夢を再建が後押しする。

死の恐怖を昨夜考え、その将来への恐怖に襲われた。自分の死は多くの人達へ迷惑を掛ける事を考え、「両親を送らずに死ねない」との気持ちを強く持ち生きて来たが、両親は元気でまだまだ大丈夫のようだ。私を頼り日々生活をしている人も無いとは言えない。周囲の人達は「涙流し悲しんでくれるだろうか」、と思った。
これまで震災後も多くの人に手を合わせた。私たち家族の誰も居なくなったら、知られずにあの世へ行く、人生こんな物なら、他人の事をする前に自分の事だけすればいいのにとも思う。60歳を迎えようとする今、身体には知らない内に異常があるかもしれない。これまでは克服してきたが、もう「ピンピンコロリ」で死んだ方が幸せだろう。子どもをつくり世代交代ができなかった事に、今更嘆く。
多くの人との繋がりから仕事と生活の喜びを貰ってきた。私の周囲でも「誰知れず」亡くなる人も多く、震災を通し町から居なくなり、乗り越えたものの誰からも惜しまれず亡くなっている。3.11の大震災は津波で多くの人が亡くなっただけでなく、各々の家庭の志津川での歴史の終わりと、新しい素晴らしい歴史が造られる事を願いたい。
「仕事ができなくなったら」と考えると、不安が大きくなった。私の生き方持論に「なるようにしかならない」こんな事を言い聞かせ、今後も何も無かったかのように生きていくだろう。

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2015
08/17

5年経っても何も変わらない歌津の海岸線


東京オリンピックはやらなかった方が日本の大震災の危機に、開催とゼネコンの力に無理があり、その負担が更なる国民の血税支出の増額となり、国の信用も失墜させる状況になりつつある。政府と東京の対応が大切ながら、枡添都知事の「凛」として姿ばかりが目立っている。
東京オリンピックのロゴマークのデザイン盗用疑惑があり、デザイナーの「佐野けんじろう氏」の、サントリーの景品のデザインの30種の内の8種を、盗用可能性でデザインを取り下げた。
私も会社ロゴを依頼されるが、取り巻く自然風景や会社の仕事内容などから、多くの印刷デザイン集の中から変形したり、合成したりしてお客さんに提示し、更なる変更を重ねて作成した。東京の「T」の太明朝を使うと、ロゴの角の「三角」と縦の太い「I」があり、それを誇張すると何回となくテレビにでる「ロゴ」が造れる。アイデアは至る所に転がっているが、多くの登録されている世界の「ロゴマーク」の検証に不備があった気がする。多くのデザイナーを抱え、総ての社員のデザインに目を通す事は当然の社長の責任、日本の一大事業にあたっての「ロゴ設計」としては、余りにも幼稚な行動だった。「これは私のデザイン」とオリンピックのロゴを言い張れば、これ以上大きな問題にはならなかったが、「フランスパン」「泳ぐ姿の人影」・・・は盗作の意図が大きい。ある別のデザイナーは類似を指摘されながら、別に問題と思うと言う。裁判に持ち込む事で問題の長期化は、東京オリンピックの悪いイメージへと繋がる。

長須賀海岸の姿は震災後の瓦礫等の整備はされてはいるものの、広々とした海水浴場から限られた場所の遊泳は、広大なリアスの海を味わうには寂しい気がする。
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15日の初盆の焼香に登米市に行った。従妹の娘さんが4人目の子どもを出産した。安定した職場と祖父母の見守る中で、安心して子育てが出来ている。母は9人兄弟で、米谷の家督も5人兄弟で昔ながらの子宝の家系がここにはある。
震災で町外に脱出した家族には、生活も安定し再健も可能な家庭が多く、私の仲間も子供達が震災で町を離れ結婚し出産し、「孫ができました」との吉報を多く聞く。今頃、人口減少対策をしても、一度町を離れ、他の場所で生活再建した被災町民は帰って等来ない。かえって行政の復興の形に反発しての移転も多く聞く。私は悔しい! こんな事は被災後1~2年の人口動向を見ても、誰だって分かるのに、何で町では定住してもらう為の条件を聴き対策を講じなかったのか。頭を下げて町に残るように説得をしなかったのか。震災復興は町民が居なくなり誰の為の復興なのか。綺麗な町は町長の描く自慢でしかない。そんな建築物に「名前を刻むな!」と私は言いたい。町が過疎化し高齢者の街になったら、「復興計画が間違っていた」と謝罪を行政には望みたい。
亡くなった職員の為にと言うが、誰かの為に命を捧げ殉職した仲間を思うと、悔しいし悲し過ぎる。何度も同じ事をブログに私は記しているが、この怒りの継続には、発信続けるしかないと思っている。
長須賀海岸での家族の砂遊びの光景の寂しさに、町民が故郷にしがみつき、一緒に残って暮らしていたらとの希望は、儚く消えてしまった。

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2015
08/16

一日も早い被災住民に生活の安心感を


宮城県の多くの被災自治体の住民が、復旧復興による住宅再建へと進み、行政任せでない自己再建も「もう待てない」との気持ちが、生活環境の整った場所へと移転している。我が町は現状を見ても29年以降となり、年代による住民形成が今後に添わない年齢層となりつつある。救急搬送が年間1千件を超え、搬送年齢は65歳以上の高齢者が「66%」を締めている。今年5月になりやっと行政は「人口減対策」に乗り出した。「もう遅きに失した」、大好きな志津川と住み続けた町民は、行政の震災対応に諦めを感じ町を捨てた。

こないだまでの35℃を超える夏の猛暑から、一週間の曇りと突然の雨により、汗だくとなった肌着が溜まりに溜まっていた。昨日は晴れのち曇りの天気予報で、朝6時にチャンスとばかりに洗濯をした。一竿いっぱいの洗濯物に気持ち良さを感じる。60歳を前に従業員には「加齢臭」に気を付けて下さいと言われ、猛暑の今期は3日に一回の洗濯を励行している。この日も午後ににわか雨が降った。
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午前中に歌津の「海の運動会in田の浦」に出掛けて来た。11時ごろになり「ウニ獲り競争」がこれからと言う時で、漁師さんの船に海難胴衣を見にまとい、5隻の船が一斉に田の浦の漁場に向かっていた。「ジェジェ・ジェ!」の音楽が流れ、大人から子供まで田の浦地区の人から、地区外の人達が最終となった夏の海を楽しんだ。
開催したのは「NPO法人田の浦ファンクラブ」と地区の契約会が主催し、今年で3回目となる。参加料は南三陸町民が無料で、一般は3千円で懇親会費と田の浦産塩蔵若布プレゼントが含まれる。ハーフタイムの11時からは、歌あり踊りありで、無料炊き出しのサービスもあった。
その後は「名足災害公営住宅」を近くから建物を見ると、入谷の住宅との違いを感じる。仮設のような鉄骨の踊り場と比べ、名足は震災前と同じような町営住宅のような柔らかさを感じた。しかし、津波の押し寄せた「名足漁港」が住宅から見え、私的にはその脅威が蘇るようだ。最後に長須賀海岸に行くと、堤防の高さ「8.7m」
のこの位置までが防潮堤との看板に掲示されてあり、素晴らしい南三陸のリアスの海岸が、整備されてから海岸道路から望む事ができないのが寂しい。以前の海水浴場前にあった民宿街は、今場所での再建は諦め、一軒だけが10分ぐらいの山間に移転し開店した。

13日に南三陸町でボランティアをした二人が、戸倉の住民の支援により「神割崎プラザ」で結婚式をおこなったと言う。さいたま市の二人の祝福に地区住民も参加した。こうした活動は再オープンした「オートキャンプ場」と観光プラザの発信になる。震災での人との繋がりを今後も大切にしていきたい。知人の子供達が蚊に刺されたと大騒ぎ、防虫スプーレーは必要です。
歌津舘浜地区の仮設が歌津中近くに移築され、町営住宅として再活用される。完成した2DKが2万4千円で、3DKが3万5千円と、町に移住する人たちの受け皿として有効利用される。今回は5戸だが、今年中には残りの10戸も移築し活用する。

歌津の海岸線の状況を見るのは1年ぶりかも知れない。

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2015
08/15

えだまめ・トオモロコシ食べたい


お盆用品の登米町までの買い物の理由は「むかで青果」さんへの感謝と、獲りたて「枝豆」と「とおもろこし」を買い食べたいがあった。
こないだ登米市の「愛菜館」に寄った折に、湯でたてトオモロコシが美味かったし、枝豆も安くて美味しかった事が忘れられなかった。登米町に言ってもコープと道の駅に回ったが売り切れ見たいだった。町での新鮮野菜を手に入れられるのは、「入谷産直」と「みなさん館」しか私には思いあたらない。
今日の血糖値は「115」と正常値だった。日々の定期時間の3食を守り、野菜主体の生活習慣を守っている。体重はと言うと近頃「72K代」の数字は2K前後減っていた。「夏バテ」それはない! 毎日元気で食べ物が美味しいし、食事を作るのも楽しい。昔から続いた母のお盆料理を思い出し作っている。ダンゴ粉を練りお湯で茹で、浮いてきたら片栗粉をまぶし、皿に四段重ねに盛り仏壇に飾った。今日の朝は炊き立てのご飯と、油揚げのお吸い物を少し上げる。少しのご褒美は一日おきの350mlの缶ビールだ。
隠れ糖尿病が多い。悪化してないと安心している人も多く、突然の手術必要による「血糖値安定」に時間を要し、合併症の危険も増す。私の「網膜剥離」の目の手術も、4日の血糖安定の食事療法と手術の6日で、糖尿病の持病の為に手術以外の多くの時間を費やす事となった。仕事を考え家庭を考えての病気との闘いとの両立は無理で、どちらを取るかだと「命」と決めて欲しい。
今日は初盆の焼香に「登米市米谷」の母の実家に行く。施設で暮らす母の姿を写真に落し持って行きたい。実家の両親と亡くなった義理の姉の仏前に、「今はまだ元気だ」と伝えたい。途中に「かたくりの里」の小さな野菜産直で「枝豆」を買いたい。
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こないだの同級生の物故者の「角塔婆」の建立後、食事会で入谷の「すがわら」さんに行く。仲間の志津川仮設商店に行ったが、お昼とありフードコートの80席も満席で、他の店を探し辿り着いたのが、八幡川の支流のせせらぎの袂にある蕎麦処「すがわら」だった。以前聞いた話だが、志津川市街地の南町の「せっこう庵」の流れを継ぐ店と言う。天ぷらの美味い店として我が家の叔母も薦める店で、諸々の話の中で閉店し、この場所で次の代に引き継がれたとしたら、感慨ひとしおの店だ。てんこ盛りの天ぷらと昔ながらの蕎麦に、大満足だった。余り広めたくないが私のブログファンだけには教えて上げたい。
登米市「愛菜館」の新鮮野菜の確保が容易にできる登米市への1800人の、南三陸町民の移住がこんな事からも理解できる。高齢者だけの町で復興計画が終わっても生活は大変だろう。17年3月と言われる中型スーパーの開店も、車のない生活での低地部の店への行き来は、町での巡回バスの充実を図っても、自由に買い物のできない生活は想像も絶する。この大津波を乗り越えた町民は、復興後も多くの不安でいっぱいだろう。

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2015
08/14

先祖の出迎えが整った


昨日の夕方5時30分から仕事・初盆・買い物を済ませ家に帰った。震災直後にお世話になった登米市登米町の「むかで」さんに、お盆用品を買いに行ったが、午後4時30分になると、お盆必需用品は大部分が売り切れていた。御両人も元気に働く姿に震災後の5年目のお盆に、感謝の気持ちとして今後も続けて行きたい。
帰ってから一時間掛けて「ダンゴ作り」、昨年から自分で作り仏壇に供えている。今年は豪華に供え物を上げた。盆旗も菩提寺の「大雄寺」と、伯母の細浦の「徳性寺」の二つを仏壇に飾り、本浜から沼田に変わった自宅に、先祖が帰ってくれる事を祈る。先祖への畏敬の念を生きている限りは私ひとりとなっても本家として続けたい。
お盆の墓参りは以前、母と私と弟の3人の役割で、私は物心ついた年からだから、50年近くはお寺に通っている。母が怪我でお寺の坂がきつくなり、弟も結婚し家族で墓参りに行く事となり、震災後・震災前から25年は一人で出かけている事になる。
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来年の還暦に合わせ同級生の「物故者の角塔婆」には24名の名前が刻まれ、今年から墓参りの最初と最後は早く亡くなった同級生に合掌となる。塔婆前には花が置かれ、線香も手向けられていた。志津川・荒島を見下ろす高台に建立し、多くの墓参りの方々とも、亡くなった同級生は一番初めに会える。
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仲間5人で建設関係も2人で、頑丈で決して傾く事のなく、落雷にも打たれても大丈夫なように、避雷針も付け準備は周到だ。これが31年生まれの物故者供養活動の最後となる。

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2015
08/13

復旧復興工事の遅延の場所ばかりの町の姿


志津川地区の東工区北が写真のこの場所にあたる。当初は「90世帯」り希望の元に造成が始まったが、現在は造成に時間が時間が掛かる為か、その戸数が当初より減ったと聞く。
28年度末の東工区の総てが完了で進んでいるが、東の東は15戸が引き渡しとなり、集合住宅も工事に入ったが、28年に入ってからの入居となる見込みだ。東の西もと他が整備されしだい引き渡しがされる。東の北のメイン道路は「高台横断道路」であり、この壮大な工事は復興計画の10年間を要する工事のようだ。
北工区の工事も新造成されていた集会所への上り坂を、大型トラックが一日50台通行するとの予定も、6月ごろから始まると言っていたが、未だに始まっていないルートは、変更になったのか、今後なのかも予定から変わっている。ゼネコンとて大小あり工期の短縮で進められるかというと、伸びても短縮は厳しいだろう。
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国立競技場の建設でのゴタゴタが今も続いている。当初の1300億がゼネコンの建設予算の計算で、3000億となり、内容変更で「2520億円」の建設工事費に国民の大反発がある。
「コンクリートから人へ」の政権奪取の民主党は、ダムの工事差し止めや高速の無料化や、国民への社会保障などの改革へ取り組んでいた。デフレの中で社会経済の低迷からの解決へと繋がらない中で、鳩山首相の沖縄基地の身勝手な発言で党が揺らぎ、大震災での管首相の原発対応で民主は、国民の信頼を失い国民の「政界再編」による日本は変われると言う夢までもを失墜させた。今後も民主での政権奪回は無理で、野党が各党の主張を分け合わないと実現しなく、共産党の主張への国民の理解が選挙ごとに高まっている。
南三陸町に留まらない被災地の「復興計画」の予算算出は、UR都市機構が町から委託され、平時の工事費とは違って、ゼネコンの「言い値」で早期の工事が進められている。そこには競争意識は無く、国の復興の為と言う名目の元で、過剰な予算もそのままで議会通過している。政治家と官僚そしてゼネコンの癒着関係が再現している気がする。
民主が「コンクリートから人へ」の改革で、建設会社の低迷が続いていた中で、大震災とオリンピックによる建設業の特需が後6・7年続く。しかし、こうした作り出された特需は終わり、更なる氷河期がやって来る。日本の人口減少の理由は「お金による幸福」からの脱却が必要と思う。ささやかながら楽しい生活で、子宝が最高の幸せと思える社会環境造りが大切だ。禁欲に走る人間の拡大は日本の滅びへと繋がる。

お盆なのに又よけいな事を考えている自分がいる。沼田第一仮設には現在40世帯が暮らしている。最後の集約で病院・役場に近いこの仮設は最後まで残る気がする。
宮城県議会議員選挙の「気仙沼・本吉地区」は、3人の定員ながら現在まで気仙沼のみの5人の出馬で推移している。以前は本吉郡と言っても、今は南三陸町の一つでしかない。町で唯一だった県議が震災で議会を去り、現在町議の今野氏が我が町から立候補したが落選した。その町からの出馬の意義は大きいと私は思っている。人口7万の気仙沼市ながら、南三陸町も現在1.4万人が暮らす。南三陸町の問題点を県に訴える人が居ない事は、前県議の後継者対策を考えなかった事にある。我が町のトップの後継者も今は見当たらない。将来の不安ばかりが我が町にある。県内の農協も3つに集約され、新たな農政に動き始まる。この町はこのままで進む事は危険の何物でもない。登米市の合併は絶対してもらいたく私はない。

【 未分類 | CO:0 | TB:× | 09:40 】

2015
08/12

毎日の地震の発生に地球的規模の異変の予兆を察知する


沈む太陽に将来の町の危機を感じる。多くの遅すぎる町の対策に空しさを感じるが、何もしない訳にはいかなく、後戻りも出来ない今の現状を嘆く。
圧倒多数の自民の奢りが、2期目の議員の「暴言」「国会議員の重み」など、多くの先人の時代の検証・修正に敬意を表さない発言があり、信念と言い切る事は、いくら謝罪しても心の奥底にあるもの、決してこの間違った信念は変わる事はない。人の意見も聞かない行動に、政府も総理も辞任と行かない、今の政治状況があり、国民の声に耳を傾けない姿は、数に寄る総理の暴走と私は捉えている。公明党からの度々の指摘も、共闘の中でなれ合いと、国民の指示のみを気にする行動に見える。
総理の企業と共に原発の世界への売り込みがあり、その安全性を示す為の行動と思う。アベノミクスの堅持を主張し、経済の好調を維持する為の政府の経済行動に感じる。今年の夏の猛暑でも電力不足とはならない中で、川内原発の再稼働に国民の疑問があり、震災の福島原発の放射能の驚異に周辺の市町村の不安は消える事は無い。広島・長崎の原子爆弾投下の、口にも出す事もはばかる悲劇の映像に、見て感じる事で犠牲者の追悼と言う精神を私は持ち続けたい。
「安保法制の堅持」は安倍総理の米国との米議会での「夏までに成立」の約束は、自分の発言は絶対的と世界に向けた発信と、強い自分の主張の表れが日本の為と、一部勘違いがある。
政治は党の為・自分の為である事が、今の政治の問題から感じる。一代目の復興大臣の平野氏の岩手県知事の出馬断念があった。民主から自民への鞍替えがあり、議員から知事への目論みも、自民の支持率低下で、達増知事との選挙で勝てないとの判断だからか、信念のブレが政治家の政治家としての決断で、計算ありきの精神は県民に受け入れられない気がある。幾度も無く震災問題で対面し、被災地の問題を問いかけた時の、「何でもやります」との目の輝きを私は感じていたのだが。
2011-04-11 13.59.19
今日の写真はアリーナの大駐車場の防護壁に沈む夕日と、震災3か月後の同じ場所を撮影した写真です。大きな山に杉の木が生い茂り、その前では多くの被災地支援のテントが立ち並んでいた。
この場所の広大な山地の開発に、どれだけの時間が掛かり、その影響がどんな形・時間で出るかの、行政の判断の誤りは町の危機的な帰路に立っていた。誰の為の町再建を思い「人災」であるとも思えてきた。4千億以上もの多くの国民の血税を無駄に費やした事としたら、その責任は重い。また一人、町の住宅再建から脱退した。
日航機墜落から30年が経った。あの早朝からの報道にお盆の時期ながら、事故の経過を見守っていた事を思い出す。
今日の朝に、当時の機長の娘さんが日航機のキャビンアテンダントとして、父と同じ職場を選択し頑張っていた。ボイスレコーダーは最後までの飛行機を立て直す、機長の行動に519名の遺族もその行動を理解してくれた。「乗客を死なせた」と遺体安置所での母と娘に向けられた視線・声に苦しんだと話す。彼女も46歳となり高校生だった16歳から30年の辛い日々がある。父を信じ父の背中を見て意思を継いだ行動に、私もそんな事を再確認させられた。自分の人生に悔いの無いような生き方を求め、人からの忠告には信念・行動の再確認を日々重ねながら、真摯に向かい針路変更を模索する、自分の事よりも周囲の人達の事を今後も考えて行きたい。
盆明けには昔お世話になった近所の人で、未だに仮設で生活をしている方を、新装オープンした民宿での食事会を計画している。

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2015
08/11

あいつの生まれた場所


突然の電話だった。昭和31年生まれの同級生のリーダー的存在と私は彼を思っている。勉強・スポーツ万能で、優しさと人の間を取り持ち、仲間への思いやりも欠かさない、そんな「奴」だった。私は近づきがたい人間として、小学校時代から同級生だったが、高校で初めてクラスを共にしながらも、羨ましい存在と遠くから見ていた。
彼は「夢」を求め大学に、そしてまた大きな夢を持ち前へ進んでいた。高校を卒業してから、志津川と東京で暮らし互いの多くの問題の中で生きて来た。私の会社に突然、奥さんと子供と帰郷の折に顔を出してくれ、親友でもないのにお土産を貰ったと記憶する。そんな生活が続いた時に、チョットした彼への指摘に途絶えていた繋がりが、昨日の私からの謝罪で、互いの環境を理解しあった。
「・・・何処にいったの」「大丈夫なの」と仲間を気遣う電話だった。父親も知っているし、母も津波から逃れたと聞いていた。私の両親と同じ年齢で、お母さんはと聞くと「転んで入院中」と聞く、みんな同じ生活の中にあった。彼だけは未だに自分の目標とする人間に近い。
そんな彼が住んでいたのが、写真を撮ったこの場所あたりにあった。こんな事を思い自分は以前の土地に店を構え、「多くの仲間と昔を語り合いたい」と、細やかな今の目標を描く。
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大森町の残った高台の集落の前にも、震災前は1m位防潮堤があった。現在は写真のようにそんなに高くない3m堤防が出来ている。海抜から考えると8.7mになり、津波襲来の高さと同じだ。
還暦を前に「昔が愛しい」、昔を思うと生まれてからの事が一つ一つが、走馬灯のように蘇ってくる。塔婆を立てた時も「のぶたか君」と商店街で声を掛けられた。仙台で震災前までは教頭をしていたが、今は校長になっているかも知れない女性です。志津川高校3年4組の仲間は素晴らしい。しかし、指折るだけで4人が亡くなった。助けてあげられなかった近くの仲間達、何もできなかった事を悔やむ。みんなの分まで町を見続けて行きいと思う。だって大好きな志津川町だから!


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2015
08/10

昔のような親水体験はできなくなくなった町


昨日は同級生仲間と大津波で亡くなった10名を含めた、還暦を前にした同級生の物故者供養塔を、竹川原の大雄寺の墓地入口に建立した。眼下に志津川湾を望む場所で、志津川の風景を一望できる眺めの良い所、お盆の時は仲間のみんな是非お参りをして欲しい。
1時間がかりで4寸角の3.2mの塔婆を仲間5人で分業し建立した。お盆の前の日曜とあり、第一駐車場はお墓掃除の町民でいっぱいだった。11時過ぎ食事に「志津川仮設商店街」に行くと席は満席で、食事の場所を入谷地区の蕎麦屋さんに変えた。落ち着く店で「天ぷらざるそば」が、美味しかった。そのうちに紹介したい。
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写真は竹川原の仮設場所から撮影した水尻川で、天気も良く釣り客がのんびりと釣りを楽しんでいた。見て分かる通り夏草で周囲は覆われ、他県からの建設会社の事務所と、重機の貸し出しの会社の土地利用がされていた。この仮設には知らなく初めて来てみた。二棟の仮設で10軒ぐらいがあったが、5年目を迎え2号棟だけとなり、平屋が奥の敷地に建設中だった。何もない小さい高台に10軒余りが肩を寄せ合い5年目になり、多くが町の再建事業を待たず移転して行ったのだろう。
入谷地区にも国道から離れた場所に、業者の土地整備造成場所があった。風光明媚な場所で人気も上々と言う。「もう、待てない!」が町民の考えだろう。昨日の日曜日の「ニュースを追って」の記事に、25年後に8千人の記事で「町民の危機感共有必要」とあった。自分の生活再建で大変なのに、町の将来など考える余裕は被災町民には無い、高齢者ばかりの町に、残った若者の子供たちの将来を思うと、何が未来の町と子供たちの為にと、町長の日々話す言葉に未来の町など想像もできない。
町広報に驚きの記事があった。7月1日からのアユの解禁での遊漁料金は分かるが、カジカ・ウナギにも釣るのに料金が掛かる。一日券が100・500円で、一年間で3000・500円と、大人・子供に遊漁料が掛かる。鮎は理解するけどカジカ・ウナギは自然の産物、来町してくれて水に親しむのにもお金が必要は、ありえない。
私の幼い時代は海で春先はふのり・ツブを取り、夏前はハゼ・オオガイなどを釣って楽しんだ。なんでも商売の考えがあるが、自然の維持に魚貝の繁殖にどれだけの経費を掛けているのだろうか。町民や来町してくれる人達の南三陸町の幸を、少し「おすそ分け」の精神があっても良いと思うのだが。

諸々の町づくりの在り方に、益々この町がいやになってくる。そんな感情が人口減少を生み、今頃対策を講じても人は戻らない。

【 未分類 | CO:0 | TB:× | 07:22 】

2015
08/09

志津川市街地の復興の今がここで判る


8月4日に開通した市場までのう回路ができ、大森から本浜までの道路が全面通行止めとなり、防潮堤10mと志津川市街地の嵩上げが一体化して、新しい志津川市街地の整備がされる。
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私が暮らしていた「本浜町70番地」は昔この嵩上げ大地の先に有った。何とか同じ場所に土地が縮小され確保できた。そこで何をするかはまだ構想中だが、今までいた場所に戻りたいと、私の心に強くある。こんな被災地の現状から、こんな事を可能にし実現まで考えている町民は私ぐらいだろう。低地部市街地ができ5年間は何かをすると考える。これから8年位と捉え、その時は67歳を迎える。土地は税金の物納を描くが難しいだろう。
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この道路の頂点から以前の湾風景を望む事ができる。この辺は今から54年前のチリ地震津波が、海岸線を呑込んだ場所の避難場所にあたる。当時5.6mの津波で市街地の半分は浸水したが、土地の嵩上げもなく町の再建がされ、54年目に三陸から福島沿岸で発生した地震で、22mの津波が市街地の町並・歴史を破壊した。私は確実に町民が逃げれる「大型避難道整備」で町を再建する事を望み、津波防災は町民の再建を一早くできる「町つくり」を議会で言って来た。しかし、行政トップは「職住分離」を掲げ、多くの町民が町再建を待てず町から去った。
最後に決めるのは住民で、私は今の結果に全力で町で生きる事を決断している。

【 未分類 | CO:0 | TB:× | 07:33 】

2015
08/08

志津川の街並みが写真で残った。


震災前に同級会が昭和63年1月1日に大森町の「東京家」で開催された。昭和46年度志津川中学校卒業生の32歳の女性の厄年の同級会の記念誌に、当時役場の職員だった仲間が町の資料の、航空写真を提供してくれた。私たちの仲間の多くは町に残っていた。
家督として漁業・農業・自営業や、地元の若者は「遠洋・沿岸漁業」に従事し、役場の職員として津波で亡くなった2人の他に2人が勤務していた。大型船の遭難で2人が亡くなり、病気・交通事故も多く、一人で苦しみ悩んだ仲間の自死もあった。今回の大津波の役場以外の犠牲も少なくない。
還暦の「角塔婆」には24名の名前を刻み、同級生・仲間の冥福を祈り、「忘れてないよ」の思いを込めた。
24名の死は私に多くの「生きる事の大切さ」を教えてくれ、どんな苦しみがあっても「前向きに」生き歩む事をだ。仲間の事を思い出し「当時の事を語る」、これが供養であり、避けて通る事をしない。仲間の分まで、生まれ住んだ「志津川町」の事を語り継ぐ役目として、いまを捉えている。後戻りでない将来への「警鐘」で、周囲に今後同じ苦しみとならない活動として生き続けたい。天命が訪れるまで。
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仲間の街の資料提供はこんな形で役にたった。多くの仲間は記念誌を持ってないだろう。たまたま高台の倉庫に、過去の自分の作品として残っていた。この写真の町並の中央に私の故郷である家が見える。それは一生変わる事はなく、それくらい愛着のある綺麗な町で、決して知らない建設家の造る町並ではない。今、町がつくりだそうとしている町は、デザインコンペによる町民以外の構想がある。「中橋」「港橋」など、町民が参加できない町づくりに、愛着なんて持てる訳もない。多くの町民会議の意見など、ただ聞き取るだけで、大きな造りは他人任せの観光都市の再構は本当に町民の為なのかと、毎日自問自答を繰り返している。
退職・現職だった多くの役場職員が再建で町を離れ、祖父母・子供たちの3世代家族が、子供の為や親の事を考え、町を離れた。将来に繋がらない住民形成が町にある。生活が大変だから、子供達の為と町から出る選択は、自分の故郷を無くす事に繋がる気がする。「共に生きよう」は難しい事なのだろうか。
寂しい・悲しい・苦しい・辛い・・、こんな多くの悩みを語っても、生活が良くなる訳でもなく、今を楽しむ事をしようと日々言い聞かせている。

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2015
08/07

熱中症で今夏初めて町民が犠牲に


昨夕のニュースで「南三陸町」の名称で耳を傾けた。85歳の高齢者が家の中で倒れているのが見つかり、病院へ搬送されたものの死亡が確認された。テレビの家は立派で新築されたものと思う。新たな場所での生活再開は、以前の集落での繋がりと同じとは言えなく、近所付き合いや浜沿いの高台、家族の生活の為の分裂など、健康維持や管理に多くの不安を感じる。
我が家は工業団地の中の住居なので、近所には工場で働く人だけしかいない。父に気を配るのは私と従業員一人で、常に言う事は「できるだけ自分の事は自分で」だが、92歳の父には過酷かもしれない。自分の部屋にはエアコンがあり、温度計を「22℃」に保つ事を心がけている。年のせいか「温度感覚のマヒ」を感じる。部屋が寒すぎると指摘をする。昨日の南三陸町は県内2位の「36.6℃」だった。
昨日は父のお客さんがあった。2か月に一回ぐらいの割合で、水戸から被災地支援の布教活動の、拠点として我が家を利用している。父の会話相手と考えているが、父の一つだけの部屋を使い、朝から布団揚げと掃除に「ブーブー」言っている。自分が負担とならない事をして欲しいと朝話した。
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ホヤを頂いた日から1週間が経つ、また、ホヤが恋しくなる。グロテクスながら「ホヤは貝」である。夏のホヤは厚く、綺麗に本身だけを刺身にし、酢しょうゆでキューリや青しそを添えれば、高級料亭の一品と思う。独特の甘さは何とも言えないが内臓と見栄えが、一部の人達と日本以南の人は苦手という人が多い。一週間前の食卓は「ホヤ三昧」で暑い夏にビールも進む。こないだも「ホヤ食べる」のお得意さん奥さんの声に、喉から手がでるくらいの気持ちながら、いつもお世話になっいるので「欲しい」とは言えなかった。朝仕事でのホヤ加工の時間を今はおしい。
先週の石巻市の灯篭流しをテレビで見た。「鎮魂」そのもので、ここには商売と特化した姿勢は無い。石巻の突端の海岸線の集落は全滅し、多くの市民が亡くなり、死者を思い霊を癒す光景がそこに広がっていた。靖国神社参拝で英霊を祭る場所ながら、若者たちの相手探しの場となり、出店を廃止した。静かになった参道に毎年通う人達は、昔のようで落ち着くと言う。何でもかんでも商売としようとする姿勢は、何処か間違っていて違和感を私は感じる。

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2015
08/06

もたれ合いは政治にはなくならない


広島原爆から今日で70年を迎える。20万人もの死者を出す米国の原爆投下は、戦争の終結への大きな決断材料と言う。しかし、この原爆投下は広島県民に他人には理解できない、苦しみと悲しみがあり、引き起こしたのは人間であり、私たち人類にある。真珠湾攻撃の日本の太平洋戦争の戦線布告は、資源をない日本にとって破滅でしかないが、日本人の魂の「身を捨てて国を守る」の精神での行動は、米国での「人間特攻隊」の驚異を、日本国は神風と言ったのだろう。
昭和天皇の日本国民を愛し「守るこころ」がある中で、軍部の横行がその蔭にあると歴史家は言う。一部の国を司る人達の「国を守る」が故の行動が、間違った方向へと進む。日本の戦争突入もこうした当時の多くの国との関わりから、過剰な考えと判断が数の論理で実現した。
国民はしっかり政治家の行動と考えを見聞きして、政治の方向性の修正を果たす義務があり、まだ修正は遅くはない。「民主主義」の日本、無関心は愛する「日の丸」我が国を滅ぼす危険「黄色信号」に近づいている気がする。
オリンピックの日本開催は、大震災で地方が崩壊しそうなこの時期に必要だったのか。2520億円の国立競技場は、当初1300億円の建設費を想定し、資材・労働力不足で、二倍までとなった。気仙沼線の再建経費が1100億円で、日本の被災地再建に国が全てを投じるとの当初の発言は「嘘」だった。政治家の政策は「日々時代に合わせて考える」と言う。震災から4年を過ぎ、まだ舌が乾かない内に、アベノミクスという一時的な景気高騰から、公共事業への予算投入が年々大規模となっている。UR都市機構への震災復興工事の丸投げは、ゼネコンの言い値での工事費と思うし、総てが国民の税金「血税」だ。
つくば市の総合運動場の305億の工事の住民投票実施は、8割が「ノー」を突きつけた。科学の街・若者が多く知識の街の市民の判断は、真剣に将来の街づくりを考える。まだまだ発展する「つくば市」でも、無駄な財政支出を望まない。将来の疲弊が見えている町に大きな維持経費がかかるものはいらない。
市場までのう回路の場所を見て来た。石巻からの右折は禁止と言うが看板の設置が無いようだ。被災し再健中の市街地の安全は大丈夫だろうか。新聞に南三陸町の死亡者なしの1000日達成が出ていた。

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2015
08/05

南三陸の珍味をどうぞ


昨日は長野県のジャガイモのお返しに、希望していた「ホヤの燻製」やホタテ昆布巻・若布・ジャコなどを発砲に入れ送り、贈り物の御付き合いをかたづけた。買い物は歌津の「みなさん館」で、ここでしか「ホタテの燻製」は売ってなかったからだ。生のホヤも売っていて中ぐらいながら「50円」と格安だった。帰りに韮の浜の知人の漁師さんで大阪の商品の目ぼしい物を探しに行った。ボランティアさんが来ていて、歌津の夏祭りを喜んでいたと言う。今は「ホヤの種挿み」で、高校生の夏休み期間のボランティアだと聞いた。写真の見事なホヤは友人から、大小30個はあっただろうか貰った。朝仕事に「刺身」「蒸しホヤ」を作り食卓に並べた、さすがに新鮮獲りたては美味かった。
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大阪から「東大阪支部ビアパーティー」の商品を準備できますかのお願いがあり、志津川の「揚げかま」「気仙沼のフカヒレ」や、海産物の南三陸町産のセット詰め合わせを準備した。何とか8日午後からのパーティーに間に合わせられそうだ。25個の商品を見ても支部の大きさが分かる。友好支部賞は昨年から「銀鮭1本尾頭付き」と決めている。驚きと好評だと連絡を貰った。南三陸産のブランド銀鮭が大震災の原発問題で関西での販売不振を聴いている。震災が風化しているように、原発放射能も収まっている。
昨日午後から新井田川の「大森橋」の所からう回路が開通となった。海岸道路だった市場への道は通行止めとなり、本格堤防工事が始まる。もう「曙橋」は渡る事も出来ず無くなるようだ。本浜から大森地区の昔遊んだ海水浴場までの道路の思い出も無くなる。
ホヤは志津川商店街の店舗では1個「100円」で、以前より大分安い。震災前は大きい物で女川町や、仙台の大手スーパーで「250円」もした。登米市のヨークでは小さいながら「100円」で販売していた。産地販売で南三陸町志津川産は、おおきいながら百円は嬉しい。聞いた話だが生で食す前に、蒸しホヤを食べると生も気にならなく食べられると言う。生の小さい物を二つに切りお湯に食塩を入れて、煮れば美味しく食べられる。甘みが増し熱々が最高だ。生で買いぜひ試して欲しい。

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2015
08/04

諸行無常の響きあり


今月の町広報を見ると結婚・誕生の欄は以前のような賑わいになった気がする。また、ワークショップに参加下さいの案内では、1.地方の安定雇用2.人の流れをつくる3.結婚・出産・子育てを考える4.時代にあった地域をつくる、これが国の「まち、ひと、しごと創生」の基本方針です。と言う。町再生の為に必要な事は震災後から、町に求められている事だった。
色々な事が町で開催され、町支援の継続へと多くの団体が取り組んでいる。いよいよ高台の土地移転も完成した部分からと、27年度中にも引き渡しされる。一日も早くと住民の願いが叶う。
天気に恵まれ三陸沿岸の「夏まつり」が、猛暑の中で開催され事故も無かったようだ。花火の大輪は夏の夜空に希望の光となり、被災地を照らした。
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入谷地区にホテル建設の看板が上がった。当初はJR東日本のホテル建設案が、被災地の民宿再建に支援との動きもあったが、花火のように儚く消えた。こないだ戸倉でも「青島荘」が震災から復興を果たした。お盆とあり初盆・回忌法要の家庭の法要に、厳しい宿泊事情に金銭的・場所がないなど、被災地事情で家族の悩みがあったようだ。今回のホテル建設は、年度内の高速道路「三陸復興道路」の完成に合わせ、インターの小森周辺に予定しているが、土地がないので入谷地区になりそうだ。人口の減少は影響ないのか心配だ。スーパーの17年建設にも多かれ少なかれ、建設内容に縮小はしょうがない。
私も被災地事情の中で経営に取り組むが、多くのお得意先を失い、多くの事業所も町への依存の中で、我が社の影響は大きい。改善? 対策?
は後継者が居ない事が淘汰され理由の第一だ。気仙沼市本吉の東京の大手印刷会社が、家庭内職としての「箱制作」のチラシを配布した。これにはきっと想定できない繁盛と疲弊の両方が潜んでいる。

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2015
08/03

道の駅には故郷の野菜や笑顔がいっぱい


登米市に震災後からお世話になった方の家にいった。「秋田の酒」と「夏菓子」を持って、頂いた物と比べても、つたない品で今できる事をした。帰りにはその陪以上の皿や鍋などを叔母さんは持たせてくれた。「欲しい人に上げても良いから」と、困っている人への心使いを欠かさない。
登米市の帰りは鹿賀野にある「愛菜館」に回り、旬の野菜の「トウモロコシ」や「枝豆」「固いモモ」を買った。枝豆はさすが早取りで美味さが違い、トウモロコシも甘かった。この近くに友人がこないだ引っ越しをした。フェースブックで布施市長に「よろしく」と伝えた。
米谷街道の「道の駅かたくりの里」にも寄り、「トウモロコシないの?」と聞くと、「今年はハクビシンで食べられ大変」と言う。全国のシカやタヌキ等だけでないと思った。全国の鳥獣被害は500億に及ぶとの報道があった気がする。
「愛菜館」と「とめっこ亭」での登米市の団体の道の駅は、施設と大きさのわりには人影は疎らだった。我が町の「ショッピングモールと道の駅」での、町の商業の再建は大丈夫だろうか。「頭でっかち」の「机上の論理」とならないよう、今からでも検討を重ねた方が良い。「高齢化社会の町に「箱物」はいらない。」、こんな住民投票に地区民はノーと答えていた。
最低限の公的施設で経費削減は当然の、行政の取り組みである。「大きい事を町の再建で必要だ」と言った方がいたが、私はこれまでの経過から修正が必要と思う。「そんな勇気が町には無いだろう」と防災庁舎や鉄路復旧の問題から思う。震災前と同じ「あやまち」とならなければ良いと思う。
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母の施設に行って驚いた。寝たきりで口もたたかなった母が、病院の婦人科診断でカリーム不足の値で、薬でカリュームを補充した。そうしたら食べるし冗談?も父に話す。私の名前も言うし嬉しいのか、これから又大変となるのか、生死の狭間を5回も体験している人間は強い。母にとり家族にとり、どちらが幸福なのかと考えさせられた。

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2015
08/02

朝4時30分 志津川の夜明け


二階の窓から西の空の「朝の月」を見る。日の出はもう水平線から顔を出しているか? と、荒島海岸へ急いだ。日々の繰り返しながら太陽は私を待ってはくれない。こっちから急いで出迎えに行った。良かった!
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穏やかな志津川湾の「満ちては引く波」、ボーとその繰り返しを見ていた。砂浜に打ち上げられた貝に混じり、未だに家族の元に帰っていない「形見」を探した。石ころにも強い愛着を感じる。荒島の砂浜には昔のように多くの綺麗な貝は、探せども掘り返しても見つからない。自然が変わってしまったかのようだ。

いま太陽は荒砥崎より登り、荒島の砂浜には「私ひとり」だ、今日も私の後に誰かが日の出を見にやって来た。
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皆さんの大好きな「故郷風景」は何処ですか? 綺麗に風景を撮ろうとするが、そんな事は必要が無い事を知る。「ここにいるだけで」「自分の心が自分の生まれた海と一つになる」、そんな抱かれる揺り籠のように故郷の海を感じる。海は母であり、山は父なのだろう!

やむを得ず故郷から別の場所に去られた皆さん、志津川の海を、町を私は生きている限り見続けます。しかし、守る事は私一人では無理な事を、やっと解った気がする。上手に生きれない自分がここにいます。志津川は変わる事無く皆さんの「こころ」に居ますよね。

【 未分類 | CO:0 | TB:× | 05:58 】


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